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悟りを開く
「悟りを開く」どういったことなのか説明してください。 「悟りを開く」で辞書を引いて、記されていない言葉でお願いします。 真理と言われるものを説明できなければ「悟りを開く」にならないのか? 知識を頭に詰め込んでも、自身の思想が邪魔をして会得できない場合があり、その場合、悟りを開いたことにならない。 真理という知識を外から詰め込まなくても、内から生まれて、例えその真理を説明できなくとも、悟りを開いたことになる? でしたら、私的には 考えない・悩まない・迷わない ようするに「阿呆になった」 と言っていいのでは?と考えていました。 悩み考える人間のほうが良質なのではないか?
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「あほになった」これはいい表現ですね。 しかし少し違います。考えない、悩まない、迷わないからアホになったのではなく、分ってしまったからその事については「考えなくてもよくなった」「悩まなくてもよくなった」「迷わなくてもよくなった」んです。その上を行ってしまったのです。悟りは「全てにおいて悟った」か「その対象物について悟った」というように2つの表現がありますね。仏陀あたりは全てにおいて悟られたと思います。また悟りを開いた人間と無知の人間は似ています。あなたの言う「考え・悩み・迷い」を「欲」だとすると無知の人間はそもそもその対象物について知らないから欲その物がないと推測できます。悟りを開いて無欲になったか、もともと知らないから無欲か。結果的に欲が無ければ悟ったと同じ状態です。 >知識を頭に詰め込んでも、自身の思想が邪魔をして会得できない場合があり、その場合、悟りを開いたことにならない。 そうです。例えば金で大事なことは量ではなく質ですよね。悟りを開こうと無駄に知識を入れるというのは、たくさんの混じりけのある物質を混ぜるのと同じで最終的に金かどうか分からなくなります。金の質を高めたければ、一つ一つ無駄なものを取り去らなければならないのです。 >真理という知識を外から詰め込まなくても、内から生まれて、例えその真理を説明できなくとも、悟りを開いたことになる? そうです。私はそう思います。知識を入れてない分混じりけの少ない金な訳でその分純金に近いのです。(金=悟 とした場合) あなたのように考える人間は好きです。これを乗り越えて頑張って悟りを開いてください。私は王陽明の伝習録に出てくる「未発の中」を悟りとしています。求めた回答と違いましたらすいません。
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>「悟りを開く」どういったことなのか説明してください。 諦念 >「悟りを開く」で辞書を引いて、記されていない言葉でお願いします。 必要とされない身体的、精神的活動を諦めること。 不必要な怒り、心配、感情や思索、精神の衰弱をもたらし知的活動を妨げる肉体的な疲労を回避すること。 で、悟るには散々努力や思索を重ね情報量が飛躍等級数的となったところに、別腹のように新たに空き容量を確保させることで、鵜呑みにするのではなく、新たな見解、基準を組み変える判断によって「諦める」という結論が出せるのです。 「悟る=受け入れて微笑む」と「哄笑=真理を体現する」とすればどうでしょう。 「微笑み」は平安の象徴、癒しとして、禁欲的な肯定や、既成の価値観に対する従順を強い、一定の円環の中での洗練に人を封じ込めてしまう働きがあるように思われる。無関心を真似ることかもしれない。 一方、「哄笑」は自他に対する精悍な否定力や痛快なアイロニーが信条である。「哄笑」はすべてを笑う。硬直を笑い、偏りを笑い、行き過ぎを笑い、出来合いの価値観への埋没を笑う。また陽気で不躾であり、弾力性に富み、創造性と同時に破壊性を合わせ持つ。それに自他についての執着というものがない。「哄笑」には「微笑」のもつ一種の腐臭、湿りというものがない。(小野さとるさんの解説より)驚愕といえるほどの関心といえるかも。 哄笑するとは、余りのショックで、痛みの感覚に笑ってしまうことがある。皮肉な結果であるとしても、それ以上に縋る術や媚ようとするものではなく、絶望を直視したのであり、真理の痛快さに悟ったなら、これ以上に不必要な思索も関係もどうでもよくなり(?)これ以上に意気消沈することからも回避するものでもあります。 おわかりでしょうか?私はよくわかりませんが(汗)。
- QES
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>>考えない・悩まない・迷わない、ようするに「阿呆になった」と言っていいのでは? 他人と接触しない閉じ篭り生活限定なら可能ですが、 人間社会の中で生きるには好きな人とも嫌いな人とも接触があります。 また病気で苦痛を感じたり、金が無くて生活が苦しかったり、人生の岐路に立つと 「考えない・悩まない・迷わない」が容易ではありません。 つまり「考えて、悩んで、迷った」あげくそれを乗り越えて「考えない・悩まない・迷わない」境地に達することが悟ったと言えます。
- kobold
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元は仏教用語です その悟りをうるのが仏教の究極の目的なので、それを説明しているのが仏教と言っていいでしょう その仏教の解釈は各宗派さまざま異なりますが、おおざっぱに言って悟りはこういうものという共通の認識があるようです まず悟りには段階があります 低い悟りもあれば、高い悟りもあります 最高の悟りが仏覚です 共通して言えるのは真理を体得したと言うことです >真理と言われるものを説明できなければ「悟りを開く」にならないのか? 仏の悟りをひらけば、饒舌に話ができるようになりますが、そもそも真理が言葉では説明不可能なので、「説明できない」とも言えます >考えない・悩まない・迷わない ただ考えないようになった状態でも、今までの思考が残っていて、現実を自我というフィルターを通して見ているのでやはり迷っている(すなわち悟れていない)状態です 何かが分からない状態が覚りではないです 分かった状態が覚りというわけでもないです >悩み考える人間のほうが良質なのではないか? 覚りをひらく上で悩み考えるという過程は絶対に通らなければなりません 普通、悩み考え続ける方がいいと思うのは、一つのことが正しいと判断してしまうのが怖いからでしょう 間違っていたら大変だからです 悟りも同様で、「悟った」と思っても実は悟っていないと言うこともあります しかし本当に悟った人は、真理を体得しますから、それが間違っていたとなることはありません 低い悟りでは、退転といって、悟りが分からなくなることはあります
- 砲術長(@houjutucho)
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飽く迄も私見ですが 悟りとは 何故我々生命体が、産まれ・育ち・老いて最後に朽ちて行くのか? をつきとめる事。 尚この言葉は、仏教用語です。 真理とは この宇宙を動かしていると、言われている理 但し、その時代時代によって 解釈が、結構違うらしい 尚この言葉は、西洋哲学(キリスト教的)用語です。 また、悟り≒真理とも言えなくも無いので いつのまにか悟りと真理が=で結ばれてしまったのでは無いでしょうか? 最後になりますが 仏教では、煩悩即菩提(言い換えれば悩む事が即ち、悟りを開く事である)と 説いていますよ。 ですのであなたの考え方は、正しい考え方ですよ。
悟りとは、神、大自然の心と、人の心のチャンネルが、つながり、心が癒される事です。方法は、人の心の中には、脳の自我の世界と、大自然の無我の世界の、ふたつの世界があります。だから要領は、脳の思考を休めないと、悟れません。中国の老子は、脳を否定し、無知を奨めています。仏教は、自我を否定し、無我を奨めています。日本の伝統文化は、脳を休めて、心を癒す事を、目的にしてますから、実践すると悟れます。座禅、茶道、雅楽、文楽、能、歌舞伎、演歌、落語、民謡、義太夫節、日舞、浮世絵、日本画、中国の太極拳など、能を演じてる人の、脳波を調べると、前頭葉が休んで、後頭部が活発で、アルファ波になっています。これが脳の休んだ状態です。
すべてを引き受けること です。 無理をすることもありません。おっつけ仕事でもいいですから 引き受ける。あきらめない。無理なら無理と言う。できるところまで 引き受ける。 これが 《さとりを開いた》ひとの思想であり 態度です。 真理は さし措いてでも 引き受けたことを成し遂げる。これが さとりとしての生活態度です。真理は おのづから ついて来てくれるでしょう。
- shift-2007
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悟りと真理はいつからセットになったんだろう。 たぶんここが究極の勘違いの始まりなんだと思う。
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お礼
アドバイス、ありがとうございました。
補足
上記、上から二行をお答えください。