• 締切済み

キリスト教 洗礼?

kigurumiの回答

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.5

No.3です。 >エホバの商人というと、あまり言いイメージがないので、心配になりました。 他のキリスト教団体はエホヴァの証人はカルト、キリスト教じゃないと言っています。 どこが他のキリスト教からすれば許せないと攻撃されているのかというと、イエスは神の子ではあるが、全能の神自身ではない としていること。 世界でも問題になったのが、輸血の拒否。 血を分けてはならないと神が言ったので、交通事故で意識不明で輸血をしなければならないとなったとき、親は子供もエホヴァの証人なので輸血をしないと輸血の同意をしなかった。 輸血無しに手術をしたため、大量出血で亡くなってしまった。 神に運命をゆだねたわけです。 神が子供を自分の手元に置きたいのなら、そうするだろうし、まだ 生きてなにかしらする必要があるとするのなら、子供は手術後も生きるだろうと。 とても信仰深かったわけですが、他のキリスト教徒は、なんてひどい親だ エホヴァの証人はひどい となった。 我が子の輸血に同意し、子供がHIVウイルスに感染した場合、どう言ったのでしょうね。 神のいいつけを守らなかったため、子供は苦しんで死んでいった となるのでしょうか。 まあ キリスト教団体は信者獲得のための、他の派閥を攻撃するってのは、初期の段階から今までずっとやってきたこと。 東方教会と西方教会で主導権争いをやったんですね。 西方教会はパウロ派です。 聖書を作ることで、「これがキリスト教の教義だ」ってしたんです。 で、今の主流の聖書はこの西方教会が編纂した聖書を使っており、信者は聖書の言葉として、コリントなどに書かれている言葉を使う。 ちなみに、コリントの使徒への手紙や、ティモテへの手紙はパウロの言葉であり、イエスの言葉では な い。 信者は熱心にコリントの内容を言うので、パウロを神だと思っているんじゃないか と。 イエスによらずパウロ神によっているわけです。 >カトリック、プロテスタント、という2大派閥??のどちらかを選んだほうが良いのでしょうね。 カトリックでは、神と対話できるのは法王だけだとしており、教皇は神と同等の権利を持っているとしており、一般信者は神と直接話すことは許されておりません。 御願いがあれば、神の地上の代理人の教皇言え、決して神に直接直談判するなってわけなのです。 ですが、イエスを生んだマリアは人間なので、マリアには直接御願いをしていいことになっています。 カトリックの特徴は階級社会です。 会社のように会長、社長、副社長、部長、、、とランクがあります。 プロテスタントには、階級はありません。 牧師も信者の一人であり、牧師と信者の身分は同じ としています。 だから、プロテスタントは牧師を崇め奉るということはありません。 牧師も信者の一人にすぎない としています。 カトリックでは結婚は神が引き合わせたとし、従って離婚は許されません。 池田万寿夫さんはパートナーのヴァイオリニストの佐藤陽子さんと添い遂げ、佐藤さんを女神のように敬愛していたのですが、二人は籍をいれていませんでした。 なぜなら、池田万寿夫さんの本妻はカトリック教徒だったので、離婚できなかったから。 他のカトリックは避妊も中絶も許されません。 だからカトリック教徒は子沢山。 カトリックは一つ、本拠地はヴァチカン市国です。 全世界のカトリック派閥をとりまとめしているのは、ヴァチカンです。 それに対して、プロテスタントは大まかにいえば、カトリック以外 のキリスト教系団体みたいなもの。 (厳密に言えば、東方教会としてギリシャ正教とかロシア正教とか、イギリス国教会とかありますので、カトリックかプロテスタントかどっちか だけじゃないのですが。) プロテスタントはカトリックに抗議・異議(プロテスト)を唱えた団体の総称。 独占でこうだって決定されて、信者は上の言いなりになるしかなかったわけですが、上の言う見解に意義を唱えて「おかしいんじゃないか 信者だって直接神に直談判してもいいんじゃないか」と思ったのがルター。 たった一つだった西方教会のカトリックという巨人にダビデのように挑んだわけです。 で、後に教皇の見解とは一致しない信条を持つ人は、カトリックから分裂して、「これが本当のキリスト教」と自分の考えをキリスト教だとする人達が出てきて、プロテスタント、カトリックに異議を唱えたキリスト教系団体って呼ばれるようになったわけです。 なので、カトリックは教皇も神父も見解は一つですが、プロテスタントになると、牧師それぞれも見解が違い、同じ牧師の元に集う信者同士も見解が一致しない ってことはザラにある。 だから、プロテスタント系の派閥に入っていた人が、詳細になると見解の相違が生まれ、さらに別の教派を作っていくってこともザラにある。 で、どう違うのか、何と比較してどこが違うのか って表にまとめた人はいないので、入ったあと、「あれ ここは同意できないな」ってことも発生するんじゃないか と。 ただ、牧師(プロテスタント系の聖職者)は自分も信者の一人なのであり神ではないので、必ずしも正しい理解をしているわけじゃない とし、自分が束ねる信者の一人の見解を「間違えている」と真っ向から否定するってことは し な い。 ちなみにプロテスタントでも、酒やタバコ、コーヒーを飲んでいいか とか、性交の体位の制限とか、避妊や中絶、資産を増やしていいかどうか とか いろいろ違うんです。 いきなり教会を訪れ、「酒 タバコ コーヒーは禁止ですか?」 は聞けても「お宅のところは性交の体位は定められていますか?」とか聞けないじゃないですか。 「自分を鞭で打つことを奨励している団体ですか? それはすっぱだかでやるんですか? 何回 どれくらい 自虐をすると良いとされていますか?」などすぐには聞けないじゃないですか。 だから、数年は日曜ごとに教会に通って、信者と交流を深め、その教会の特徴を徐々につかんでいくしかない。 >バプテストという教会でした プロテスタントですね。 再洗礼主義派閥。 アメリカはヨーロッパから宗教を逃れてきた人達で作られた。 だから19世紀の終わりころまでは、キリスト教信者の移住者は、穏やかに細々と信仰をしていたんです。 その頃までは、ヨーロッパのようにキリスト教会が権力をふるって 我が者顔で人に生き死にを支配していないアメリカだったわけです。 ところが世界大戦が起こり、ベトナム戦争が起こった頃には、自由すぎることに彷徨う人達が続出し、拡散(自由)に困惑した人々は、縛りを求めるようになり、そのニーズにバプティスト系がマッチし、たちまち人々は再洗礼されたことで救われたとなったわけです。 グッドタイミングだったので、たちまちパブディティスト系は大きくなり、やがてイラク戦争に信者をかりたて、無実のイラク市民を虐殺させた。 さらに、無実のイラク国民を虐殺させたブッシュを我が主 救世主ブッシュ閣下と崇め、もう一度 もう一度 もう一度 と再選させた。 「もっと縛って、鞭打って 自由を奪って、こうしろと私のやることを命令して、その通りに動くロボットににる。自我を捨て融合する」と人々はコマンド(命令)を甘美なものとして心地よく思った。 そして「あなたも個を捨て我々と融合し一つの生命体として永遠に生きましょう」とテレビを使って勧誘することになったわけです。 ちなみに、イエスは「大通りで説教するな、自宅で祈れ」と言っています。 信者はイエスの言葉を無視(笑) 自分こそ正しいとイエスではなくパウロの言葉を借りて、大勢のいる前で説教するようになった。 聖書の言葉を述べて、聖書は正しい、それを言う私も正しい、従って私が言うことはすべ正しい、従って私は正しい人であーーーる とやりまくった。 従って、聖書の言葉を大通りで語る信者は要注意。 ネットでも同じ。要注意人物なので、催眠に誘導されないように。 催眠にかかってしまうと、その人は神に近い人だと錯覚して、その人の言うことを疑いもせず信じてしまい、過ちを犯しても催眠が解けるまで気づけなくなってしまう。 >イメージですが、200名もいらっしゃったら、牧師さん(神父さん)との距離も遠くなってしまうのではないかと心配してしまいます。 交流会があるので、何度も直接話をする機会はあります。 例えばミサや礼拝の時、神父や牧師は説教をします。 カトリックはどの神父が解説しても同じなのですが、プロテスタントは牧師によって見解が違い、それぞれの牧師の聖書の言葉の捉え方がわかる。 さらにミサや礼拝の後解散ですが、食事を一緒に食べるということをやっているところが結構ある。 そのとき、話をすることができる。 200人登録信者がいたって、現実ミサや礼拝に出席する人は50人くらいでしょう。 さらに食事の時まで残る人はもっと少ないと思います。 もし、個人的な悩みがあり相談したいのなら、信者を取りまとめる人に神父や牧師と話をしたいが可能か?と聞いてみたらいいんじゃないでしょうか。 一つわからないことがあります。 自分はキリスト教の考えに向いていると思ったそうですが、どこらへんがですか? 口では平気で奇麗事を言うくせに、兄弟すら虐殺をしてしまうどうしようもなく、救われていないところに親近感がもてるってことですか? マザーテレサは最後に「神は救ってくれなかった」と恨みの言葉を吐きました。 彼女は世界一無償援助(つまり返さなくていい、寄付)する日本を、世界で一番貧しい国と批判しました。 自分の団体の寄付しない日本を悪く言ったわけです。 自分の団体に寄付しない奴はケチ野郎だって批判したわけです。 とても心が貧しい人でした。 しかし究極の心が貧しい人ではなかった。 究極の心が貧しい人は、神の前に立つことになるから。 <心が貧しい人は幸いである、天の国は彼らのものである> これをもって信者は清貧であるべきだとなり、信者は稼ぎを教会に寄付し、教会は富と名声を築くことに成功したわけです。 これは一般信者に対する言葉ではないと、私は思います。 心が貧しい人、心が打ち砕かれ、もう何ももっていらず、神しか頼るものが無い状態になった者は幸いである、なぜならそういう状況になったとき、やっと神の御前にたつしかなくなるから。 そうなったものが天の国を築く。 という意味らしいです、ヘブライ語によれば。 聖職者が、大通りで聖書の言葉を使い、さも自分が正しかのように言っているうちは、まだ神の御前に立っていない。 なぜなら人々の尊敬を集め うっとりしている状態で、神に頼らずとも天国にいるかのような気分にひたれるから。 人々からさげすまれ、名誉を失い、鞭打たれ、辱めを受け、すべての人から見捨てられた状態になったとき、初めて神の御前に立つことになる。 「神よ 何故私を見捨てたのですか」とまでになったときが、神の御前に立った瞬間。 マザーテレサも同様のことを言ったわけですが、、、彼女は神の前に立ってジャッジを受けたのでしょうか??? まっ、天の国はこのような心の貧しい人によって築かれるとされるので、、、、 ヨブ記ってあるんですね。 ヨブはすべてを神から奪い取られ、とうとう神の前に立ったわけです。 「てめー このやろう」って神に挑んだ。 まあ もうちょと上品でしたが。。。。 「私が一体どんなひどいことをしたから、こんな報いを受けたのか教えてください。私はおろかすぎて、この報いにいたった理由がわかりません、どうか教えてください」 人は時に「何故?」ってことありますよね。 どんなひどいことをしたから、こういう災いがあったのか理由がわからないってことありますよね。 ヨブもそう。 友人たちは、「自分でも気づかぬうちに悪いことをしたんだよ」とか言ったし、妻は「自殺した方がいい」とまで言った。 ヨブは納得せず、神の前に立ったわけです。 教えろ と。 知りたい と。 何故こんな目にあうことになったのか、理由が知りたいと。 実はこれ、神とサタンのゲームだった。 ヨブはなーーんも悪いことはしていなかった。 ヨブの作者は、自分の理解をヨブの悟りとして書いています。 お勧めですよぉ。 信者じゃなくても、ヨブ記は親近感もてて人にお勧めできますぅ。 一番のお勧めはニヒリストなコヘレトの言葉です。 信者じゃなくても、この哲学は現実生きている私に活力を与えるって思い、この書の前編をを手に入れるため、聖書買ってしまいました、高かった。。。。。 さらにこの書の解説書まで買ってしまった。 ちなみに旧約の方です。 新約を理解するには、絶対に旧約の理解が必要です。 新約だけでは、新約聖書のイエスの言葉は理解できません。 まっ、、、バプディスト系は危ないと個人的に思うので、、、、穏便な派閥なら、、、、ルーテル教会とかがいいんじゃないでしょうか。 温和な宗派で、社会貢献とか活動をやっていて、家庭的なところのようです。 (というか 前 聖書の勉強会に参加したことあるし、社会活動を協働でやったことあるので、怪しいところじゃないと太鼓判押せます。)

tartaric
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 バプテスト、ルーテル、カトリックという派閥があることがわかりました。 とても丁寧に書いていただき感謝しています。 ご回答の中で、「一つわからないことがあります。 自分はキリスト教の考えに向いていると思ったそうですが、どこらへんがですか」という質問がありました。 以前、友人に誘われ行った事があるのが、バプテスト教会でした。 家庭的なところ、牧師さんとともに同じ目線で食事を囲んだり、お話できるという環境に魅力を感じました。幼少より家庭に恵まれず、食卓で笑ったことがありません。 もう一つ、友人でクリスチャンが数名いるのですが、芯をしっかり持っている、傷つきながらも揺るがない何か強いものを感じています。私もそうなれたら、という思いもありました。 自殺未遂もあります。救いようがない私ですが、それでも許してくれる?生きるうえで何か強い見方になってもらえるような気がしています。 私事が長くなりすみません。 ルーテル教会を探したのですが、あまりなく電車で乗り継いでいかなければなりません。とりあえず(といっては失礼ですが)、近所の教会に行ってみます。 ありがとうございました。

関連するQ&A

  • キリスト教洗礼について

     キリスト教の洗礼を受けることを考えているのですが、どのような行動をとればよいのでしょうか。また、キリスト教信者の日常の行動制限や掟などの内実を知るための書籍などがございましたら、ご紹介ください。

  • キリスト教、洗礼についてです。

    キリスト教、洗礼についてです。 現在、日本イエスキリスト教団(プロテスタント)に通って救道者用の学びを受けております。 通い出して9か月くらいになるのですが、洗礼のことを牧師様が良く話すようになりました。 「受けなさい」とは言われないのですが、学び=洗礼ということを知り、洗礼を受けるべきかどうか悩んでおります。 洗礼を受けないとクリスチャンにもなれないし教会員にもなれなく毎週礼拝献金してますが毎月の決算報告書も頂けなかったり(これは構わないのですが)聖歌隊とか参加できない事も多く寂しい時があります。 しかし悩んでいる理由はこれだけではなく、もともと昔、洗礼も聖餐式もない無教会に通っていたということもあり、(無教会は受けなくても信仰により天国には入れるとの教えです) 本当に洗礼は必要なのか?洗礼を受けなければ天国に近づく事はできないのか?と考えが私の中にあります。 聖書を読んだり祈ったりしてますが答えがみつかりません・・ カトリック、プロテスタント、救道者などキリスト教関係者の方で洗礼された(もしくはしようと思った、しないと決めた)きっかけは何ですか?何かアドバイスを下さい。

  • 洗礼のお礼について

    キリスト教プロテスタントの信者です。 家族そろって洗礼を受けましたが、牧師さんにお礼や献金はしたほうがいいのでしょうか? よろしくお願いします。

  • どちらで洗礼を受けるか・・・・。

    私はクリスチャンになりたくて、ある二つのプロテスタント系の教会にそれぞれ週1回ずつ、一つは毎週日曜日、もう一つは毎週水曜日の礼拝に通っていました。邪な考えかも知れませんが、どちらの教会の方が自分に合っているのか確かめるため両方の教会に通い始めてもう1年以上になります。基本的な教えは同じで、聖書を元にしたものです。そこで困っているのはどちらも自分の安堵する場所になってしまいどちらが良いかを決められないまま、どちらの牧師からも洗礼を勧められています。洗礼を受けることには抵抗はないのですが、困ったことにどちらかに決めなければならない時期にきました。この場合、どちらかで洗礼を受ければ、もう片方を裏切ることになるのでしょうか?居心地の良さに甘えてしまった自分に反省しています。どう解決すればいいのか、、洗礼を受けない方が良いのか、それともどちらかに決めるべきでしょうか?

  • キリスト教徒と名乗って良いですか?

    教会に通いはじめたばかりなのに、良く友人から「キリスト教徒なの?」と聞かれます。 そのつど「通っているだけでまだ洗礼は受けていない」と答えています。 でも洗礼の意味さえ知らない人もいて面倒です。 私は神様は信じているし、聖書も友人に対して詳しいと思われています。 でもレベル」は低くて神社にも行きます。 正式に洗礼を受けていないとキリスト信者とは言ってはいけないのでしょうか?

  • キリスト教徒の彼と洗礼の意味

    はじめまして。本当に悩んでいます。 現在アメリカで留学中の学生(女)です。 こっちで知り合った男性(アメリカ人)と最近仲良くなり、 食事へ行ったりと遊ぶようになりました。 彼はキリスト教徒でありプロテスタント教会へ毎週3日通っており、 会員の一員です。週に一度、聖書を教えるまでの立場にいます。 本当に誠実で、優しく、とても惹かれていました。 私は以前から特に宗教を意識したりしていませんでしたので、 クリスチャンの友達に誘われたりした際は、教会に足を運んでいました。神の存在に関しては否定はしません。 むしろ、自分自身を信じたり、相手を信じたりすることで 心は確実に豊かになると思っています。 最終的には我々の心の持ち方次第だと信じています。 少しばかり聖書に興味がありましたが、 クリスチャンになりたいとは一度も思ったことがありませんでした。 ここからが一番の相談です。 彼と出会い、頻繁に連絡を取り会うようになった最近、 「一度教会へ来てみたら?」っと軽く誘われました。 私の上記の価値観なども彼に話していましたし、 宗教加入は、強制するものではないと以前から認識していたので、 特に抵抗もなく訪ねてみました。 サービスが終わりに近づいた際、 彼が「神を信じられるなら、牧師の前に移動しないか?」 っと言ってきました。 なぜ前方へ移動しなければいけないのか分からず、 理由を彼に聞くと 「ただ牧師の前で神を信じられることを言うだけだよ」っと。 その日は初日でしたし、今度じゃだめなのかと聞くと 「今日のほうがいい、僕も一緒に行くから」っと言われました。 そして彼に手を引かれるままに牧師の前に連れていかれ、 彼は何も言わず席に戻ってしまいました。 結局、メンバーの女性に訳も分からぬまま別室に連れて行かれ、 洗礼を受けるための準備が進められました。 まったく洗礼に関しては無知識だったので、 準備が進む中でも、これから何が起こるのかまったく 理解していませんでした。 嘘のような話ですが、 あれが洗礼だったと認識したのは家に帰り、ネットで調べた時です。 洗礼とは、キリスト教にとって最も重要な儀式であり、 神聖なものと知りました。 この事実を知った時、信じられない思いと、 どうしてこんなに大事な意味を持つ儀式だということを、 前もって説明してくれなかったのかと彼に対して思いました。 洗礼を終え、再度席に戻るとメンバーからハグされましたが、 その意味もまったく分かりませんでした。 彼はというと、笑顔で「今日からキミは家族だよ」っと。 家族という意味も分からぬまま、帰路に着きました。 その後、聖書をプレゼントしてくれました。 一度は彼の心を知ろうと聖書を学んでみようと思いましたが、 ネットなどで「洗礼」の意味深さを知れば知るほど、 心は彼から離れていきそうで、怒りにも似た感情も覚えます。 彼はというと、私と付き合いたいと今言っています。 どうしたらいいのか今分からなくなっています。 彼と距離を置くべきか、それとも彼に疑問を投げかけるか、 私が無知識でいたことの否は認めますが、 どなたかこんな私にアドバイスをください。

  • キリスト教徒の方に質問

    私は非キリスト教徒です。 でも、ミッションスクールを出てますので、キリスト教には少なからず関心もありますし、理解もあります。 私は学生時代、はじめてキリストの教えに触れたわけですが、それ以前に、信仰というものを訝しく思う思想にも触れています。無神論とでもいいますか。 しかし、それを認めつつも価値観としてキリストの教えを心の中に持ち続けることは、あってもおかしくないし、キリストの生き方に共感しても良いのではないかと思ってます。 そんな私はふと思ったのです。 信者の皆さんは、自分の信仰を極めてみたいと思ったりしないのかな?と。 たとえば神学大に進学して、牧師になってみたい!とか。 どうなのでしょうか?

  • 洗礼とは・・・

    はじめまして。本当に悩んでいます。 現在アメリカで留学中の学生(女)です。 こっちで知り合った男性(アメリカ人)と最近仲良くなり、 食事へ行ったりと遊ぶようになりました。 彼はキリスト教徒でありプロテスタント教会へ毎週3日通っており、 会員の一員です。週に一度、聖書を教えるまでの立場にいます。 本当に誠実で、優しく、とても惹かれていました。 私は以前から特に宗教を意識したりしていませんでしたので、 クリスチャンの友達に誘われたりした際は、教会に足を運んでいました。神の存在に関しては否定はしません。 むしろ、自分自身を信じたり、相手を信じたりすることで 心は確実に豊かになると思っています。 最終的には我々の心の持ち方次第だと信じています。 少しばかり聖書に興味がありましたが、 クリスチャンになりたいとは一度も思ったことがありませんでした。 ここからが一番の相談です。 彼と出会い、頻繁に連絡を取り会うようになった最近、 「一度教会へ来てみたら?」っと軽く誘われました。 私の上記の価値観なども彼に話していましたし、 宗教加入は、強制するものではないと以前から認識していたので、 特に抵抗もなく訪ねてみました。 サービスが終わりに近づいた際、 彼が「神を信じられるなら、牧師の前に移動しないか?」 っと言ってきました。 なぜ前方へ移動しなければいけないのか分からず、 理由を彼に聞くと 「ただ牧師の前で神を信じられることを言うだけだよ」っと。 その日は初日でしたし、今度じゃだめなのかと聞くと 「今日のほうがいい、僕も一緒に行くから」っと言われました。 そして彼に手を引かれるままに牧師の前に連れていかれ、 彼は何も言わず席に戻ってしまいました。 結局、メンバーの女性に訳も分からぬまま別室に連れて行かれ、 洗礼を受けるための準備が進められました。 まったく洗礼に関しては無知識だったので、 準備が進む中でも、これから何が起こるのかまったく 理解していませんでした。 嘘のような話ですが、 あれが洗礼だったと認識したのは家に帰り、ネットで調べた時です。 洗礼とは、キリスト教にとって最も重要な儀式であり、 神聖なものと知りました。 この事実を知った時、信じられない思いと、 どうしてこんなに大事な意味を持つ儀式だということを、 前もって説明してくれなかったのかと彼に対して思いました。 洗礼を終え、再度席に戻るとメンバーからハグされましたが、 その意味もまったく分かりませんでした。 彼はというと、笑顔で「今日からキミは家族だよ」っと。 家族という意味も分からぬまま、帰路に着きました。 その後、聖書をプレゼントしてくれました。 一度は彼の心を知ろうと聖書を学んでみようと思いましたが、 ネットなどで「洗礼」の意味深さを知れば知るほど、 心は彼から離れていきそうで、怒りにも似た感情も覚えます。 どうしたらいいのか今分からなくなっています。 このようなケースは珍しいのでしょうか? 彼と距離を置くべきか、それとも彼に疑問を投げかけるか、、 どなたかアドバイスをお願いします。

  • キリスト教にとっての「祈り」について教えてください

    信者の方、若しくは宗教関係者(宣教師、牧師、宗教家)にお尋ねします キリスト教に於いて、『祈り』とは何ですか? 漠然とした質問ですみません、  何を、何に対して、どのようなことを、どんな姿勢で、何を思って、 どのような面持ちで、キリスト教にとって「祈り」とは何ぞや? どのような行為なのか? どんな意味なのか? 何のためにするのか? 等々何か御教示頂ければ幸いです。

  • カトリックの洗礼について

    カトリックの洗礼について 洗礼準備期間中ですが、最近お勉強会が憂鬱になってしまいました。 原因は勉強会の長であるオバサン信者です、 最初は普通でしたが、 ちょっと不快な気持ちになる事が多くなりました。 小馬鹿にした言い方をされる時があります。 「あなたなんでここにきたの?」「他にもキリスト教会あるのになんでここなの?」 「興味を持った理由は何なの?」「あなたの私生活はだらけてて」 と、偏見で暴言染みたことまで言われます。 ストレスで足が向かなくなってきました。 、別の教会で勉強会を受けようかとも考えてます。 3度目しか通ってないのですが、おとなしく、洗礼まで我慢すべきか迷ってます。