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自我の解体なさってますか?

noname#100496の回答

noname#100496
noname#100496
回答No.1

自我の解体は、出来ないと思います。ただ自我を、休ませる方法はあります。脳の思考を休めて、脳波アルファ波にすると、心が癒されます。これを神道では鎮魂、仏教では瞑想、座禅として実践されてます。また日本の伝統文化、和風文化も、脳を休めて、心を癒す事を目的にしています。茶道、華道、能、民謡、演歌、舞、日本画、書道、落語、中国の太極拳などいっぱいあります。

noname002
質問者

お礼

早速アドバイス有難うございます。返事が遅れ失礼しました。 「自我の解体」、できませんか。 >自我を休ませる方法はあります。 脳の思考を休めて、脳波アルファ波にする リラックスが大事なんですね。 お酒や場の雰囲気に頼っていては、それらがないときは「維持の原理」を働かせていなくてはならない。しかし意味づけ再構成を知らず知らず行っている人は、それらのリラックス法に頼らず、割といつもリラックスしていられる。それは一人でいるときに起こる。 または、その過程を邪魔しない人の傍で起こる。 従って、たとえ和やかであっても絶えず言葉や笑いがひしめいている場に身を置くのは一過性のリラックスに過ぎない、のだそうです。これも個人的に実感します。 気になることに、間を置いて眺めてみる。 リラックスできない、させてもらえないのは辛い。 以下は聞きかじった話ですが 行は盛んに前意識に影響を与え、前意識は自我に特有の傾向をもたらす。なぜ或る種のものに特別に興味を覚え、或る種のものに対しては嫌悪感を持つのか。 それは前意識に貯えられた価値観がそうさせるのであるが、その価値観を意識化した後でもまだ残る興味や嫌悪などの傾向は行によるものである。 従って前意識の意識化により理解に至れば行が理解され始め、行が新たな行を作り出すという循環が抑えられ、悩みが新たな悩みを呼んで身動き取れなくなるということがなくなる。 悩みのままに生きることができるのは行の発現を静観できる心の余裕、さらに行を体現するために、「超越の原理」により変化への抵抗が薄れていなければならない。その意味で「煩悩即菩提」も簡単ではないが、こう言われるとき感じる安心感は維持力を緩和し、心に余裕を持たせるだろう。あるがまま、や煩悩即菩提は、そのような力を持つ言葉であるが、使う前に十分お膳立てが必要であり、乱発されるべきでない。 固定化した価値観の中で「悪」と見做され抑圧されていたものが再評価されたりすると「維持の原理」は揺らぐ。 既成の価値観は必ず再考されねばならない。 価値観は秩序を産み出す半面、レッテルを貼ってしまうから。 とは言え、社会に生きる我々が価値観を持たずに生活することはできない。 唯一できることは価値観を持ちながらも、それを意識化して囚われないようにすること。

noname002
質問者

補足

日本の伝統的文化って、「超越的」とかいうのでしょうか。関わりが薄いと、あまりよく分からない感じがしますが民謡は家族がやっていましたし、私自身は能や日本画などは好きです。 「超越の原理」が活性化して自己拡大が起こるには、自己と非自己の境界において自我を守っている、「維持の原理」が働くことでつくりだされる力が弱まる必要がある。「超越の原理」が「維持の原理」を抑制するのではなく何らかの原因で抑制され、維持力が弱まったとき「超越の原理」が働き始めるらしいです。 一般に日本人は個人の自我が弱く、代わりに家族や地域社会や国家といった集団によって形成した自我が強いと聞きます。これを「集合自我」と言うそうですが 集団の成員が共有する価値観が、各成員の前意識に蓄えられ、その集団特有の意味づけを生じさせる。個人の自我と同様に集団の自我にも我欲や攻撃性が生じるため集団どうしで争いが生じる。また、弱い攻撃性としての排他性も「集合自我」に顕著であるという。 日本人特有とされる「甘え」も、個人の自我をこの「集合自我」のなかに埋没、維持させている人ほど甘えが強いそうです。そのような人どうしは互いを他人のように思えず、自我の内側に相手を取り入れる。母親の自我が赤ちゃんの未熟な自我を完全に取り込み一体化して育てる様態と日本人が「集合自我」のなかに個人の自我を埋没、維持させる様態がよく似ている、のだそうです。 前意識に蓄えられた、日本人つまり日本人気質という価値観を意識化さえすれば我々は、日本人という文化的な「集合自我」に埋没して、その維持に守られる必要性がなくなり、そこから脱却して、「甘え」や依存の土壌から独立することができる、これが個人主義の始まりであると考えられる、だからといって仲間にに冷たくなるのではなく今度は拡大した自己を持つ者として、どんな文化背景を持つ相手に対しても自分と同じように相手を愛せるようになる。 甘えや依存がいけないわけではないが、それが有効であるのは同じ「集合自我」に属している相手に限られ、属していない相手に対しては無関係か悪くすれば敵視することになる、そして「集合自我」の暗黙の価値観からズレる者は、いじめの対象となる。 これは今、私が個人的に実感していることです。 「集合自我」と個人の自我の関係は、個人の自我の安定度が変数として大きく関与するそうで、安定度が高ければ「集合自我」に深く関与することは少なく、逆に安定度が低ければ「集合自我」に深く関与し、その維持の原理に守られなければならなくなるそうです。 赤ちゃんの自我は「ほどよい母親」によって「本当の自己」を受入れられることで安定性を確保していく。最早期(生後数週間から数ヵ月)の絶対的依存状態にある赤ちゃんに適切な自我支持が得られない場合、人格基礎が欠損し、対象との関係を持ち得ず、想像を絶する不安にさらされる。そして「集合自我」を形成すること自体が非常に困難となる。これは「情緒的母性愛欠損」に相当、精神分裂病の原因と見做す見方がある。 一方「母性的養育の剥奪」は最早期の自我支持は得られており一応人格の基礎は築かれるが、その後の相対的依存期において、その人格から発せられる要求が母親によって満たされない場合を言い、精神病質、累犯者、反社会性向などの性格障害を招くらしいです。 「依存型」の子は学校という「集団自我」にも依存しており、同じく依存している級友は投影対象になりやすい。また、本来依存型でありながら母親から拒絶される場合もある。これを「拒絶型母子」と言い、不安定な母自我が強いストレスに晒されると更に自我不安定になり、母子自我を形成することができなくなる。子は母のストレスのはけ口となって虐待を受けたり、無視という消極的虐待を受けたりする。下の子が生まれるなどして母が他の子と深い母子自我を形成する場合も子は拒絶されることがある。 子は無理に自立的に振る舞うことで早熟したり、問題行動を起こして周囲の目を引こうとする。「依存型」の子より、さらにいじめの被害者、加害者になる確立は高い。また長期不登校、摂食障害、精神病など難治性症状を呈することが多く、アダルトチルドレンと呼ばれている、ということでした。

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