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自我の解体なさってますか?

noname#91067の回答

noname#91067
noname#91067
回答No.5

仏教からではなく、私論を端的に申し上げると自我の崩壊とは「逝く」です。 歓喜、高揚感、達成感とでも言い変えれますが・・・・? それでも言い足りないかも。 充満しピークに達すると学ぼうとすることも行為しようとすることからも放たれます。 用心したり注意したり、服従、征服あらゆる欲望が消えます。 無我の境地は何を原動力にするのでもなく、エネルギーそのものとなること。 太陽をよく恵みとか、利他的とか希望の象徴にしますが、ニーチェは「過剰」といいました。 過剰な存在であるから、与える相手がいてこそ軽くなれるので別に感謝されようとして燃え続けているのではないと。 軽くなる喜びを享受するには、重苦しい生を放す位置を得なければならない。 それには喜んで欲してくれる相手が必要ということですね。

noname002
質問者

お礼

このたびは珍しく?全体に私でも分かるようアドバイスいただけました。有難うございます。 >自我の崩壊とは「逝く」 歓喜、高揚感、達成感とでも 言わばエクスタシーですか。 >過剰な存在であるから、与える相手がいてこそ軽くなれるので別に感謝されようとして燃え続けているのではない 軽くなる喜びを享受するには、重苦しい生を放す位置を得なければならない。 それには喜んで欲してくれる相手が必要 「喜んで欲してくれる相手」というのが重要なのですね。 これも、いろいろと難しいものがあるのではと思います。 「感謝されようとして燃えて」いるのでない、もちろん「服従」とか「征服」を要求しているわけでもないにしても、「喜んで欲してくれる相手」もいれば欲しない相手もいますよね。 自己実現への「生の本流(奔流)」なるものにしても、どっちの方角に向いて流れるのか。等々。。。 …我々は生の本流たる行を見極め、そのポテンシャルを下げるよう行動するのでなければ後から後から行が沸いて来て、それを止滅させることはできない。ポテンシャルが下がり切ってエネルギーゼロになったとき本当の意味の止滅が訪れ、それを仏教では涅槃と言い即ち死と同義である。もはや全ての行が止滅しているので再び生まれるということもない… …固定的意味づけではなく、対象の意味の変化を主体が容認している。従って愛されているときに対象はそれ自身を生きることができる。このような自己化を、二者関係的自己化 と言うこともできるが、一般には、共生 という言い方がなされる。… >自我の崩壊とは「逝く」 それは「自我の解体」と結び付いているのですか? 私の立場をいうなら、「充満しピークに達する」「軽くなる喜びを享受」「喜んで欲してくれる相手」というものを手離さざるを得ないと判断した場合は、私なりの対処法として、距離を保ちつつ、他のことについては、これまでのように、ふだんどおりやっていく、やはり紆余曲折の末ではあっても時間とともに静まっていくのを、じーっと待つしかありません。 どうも「自我の解体」というよりも「自我の崩壊」即ち「逝く」というのは少くとも、今の私自身に あてはめられることではないように思えます。 「価値観の再検討、再組み直し」の必要性なら自分自身の問題として、じゅうぶんに受け止められます。

noname002
質問者

補足

…フロイトはここでいう「自己化」を「本能エネルギー」とし、その貯蔵庫としての「エス」を定義している。初期にはエスの内容として、自己保存本能と性本能を、後期には、生の本能と死の本能を想定している。そしてエスは快感原則だけに従い、無意識的であり、直接・間接に満足を求め、現実原則を無視し、無時間的、非論理的、非社会的であるとしている。しかし、ここでは 自己保存本能と生の本能 を「維持の原理」としてまとめ、本能 と言うより「知の原理」の主目的として「自己化」を捉えた。それが快感原則に従うように見えるのは「一者関係的自己化」のときに限られるが、それは飽くまで「代用満足」であるからやがては真の満足である「共生的自己化」を目指す。 性本能 については異性との一体化を求める「知の原理」と、命を繋いで行こうとする「維持の原理」の協働で説明できるのではないか。「共生的自己化」が実現し一体化願望が消滅すると性欲も随分その表現が変わるだろう。死の本能 についてはウイルバーの「代用犠牲」の概念がうまく説明している。 …激質から生じる行は我々を無闇に行動的にし、無意味な行為を重ねては更に激質的な行を無意識に貯える。しかし行動が必要な時には心が激質にならなければならない。 純質から生じる行は我々を更に純質に導き「止滅の行」を生じさせ、最終的にはそれさえ止んで三昧に至る。このような行の生じ方を心得た上で行のコントロールを目指すのが最も重要ではないか。 …禅のコンセプトで言えば価値観とは即ち囚われであり、そこから解放されて行くにつれて自分自身の存在を許容でき、そのままの自分でいることに深い安堵感を覚えるようになるだろう。誰であれ、そこに辿り着くのは容易なことではない。見方を変えれば悩みを抱えることで、そこに至る道を模索する 求道者 たり得たとも言える。 …大乗仏教では、煩悩即菩提という言葉に表されるように、煩悩を生じさせる行の中にも菩提(悟り)に通ずるものがあるので無闇にそれを否定しない立場を取る。行の止滅よりこちらの方が重要な意義があるだろう。悟りに通ずる行とは、我々をとことん悩ませながらも 自己実現 へ我々を導く行のことである。煩悶のままに生きる。それは 行の体現 である。 それは自分がこの世に生まれた意味を教えてくれるものである。行の体現はまさに無意識の意識化であり、ユングの言う、個性化の過程 である。しかし、悩みのままに生きる、という行の止滅に比べ一見簡単そうに見えることがなかなかうまくいかないのは、前意識の意識化が不十分であること、余分な行の止滅がなされていないことに起因すると考えられる。 …宇宙に知の原理である識が生じ、続いて環境をつぶさに知るべく自我と肉体が生じ、それを維持すべく維持の原理が働く。それは自我に都合が良いよう環境を意味づけ始め、価値観を前意識に貯える。自我が安定し環境適応がスムーズであれば維持の原理は勢力を弱め、当初目的であった、知 を全うするために超越の原理が働き、前意識の意識化がなされることで自己拡大が起こる。一方、この一連の過程における自我の行為は全て 行 として無意識に貯えられ、貯えられた行は 結果 として結実するのを待って前意識に上り、間接的に自我に影響を与える。これが行の原理である。 …心理臨床においては、まず維持の原理が正常に働いて安定した自我が形成されているかどうかチェックされなければならない。そこに問題があればカウンセラーは自身の安定した自我でもってクライエントと「集合自我」を作った上で社会適応のための訓練が施されるべきだろう。自我が安定しているクライエントでは緊張から維持の原理が働き過ぎている場合が多いのでリラックスが重要であり、リラックス法を使ったり場の雰囲気を和らげたりする一方、カウンセラー自身リラックスの気を放射している必要がある。その上で前意識の意識化を促せば、行の原理にも理解が及ぶだろう。 余談ですが、先日、別のカテで質問したら、これまで そのカテゴリーに来られたことがなさそうな或る常連のかたがサッと現れたので少し驚きましたが、残念なことに私にとっては お門違いの ご意見としか思えませんでした。 とにかく最終的に質問者が喜んでいるなら、何がしかでも拾えるものがあればよい、 それが全て、という考え方それにしたって、ある人には適用し、ある人には適用しない、といった ご都合主義的なことなど、今このカテゴリー内で さかんに議論されていることのなかにも、いくらも見つかります。 そして「救う」なる立場に立つことも、結局は相手に対し優位に立ちたいという征服欲求の現れ、潜在する一種 ねたみのようなものの現れもあるかもしれません。自覚の有無とは別に そうした面があるとすれば、それが執着的行動の理由かと思われます。

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