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自我の解体なさってますか?

mmkyの回答

  • mmky
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回答No.2

仏教で使う「自我」は肉体に影響された自分自身のことですね。例えば、ラーメンもっと食べたーい。パチンコしたーい。タバコすいたーい。かっこよくみせたーい。などなど、日々生きてますといろんな考えが浮かび、それによって自発的行動が生じますね。こういうのが自我ですね。 自我に対して真我というのがあるのですね。「ラーメンもっと食べたーい。」と思った瞬間、「まてよ、そんなに食べなくても生きていけるし、太るからやめとこ。」という思いが起きる場合があります。これが真我による思考と行動ですね。我慢するということではありませんね。自身が常に健全な方向に進むようにアドバイスする思考ですね。全ての人にはこの二つの思考が同時にあるんですね。自我を伸ばす方向はより肉体本能に従った考えと行動を伸ばす方向であり、真我を伸ばす方向は自我を抑える方向、つまり肉体から来る考えを制御する方向ということですね。 このように言えば、「自我」を弱くすることも、一度解体して組みなおすことも可能でしょう。殆どの人は生まれてこの方、自分自身の肉体にとらわれた考え方、生き方をしてるわけですから、まず肉体がないと仮定すれば何を考えどう行動するかと考えてみればいいんですね。肉体がないんだから、食べる必要はないし、睡眠もいらないし、お化粧もいらないし、禿を心配することもないし、顔の成形の心配もないし、男女の差別もないし、肉体に関係する全てのスポーツさえないよね。できないことを全部羅列できますね。考えることぐらいしかのこらないはずですね。こういうのが仏教的自我の解体ですね。それでもやりたいことがあれば、本当は肉体もあり健全なのだから集中してやれるわけです。つまり日々考えて行動していることが本当の自分が欲してることかどうかを問い直すということですね。だから自我は解体できるし再構成もできるということなのです。例えれば、手足がなくなろうが目鼻がなくなろうが脳の一部を失おうが私自身になんの変化もないはずということですね。

noname002
質問者

お礼

カウンセラー自身が生の本流を体現し淀みない心で共感するときクライエントは、カウンセラーの生の本流に触れて自らの内に流れが生じ始める。 大抵クライエントは淀みに執着している。快ならざるものを快と感じ、美ならざるものを美と思う。また、思い出せば気分が悪くなることをわざわざ思い出しては気分を悪くしている。この執着を一喝するのはたやすいことだが、その一喝がクライエントの心にストレートに届くかどうかがカウンセリングにおける最大の焦点となるだろう。だから、共感という危険を冒さなければならない。 淀みとはポテンシャルが低くならないような行為つまりその個人の人生にとってあまり意味のない行為を繰り返しているときに生じると考えられる。行為の結果再びポテンシャルを高めてしまうのも淀みの一形態である。ポテンシャルが低くなるような行為(それは個人によって異なる)が、正しい行為と言い得るものであり、それを行うためには智慧が必要であり、淀みから抜け出せたとき「言葉」として備わる。 初めから淀みがないときには言葉化されることなく、当たり前のように「正しい行為」がなされているのである。 今、ポテンシャルエネルギーを失っている日本にあって日本人は自力で「正しい行為」を模索していくしかない。社会の奔流に巻き込まれない分、本来の意味での自己実現がしやすくなっているのが現代と言えるだろうが、それは大いなる迷いの時代とも言える。そのことが教育現場にも影を落とし、子供たちの心が読めない状況を作り出しているのではないか。 淀みにはまっているときは少なくともすがすがしさは感じていない。むしろ閉塞感や倦怠感、もやもや、どろどろした感じを胸やお腹の辺りで感じているだろう。 東洋は自我の不都合な面を見つめ、個を作り上げる、煩悩そのものと解釈される「維持の原理」を無くすことに集中し、よって自己拡大させ、環境と一体化する。 西洋では自我の「維持の原理」と「知の原理」に焦点を当てて良性の部分を認め、それを発達させる。 「知の原理」によって認識された世界を利用したり、もっと詳しく知りたいという科学的態度に大きな価値が置かれている。 >本当の自分が欲してることかどうかを問い直す 自我は解体できるし再構成もできる 有難うございます できる、のですね。 本当に欲していることを示して無視され、そのまま終わったりしたら残念です。

noname002
質問者

補足

>自我に対して真我 常に健全な方向に進むようにアドバイスする思考 自我を伸ばす方向はより肉体本能に従った考えと行動を伸ばす方向であり、真我を伸ばす方向は自我を抑える方向つまり肉体から来る考えを制御する方向 心理学で言う自我と超自我にあたるんでしょうか。 以下は聞きかじりですが "一者関係的自己化"は対象に服従を強いる。対象が物であれば問題も起こるまいが、自我を持つ者であれば当然軋轢が生じる。しかしこの赤ちゃん的な愛し方を自己化の常套手段としている者は非常に多く存在し、彼・彼女は、わがまま と称される。自我肥大という言い方も一者関係的自己化を表現しており、肥大した自我の中に取り入れられた人や物は"生かされる"ということがない。従ってそれらの対象は容易に脱自我の反乱を起こして自ら生きようとし、わがままな彼・彼女は落ち込んだり、それらへの支配・征服を強めたり、軽蔑したり、場合によっては殺意まで起こす。このような形体の自己化でも愛は愛である。愛は本来対象との一体化を求めてやまない。自我はその手助けをするのだが、一体化による自己化は自我そのものを崩壊させる危機を孕むので、強力な維持の原理によって一体化は抑制され、自己化は一者関係的なものにとどまることになる。 もし自我が母親などの他者から十分に守られているなら、崩壊の危機を顧みず一体化による自己化が促進されることになる。言葉を換えれば、愛されることによって愛する者になれるということである。関係において自我が守られていると感じるならば、クライエントは恐る恐る頑な自我を解いて行き、病的防衛なしで他人と関る方法を知るだろう。 知の原理によって"知る"という行為が起こり、対象が或る程度理解され、単純な意味づけが行われる。そこまでは一者関係的自己化でも行われるが、その単純な意味づけを超えて、さらに対象を奥深く理解してゆくときに愛が愛らしくなる。単純な意味づけの段階では、対象は意味づけの主体となった自我の中で"生かされている"とは言いがたいが、愛によって深く理解されているときには主体の中で"生かされている"。固定的意味づけではなく、対象の意味の変化を主体が容認しているのである。従って愛されているとき対象はそれ自身を生きることができる。このような自己化を、二者関係的自己化 と言うこともできるが、一般には、共生 という言い方がなされる。 ウイルバーはここでいう一者関係的自己化に、代用満足 という言葉を当てている。本来の満足は共生的自己化によって得られるものだから"わがまま"や"自我肥大"によっては仮の満足しか得られない。従って共生的自己化に至らないうちは飽くことなく"欲しがる" 仏教に慈悲という言葉がある。慈 は文字どおり"慈しむ"こと、実際に手を貸してあれこれ世話を焼くというニュアンスであり、悲 は"見守る"ことである。実際には手を貸したりしないが、少し離れて相手の成長や幸福を願うことである。手を貸したい状況でありながら、手を貸すことで却って相手の成長や幸福が阻害されることが予想されたり、相手が手を貸されることを望んでいないことを知って、敢えてじっと見守っている。 慈と悲は状況に応じて使い分けられるのでなければならない。 "悲"とは自己拡大原理であり、それに「超越の原理」と名づける。「超越の原理」(悲)が働くことで自己は拡大し、自我はそれまでの自己イメージを一旦崩して新たに再構成しなければならない。その時に自我は今まで予期しなかった新しい自己を体験するが、それはまさに"超越"体験であり、命名の由来もそこにある。 「超越の原理」(悲)が働くと自己は漠然と拡がるが、その中でも見守るだけでは"生きられない"対象に対しては自己の中に島を作って維持の原理(慈)が働く。外自己の中の自我を持つ対象に対しては見守ることでその自我を尊重するという"共生"の姿勢を取る。 嫌な人、物と意味づけされている対象に対しては維持の原理で取り囲み、自己が侵されないようにしている。一方、赤ちゃんなど保護が必要な対象ははっきり意識され慈で取り囲まれる。ただ十分自己拡大していない母親の場合、赤ちゃんとて何割かは維持の原理で囲まれ、煩わしいなどの意味づけをされ、自己から多少排斥されたところに位置づけられるだろう。 前意識に淀んだ情感が沸き、そこから様々な前言語的感触が生じ、更に様々な悩み深い行為、思考が生じる。カウンセラーのもとへ持ち込まれるのはこの悩み深い行為、思考であり、それらに焦点を合わせ、共感しようとするほどに淀みに巻き込まれてゆく。

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