マルティン・ブーバー≪我と汝≫の中の「外的」「内的」経験について

このQ&Aのポイント
  • マルティン・ブーバーの著書≪我と汝≫の中で、「汝を語る人は関係の中に生きるのである」と述べた後、彼は「もしひとが死の神秘を減らそうとする人間の願望に根ざす一時的な区別にもとづいて、<外的>経験に、<内的>経験をつけ加えたにしても、事態はいささかも変わらない。」と述べています。しかし、「外的」「内的」経験が具体的に何を意味しているのかは明確ではありません。
  • 「外的」「内的」経験は、文脈から判断すると、明白な経験と神秘な経験とは異なるものと考えられます。しかし、具体的にどのような経験を指しているのかは記述されていません。
  • 他の読者の解釈によると、「外的」「内的」経験は主観的な経験と客観的な経験を指しているという意見もあります。マルティン・ブーバーの思想や文脈を考慮しつつ、自分なりの解釈を深めてみてください。
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マルティン・ブーバー ≪我と汝≫について

マルティン・ブーバー≪我と汝≫の中で、彼が「汝を語る人は関係の中に生きるのである」と述べた後、【経験】について語りだすのですが、その中の一文に 「もしひとが死の神秘を減らそうとする人間の願望に根ざす一時的な区別にもとづいて、<外的>経験に、<内的>経験をつけ加えたにしても、事態はいささかも変わらない。」 とあるのですが、ここでの「外的」「内的」経験が具体的にはどのような経験をさすのかが良くわかりませんでした。 また、これらの「外的」「内的」経験は数行後に述べられている「明白な」経験と「神秘な」経験と同義であると考えて良いのでしょうか? 皆さんの解釈なども聞かせてもらえると嬉しいです。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

私は、マルティン・ブーバーの「《我と汝》」という有名な本があるということは知っていたものですが、 私の人生が本を読む機会の少なかった人生でもあり、 私は読んでいません。 おそらく この時点で、解釈しようとしても多大な無理のあるところかとは思います。 しかし、そちらの質問文に提示してくださった《言葉》からの類推をしぼって回答してみるという回答も 無いよりは何かの価値があるかもしれないなと思って回答してみました。 そう思ったのは、 たったこれだけの文にても存在やその我との関係性とかに奥の深い解釈が可能な文となっていると思えたからです。 * しかし、まず、《我と汝》の 《汝》の意味合いがまず、これだけだと二つに意味合いに取れてしまうと思います。 表題だけですと 《我と汝》の《汝》は、《我以外の存在である人》というふうに思えるところ、  >彼が「汝を語る人は関係の中に生きるのである」と述べた後<という文の中での「汝」は、 自分、つまり「我」のことを言っているとも解釈できてしまうわけです。 (そのへん相対的ですから。) でも、この「汝を語る人は関係の中に生きるのである」という言葉自体を取り上げて考えるならば、 もちろん通常の考えならば、《我以外の人》と考えたほうがわかりやすい言葉ですが、 実は「《我》を語る人も、関係の中に生きるのである」といううがった解釈も可能なところです。 つまり、 「それが誰であろうと 自分であろうと他人であろうと人を語れば、関係の中に生きるのである」 という一見 あたりまえの事をも語っている文となるという感も受けるということでもあるのです。 が、そこでいう「関係」という言葉は、 すぐ次の引用文にて、人間関係のみを意味するのではなくて、 存在自体との関係性、生死との関係性も内に含まれた言葉であろうという推測が生まれてきます。 この場合 <外的>経験とは、それが存在との関係性の経験を意味していると考えると 文はいきなり整合性をおびてくるかと思います。 <内的>経験とは、この時、自己内のイメージの世界の経験(睡眠中の夢も含めての)のことを言っていると、仮に解釈してみてください。 神秘は まわりに知的にもいっぱいあります。 しかし知的な神秘であるなかに「人の死の神秘」は 恐怖の本質である解からない存在の現存の意識と関る減らそうとしたい人間の願望と関る意識です。 がゆえに、一時的に?これがよく解かりませんが^^、「仮に」と解釈しておきましょう、 仮に生と死という区別で存在を区別しておいて、すこしでも生の逆であるとの『解からなく無さ^^」を、 その<外的>経験、つまり存在との関係性を自己の内側の<内的>経験に求めても、 存在自体も その中の生死の事態もいささかも変わらない。 とうふうに解釈すると、 この文に整合性がついてくるということです。 とすれば、  >「明白な」経験<とはどのように解釈すると この文との整合性が生まれるかというと、  それはそれこそが「存在との関係性」であり、あるいは「友」 あるいは《汝》との関係性であり、 それに対して「神秘な」経験というのは、そういう関係を感じる<内的>経験だということだと思うのです。 そうするとすべての文が つながりますし、 そこには深い意味合いのメッセージが読み取れてくるからです。 いささかも変わらない存在の神秘への<内的>体験こそ、あらゆる関係 あるいは死に行く存在でもある人と人との関係、あるいは《我と汝》との関係への知的根源としての リスペクトの神秘にいたる世界だ。 といったメッセージです。 これは 私が本屋で そのタイトルに何か感じていたもの、期待していたものを裏付けるような 本なのかもしれません。   我が、、もし月に一冊の本も買えないワーキングプアー状況に陥っているのでないならば、 まっさきに読んでみたい本の一つでもあったのですが、 そちらの質問文にて、さらに興味がわきました^^。 かってきわまる怪答かもしれませんが、 回答者のほうが感謝するようなへんな回答も この存在の中には  そそそ そんざいすすするようですすすす あっ、これは別に死と関る神秘じゃないから怖くなんて無かったですねねねねね。^^(《われとgeniusloci》より^^、 つまりわが魂あるいは、存在の友の一人へという意味です。)

GeniusLoci
質問者

お礼

こちらこそ、丁寧な回答をしていただいてありがとうございました! 返信が遅くなって申し訳ありませんでした。 私だけでは、arayata333さんのような深い考察はできなかったと思うので、本当に感謝しています! 今までデカルトやパスカル、アウグスティヌスなども読んで来たのですが、その中でもブーバー氏は何となく・・・純粋と言いますか・・・素直な哲学者な気がします^^ 2月になったらそのレポートがあるので、あまり順調なペースで読みすすめられていない<我となんじ>も、そろそろ真剣に取り組まなければ・・・!

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