• ベストアンサー

親鸞再考

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.31

 遅くなりました。またお邪魔させていただきます。 >>わたしの焦点は 信仰の始まる起点 ただ そこにおける心の構造――阿弥陀とわたしとの関係構造の中身―― これにあります。また そのことの説明の仕方にも からんでいます。  「信仰の始まる起点」というのを我々は「廻心(えしん)」と呼びます。これについて、浄土教において廻心は善導大師の『法事讃』の「謗法闡提も廻心すれば皆往く」や、法照の「ただ、廻心して多く念仏せしむれば、能く瓦礫(凡夫)を変じて金(仏)と成らしむ」(括弧の中は注釈です。)という言葉を基礎に、「心を廻して念仏の教えに帰依する」という意味で使われます。  この「廻心」について親鸞聖人は『歎異抄』第十六条のなかで「阿弥陀さまの本願を信じてお念仏しているひとが、つい腹を立ててしまったり、つい悪い事をしてしまったり、つい仲間や友達と言い争いをしてしまったりしたときは、必ず悪の心を悔い改めなければいけないのだという話があります。これは、悪のおこないを断ち、善い行いをしなければならないという、自力の考えではないのでしょうか?」という問いに対して、 「一向専修のひとにおいては、廻心といふこと、ただひとたびあるべし。その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の知恵をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、廻心とは申し候へ。」 とお答えになられています。ここで言う「廻心」とは「阿弥陀様の御本願を知らぬ人が、自力の心を捨て阿弥陀仏の御本願に帰入すること」で、入信体験を意味するものを言います。ただ、親鸞聖人が「廻心」という言葉の意義は多様で、 (1)自力の修行としての回向心 (2)廻心懺悔(さんげ)という自己反省 (3)入信体験。 大体この三つが挙げられます。まず、ここで語らえている内容は(1)ではない。しかし、問いとしては(2)のような気もする。けれども、答えとしては(3)のようでもある。では、同書後半の答えを見ますと、 「一切の事に、あしたゆふべに廻心して、往生をとげ候ふべくは、ひとのいのちは、出づる息、入るほどをまたずしてをはることなれば、廻心もせず、柔和・忍辱のおもひにも住せざらんさきにいのちつきば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおはしますべきにや。口には、願力をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もつともなげきおもひたまふべきことなり。信心定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。」 と説いて、親鸞聖人が否定する(2)の意味での「廻心」とは「口には、願力をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて」しまうこと。つまり、阿弥陀仏の本願を信じているといいながらも、善人のほうがいい世界にいけるのではないかという自力の廻心懺悔です。では、本願に任せたものの廻心懺悔はどのようなものであるか、同書に続けて親鸞聖人は 「わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば、自然のことわりにて、柔和・忍辱のこころも出でくべし。すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし。しかれば念仏も申され候ふ。これ自然なり。わがはからはざるを、自然と申すなり。これすなはち他力にてまします。しかるを、自然といふことの別にあるやうに、われ物しりがほにいふひとの候ふよし、うけたまはる、あさましく候ふ。」 と説いて「わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば」といい、悪を犯しても「懺悔しなければならない」のではなく、このような「悪を犯してしまう自分でも阿弥陀様はお救い下さると心ずよくおもう」という自然の廻心懺悔を説かれるのです。これが、前の回答から私がしつこく申しております「深心」の深まりとなるのでしょう。  では、ここからが本題になるかと思いますが親鸞聖人が「ただひとたびあるべし。」とおっしゃっている「信仰の始まる起点」としての「廻心」、つまり(3)の意味での「廻心」するときについて、法然上人は『往生大要鈔』のなかで、 「前後のこと葉相違して心得がたきに似たれども心をととめて是を案ずるに、はじめにわが身のほどを信じ、のちに仏の願を信ず也。ただし、のちの信心を決定せんがために、はじめの信をばあぐる也」 と説いて、「信仰の始まる起点」は、まず身の程を信じ、阿弥陀仏の本願にまかせるということが説かれています。けれども、この「信仰の始まる起点」となる信心の確立についても、回答NO24でご説明したとおり、 「仏阿難に告げたまわく、汝好くこの語を持て、是の語を持てとは、即ち是無量寿仏の名を持てとなりと。云々。上人かたり給える詞には、名号を聞くというとも、信ぜずば聞かざるが如し。たとえ信じずと云うとも、唱えずば信ぜざるが如し。只常に念仏すべしと。」 と説かれるように、聞→信→念仏という段階で説明されます。この「聞」とは『観無量寿経』のなかでは「仏告阿難。汝好持是語。持是語者即是持無量寿仏名」の言葉とされますが、その根拠としては『無量寿経』における四十八願にも阿弥陀仏はの名を聞く「聞名」による功徳が記されています。また、同経には、 「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。」 「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に至る」 と記されて弥陀の名号を聞くことの功徳が記されています。また、同経には「聞其名号信心歓喜」とあり、やはり信心の基礎には法蔵菩薩が本願を成就し阿弥陀仏と成られたことがあることが説かれています。  このような要因から、親鸞聖人は信心は弥陀より賜る信心とします。『観無量寿経』に説かれる「至誠心・深心・回向発願心」の三心は、『無量寿経』の十八願に誓われた「至心・信楽・欲生」に相応して説かれます。親鸞聖人は『教行信証』信の巻きのなかで「至心信楽欲生」の細かい注釈に先立って「如来の本願にすでに至心信楽欲生のちかいをおこしたまえり」と説いて如来の起こしたもうた信心として、この阿弥陀仏が本願において成就した三心が廻施されて初めて凡夫の信心になります。この凡夫に回向された信心とは、阿弥陀如来の名号の威徳を疑いなく信じる心が「信楽(=深心)」であり、信楽が真実であることをわきまえるのが「至心(=至誠心)」であり、かの浄土へ往生するのが間違いないと決意するのが「欲生(=回向発願心)」となり、すべては「信楽(=深心)」におさまるとされます。また、この阿弥陀仏より賜る三心はあくまで一つの心を三つに分けて説明したに過ぎないもので、「文類聚鈔」には「三心はみな大悲回向心なるがゆえに清浄真実にして疑蓋混じることなし。ゆえに一心なり」と説かれています。  このように、「信仰の始まる起点」ということについて、書いてまいりましたが、凡夫の信心の起点は「深心」であり、また阿弥陀仏の本願成就の時点ということが、両方言えると思います。  本当に申し訳ないですが、質問はまだつついておりますが、仕事の関係で最後までお付き合いできません。今日のところははbrageloneさんが主題とおっしゃっていた「信仰の始まる起点における阿弥陀仏と凡夫との関係」について、浄土教の視点からお話させていただくことでお許し願いたく思います。急ごしらえの文章ですので誤字脱字乱文はどうぞご容赦ください。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

 baka-hage 師匠 まことにありがとうございました。  革命をご期待申しあげております。  はなはだ手抜きのようなお礼のことばですが わが感謝に代えさせていただきとう存じます。  また お会いしましょう。  * 革命は もちろん ブッディスム全体にわたっても でございます。

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