• ベストアンサー

親鸞再考

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.29

 どうも。またしばらくお世話になるかなと思っています。brageloneさんとお話していると、自分の勉強不足を感じさせられます。自分の力量ですと、どこまでお付き合いできるか分かりませんが、私にもうしばらくお付き合いさせてください。 >>如来のはからいが すべてであるということ(絶対他力)を 納得いたしました。  私もそのように思います。法然上人も善導大姉の『観無量寿経疏』の「一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故。」という一文をいただき、浄土教を一宗として改宗しますが、この「順彼佛願故(弥陀の本願に順ずるからである。)」という言葉が日本浄土教の理論の大きな根拠となります。 >>念仏は 経験行為であるゆえ 微妙に細かく分析するなら その称名行為の寸前に すでに聞いていたであろう阿弥陀仏の誓願のことを思い出し しかも なぞにおいて その誓願のちからを受け容れようとする心の伸び(もしくは 開け)が起こり これを《わたし》は みづからの意志行為として=その限りで 我がはからいとして 受けとめ受け容れた。 >>つまりは 念仏を申す寸前に起こったこの一連の出来事――飽くまでも 無根拠において=はからいなく 心が開いた / いづれ耳にして記憶に残っていた弥陀の称号を その心で受け容れた(これは はからい) これら大きくは 二つの要素から成る出来事―― これが 《信じる》という人間のおこないであるのではないか。このことの当否を明確に知りたいと尋ねました。(たとえば No.17補足欄)  ctaka88 さんのお答え(No.23)では 一般に 阿弥陀仏が絶対かどうかの問題を含めて 信仰の成立→念仏行為という時間的な経緯分析については そこまで細かくは 意識しないということだそうです。  それについては、念仏行者が必ず持たなくてはならない心とされている「三心」という信心を得る機縁について、法然上人は先に挙げました『常に仰せられける御詞』には、 仏阿難に告げたまわく、汝好くこの語を持て、是の語を持てとは、即ち是無量寿仏の名を持てとなりと。云々。上人かたり給える詞には、名号を聞くというとも、信ぜずば聞かざるが如し。たとえ信じずと云うとも、唱えずば信ぜざるが如し。只常に念仏すべしと。 といわれ、「南無阿弥陀仏」という言葉を聞いて阿弥陀仏の本願念仏の教えにふれたならば、阿弥陀仏を信じなさい。信じなければ、教えを聞かなかったのも同じです。たとえ、信じたとしても、念仏を称えなくては信じていないも同じであり、阿弥陀仏の本願も意味のないものになってしまいます。ここでは、信心というのは念仏を称える事そのものであることを示していますが、また文中の「只常に念仏すべし」とあり、念仏を常に称える前提には、「聞(聞法)」と「信(信心)」があるとされています。この信心の前提には「聞法」があって、教えを聞くということが信心の基礎にあるといえます。 >>絶対ではないけれどもその弥陀のはたらきを 心に受け容れたとすれば――つまり 《信じた》とすれば―― それは 絶対ではない部分において 疑いが入っていると言わなければなりません。つまり ほんとうには 信じてはいないわけです。    親鸞聖人は『教行信証』信の巻において善導大姉の『観無量寿経疏』深心釈を読みかえて、このようにお示しになられます。 「二者深心。深心と言ふは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生の摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、さだんで往生を得と信ず。」 親鸞聖人は法然上人同様に深心を二つにわけています。一つは自力では出離の縁なき罪悪生死の凡夫である事を自覚する「信機」、深心の中だけで見た場合「信機」については法然と差異はみられません。二つは阿弥陀仏の救済が「無疑無慮」に凡夫を救ってくださるということを、凡夫がうけたまわり信ずることを「信法」というのです。この二つ目の「信法」について、法然上人は凡夫が疑うことなく自らの考えを加えることなく阿弥陀仏の本願力を信じるとして、凡夫側の「無疑無慮」としています。それに対して、親鸞聖人は凡夫には「無疑無慮」などと言う完璧な信心を持つことはできるはずもなく、阿弥陀仏の救いこそが疑う余地などなく自らの考えを加える余地のないもので、仏側の「無疑無慮」としています。  つまり、親鸞聖人は凡夫は疑うようにできているという立場を強調するわけです。また、法然上人もこんなお話が残っています。『乗願上人伝説の詞』の中に、 あるとき法然上人は「今回の生において往生したいなぁ」と、おっしゃいました。それを聞いた乗願房は「上人ともあろうお人が、そのような不安げなことをおっしゃられては、他のものはどうしたらよいのでしょうか。」と問いかけると、声をあげて笑いながら、「命尽きて極楽浄土の蓮の台にのるまでは、このような思いがどうして切れましょうか。」とおっしゃいました。 と伝えられています。この言葉からは、法然聖人がどこまでも真実であり、自身の心を偽る事無く深い自己分析をし、また同じ念仏の道を志すものに、本音を隠す事無くともに往生を求めようとする真摯な態度が伺える尊い法語です。法然聖人の「今回の生において往生したいなぁ」という言葉からは、阿弥陀仏を信じていながらも心の中をよぎってしまう「不安」な気持ちが読み取れます。そして法然はその様な気持ちは、「蓮台にのらんまでは、いかでかこのおもいはたえ候べきと。」と言い、自分が実際往生かなうまで、その気持ちは消えないとしています。乗願房の「上人だにもかように不定げなるおおせの候わんには、ましてその余の人はいかが候べき」という言葉からは、一般の社会がもつ、宗教家に対するイメージで「まじめな」「間違えのない」「聖者」などといった完璧な人間像を求める意向にあるということが伺えます。それはまた、宗教ほど外面を取り繕えば、証が立てやすいものはないということが言えましょう。法然が外面を取り繕っていれば、乗願もこのような質問をすることはなかったでしょうが、しかし法然上人は自らを偽る事無く、正直な自分の気持ちをつぶやきの中にあらわしています。鎌倉時代初頭に宗教家でありながら、これほど正直な言葉は法然上人にしてなしえたものでしょう。  このように法然上人自身三心具足し阿弥陀仏を信じていながらも、凡夫であるが故に起きてしまう疑いを抱え、念仏し続けたのです。というより、凡夫であるが故に消す事のできない疑いや不安な心を持ち続けているからこそ、自らは凡夫であり阿弥陀仏にすがる他に救いの道はありえないと、よりいっそう阿弥陀仏への信心を深め念仏をし続けることができるといえます。これが三心でいえば「完璧になれない凡夫」という信機と「そんな凡夫だからこそ阿弥陀仏は救おうとしてくださっている」という信法によって深まる「深心」といえます。  この法然上人のお言葉は親鸞聖人で言えば『歎異抄』第九条の、 「よくよく案じみれば、天におどり、地におどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころををさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめて、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。」 にあたるといえるでしょう。喜び躍り上がるような心がおこらないという疑いは凡夫ゆえに消すことのできない煩悩のせいであり、愚かな身であることを感じれば感じるほど親鸞聖人は仏の他力を求めてやまなかったのです。阿弥陀仏は煩悩をもって消すことができないでいる凡夫だからこそ、救おうとしてくださっているのですから、よりいっそう往生は確実なものであるといっています。親鸞聖人の確信はそこにあって、疑っていながらもそのような凡夫だからこそ阿弥陀仏は救ってくださるのだとしているのです。親鸞聖人もまた自らの愚かさを衝き抜けるような阿弥陀仏の他力を、力強く、頼もしく、思ったことでありましょう。 >>時が経てば また 別の心が生じるというような気休めの行為だというものでしょう。仮りに このような部分的なその場しのぎが 繰り返されて――《信機→信法→信機→・・・》という過程が展開して――《心の深まり》が仮りにあるとすれば それは わざわざ言わずともよいけれども 基本的には 絶対であるという〔あくまでも〕想定〔ですが〕のもとに 捉えられる。そして これに 心で同意したときなのではないでしょうか。  先に述べたことを踏まえますと、別の心が生じてしまうのは凡夫であるが故の特性であり、その特性を見越した上で阿弥陀仏は御本願を立てておられるのですから、「信機→信法・・・」という経過も弥陀の計らいにおいてなされるのです。ですから、阿弥陀仏が疑う余地がないということであって、凡夫に疑いがないということではありません。そういう意味では阿弥陀仏の「絶対他力」のなかに、凡夫は包括されていることになります。 >>それというのも しかも 親鸞は――あるいは 親鸞も―― 他者もしくは社会に向けての心の伸びにも 触れているからです。いわゆる衆生済度です。つまり ▲ (歎異抄・第五条) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・たゞ 自力をすてて いそぎ浄土のさとりをひらきなば 六道・四生のあひだ いづれの業苦にしづめりとも 神通方便をもて まづ有縁を度すべきなりと 云々。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >>☆ というように 社会的な――必ずしも布教でなくとも――人と人の関係行為に及ぶというときに 絶対なる他力であるという想定でなければ 成し得ないと思われます。そりゃ 表現行為の自由はありますが もし 心に――深心ではなくて――部分的に疑いを容れているようであれば 人に対して 失礼になるでしょう。  『歎異抄』のこの部分は「往相回向」「還相回向」についてですね。親鸞聖人は『教行信証』にお示しくださった、「正真偈」のなかで「往還回向由他力」とお示しになり、「往相・還相二つの回向は阿弥陀仏の他力によって成される。」としています。この往相は還相は以前にもお話したことがあると思いますが、往相は「浄土へ往生する」こと。還相は「浄土から還える」ことです。しかし、これはあくまで往生して後の話です。確かに親鸞聖人は自身の師法然上人を含めた七高僧を、還相の人とあおいでおられました。しかし、法然上人ご自身は自分のことを「還相の人」であると述べられたことはなく、逆に『登山状』において、 「それ流浪三界のうち、いずれの界におもむきてか釈尊の出世にあわざりし。輪廻四生のあいだ、いずれの生をうけてか如来の説法をきかざりし。華厳開講のむしろにもまじわらず、般若演説の座にもつらならず、鷲峯説法のにわにものぞまず、鶴林涅槃のみぎりにもいたらず、われ舎衛の三億の家にややどりけん、しらず地獄八熱のそこにややすみけん、はずべしはずべし、かなしむべしかなしむべし。」 と説いて、自身が迷いの世界である欲界・色界・無色界の三界に流浪する間において、『華厳経』が説かれたときも、『般若経』が説かれたときも、霊鷲山においてお説教があったときも、涅槃される前の最後のお説教にも立ち会えなかったことに対する悲嘆の情が述べられています。この心境は、自己が曠劫の昔より生死を流転し釈尊が仏教をお説きになっているのも知らず、地獄でもがき苦しんでいたかもしれないことを主体的にとらえた境地を端的に示したものといえます。つまり、法然上人自身は「還相の人」であることはまったく考えておられません。  これは、親鸞聖人にとっても同じです。あくまで、凡夫の自覚の上において「還相」は往生後であり、今現在の説法や人間関係におけるものではありません。ですから、これもまた阿弥陀仏の救いは疑いがないからこその言葉であり、自分自身に疑いがないということではないといえるでしょう。 >>▲ 「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」 >>☆ であれば 《信じる》の成立 →そして《称名》の行為 という先後があると考えるのですが いかがでしょう。 >>このことが 単に 分析においてだけでよいですから 成立するとなれば やはり わざわざ言わなくてもよいことながら 阿弥陀仏は・その力のはたらきは 絶対であるという確認が出来るはづです。    これは先の法然上人の言葉の中でも聞法→信→念仏という段階でとかれていますね。このシステム自体が阿弥陀仏の選択によるものといえるでしょう。 >>むろん 絶対という概念は 人間にとって 手に取るように分かるものではなく あくまで 想定に属します。虚構です。虚構として 現実です。つまり 阿弥陀仏が もし絶対の領域のことではないとすれば それは 単なる人間の精神の産物であるとなります。いわば想像物として おもちゃです。そうではないと言うためには 絶対そして 絶対他力であると 仮定します。神も もちろん 同様です。  私はbrageloneさんのいう「絶対」というのがよく分からないんです。私は「絶対」と聞くと、本覚思想を思い出してしまいます。  浄土教以前に流行した「本覚思想」おいては、自他・男女・仏凡・迷悟・老若等の二元相対を超えた不二絶対の真理が主張され、二元相対の諸相を不二絶対の本覚(本来我々が備えている悟り)の表れとして肯定していきます。たしかに、私達は細かいことでいろいろ差を付け判断し差別し生きている。本覚思想はそんな私達の狭い了見を解き放つ思想のような気にさせる。けれども、本覚思想はこの相対を超えた絶対の境地の中で、全ては絶対仏もしくは法の表れとして全ては肯定され、もともと凡夫であることも仏の表れなのだから、修行する必要はないというところまで主張されるようになります。  このような中に、二元相対論を主張したのが法然上人です。阿弥陀仏と凡夫とは違うものであるという相対論の中で、阿弥陀仏と凡夫との緊張関係を生み出すことで、阿弥陀仏の救いの絶対性を主張しされます。  ですから、「阿弥陀仏は絶対です。」といわれると、ちょっと違う気がするんですよね。ちょっとうまく説明できませんが、すみません。 >>このように哲学しておかないと 世界の舞台では 通用しないと思いますよ。いかがでしょう。いっさい説明はせずに スマイルばかりの日本人ということになりかねません。あいまいの美学は 内向きでは 通用するんですかねぇ。どうですかねぇ。あの麻生太郎も その美学の波の押し寄せるのに 手こずっているというべきでしょうか。(うつくしく言いすぎですね)。  麻生氏に関してはコメントは控えますが、浄土教はある意味理屈ではない部分が大きいこともいえます。鈴木大拙氏は「浄土真宗の妙好人たちは、禅の高僧と同じ境地に立っておられる」と驚嘆したというのは有名な話ですが、この妙好人と呼ばれる人たちは別に高学歴でもなく逆に一文不知の方々が多く存在しています。そのような方々が、なぜ鈴木大拙氏を驚嘆させるほどの境地に導いたのが、「節談」というお説教で、落語講談浪花節といった日本の話芸の源流と伝えられています。つまり、「節談」の特徴としては理屈を述べる説教ではなく、笑いあり涙ありの物語を中心に法悦(教えを喜び楽しむこと)に浸るお説教です。哲学的な理論を構築してどうやったら世界に通じるかということよりも、笑いと涙で人の共感を呼び共に教えを喜び合うというのが浄土教ではないかなと思います。(今「節談説教」と引くと色々でてきますから、どうぞご覧になってみてください。ちょっと違う浄土真宗が見れると思いますよ。)  まぁ、長々駄文を連ねましたが、まったくまとまってないですね。ごめんなさい。私もまだまだ勉強が足りませんね。申し訳ないです。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

 * ☆☆ そりゃ 表現行為の自由はありますが もし 心に――深心ではなくて――部分的に疑いを容れているようであれば 人に対して 失礼になるでしょう。  ☆ これについて 《普遍的な〈初めて〉》としての信仰の成立にもとづけば 疑いを容れる気づかいはないという意味に取ってください。これが 揺らぎますから つねにそのつど 原点のわたしにわたしを掛けて わたしを自乗しつつ すすむのだと思います。如来のはからいを飲んだ原点体験を 何度も 再現するということではないでしょうか。  いえいえ というよりも すべて まかせているわけですから 疑いとか 自己の至らなさとか この種の弱点を拾い挙げても しようがないように思うのですが。

noname#80116
質問者

補足

 baka-hageさん ご回答をありがとうございます。  ★ 節談説教『加典兄妹』    ☆ を視聴しましたが これは 一辺や二度では 分かりにくいですね。現代人は 説教ものは 嫌うかも知れません。  ★ 落語講談浪花節といった日本の話芸の源流と伝えられています。  ☆ とは知らなかった と言いますか 節談説教じたいを知りませんでした。どう発展させるかでしょうね。  たとえば その鐘が 《お母さん(エミレー)》と聞こえるとかいうのは もう旧いのではないでしょうか。つまりは こうです。  つまりは 《絶対》観にかかわってきます。  ○ 浄土なる絶対の領域のことが 娑婆なる相対の世界に 想定として 遍在するとしても いいわけですが この鐘の音が 弥陀のはからいによって 《お母さん》と聞こえると見なすとすれば それは 飽くまで《主観》の内にとどまることです。どれだけの数の人に共通であったとしても それぞれの主観内の問題であります。   ○ これを 主観を通り越して すべてに渡って 人びとの共同の観念として そしてその幻想化において等しく 《自他・男女・仏凡・迷悟・老若》の一如という説に持っていくのが 本覚思想であると思います。鐘の音が 《お母さあーん》と言っていると聞け というわけです。つまり これは 《絶対》ではありません。はき違えています。  ☆ ただし 別の問題もあります。  ○ 無限には 1,2,3・・・∞とつづくような《継起無限》がありますが これは ほんとうには 無限ではなく 絶対ではありません。ほんとうの無限=絶対は かたちある単位体や部分を持たないからです。仮りに――想像上―― 無限=絶対を分割したとしても その各部分は やはり 絶対であり無限なわけです。  ☆ つまり とりもなおさず 苦言を呈しますが 《信機→信法→信機→・・・》という過程は 実際のことなのですが その過程の一時点において 最初の信仰成立があるはづなのです。それは 如来の側にせよ人の側にせよ 《無疑無慮》であって 完全な《飛躍》なのです。《普遍的な〈初めて〉》として 信仰は成ると捉えます。  なぜなら それは 向こうから つまり 如来の側から こちらにやって来るものだからです。部分的に あるいは 不完全なかたちで やって来るとは 考えられません。あとで 疑いは生じるでしょうが 信仰成立の時点に限っては 身も心も――救われると言うよりは―― いわば たも(たも網)で 掬われたといった体験を持つはづなのです。魚になった気分なのです。  さもなければ 阿弥陀仏の誓願は 不完全であったと言わなければならなくなります。あるいは ひとによって 絶対であったり不完全であったりすることになります。信の成立は――たとえ 空想としてでも―― 絶対・完全なのです。つまり それは ただ 受け容れるだけなのです。わたしたちが その完全性をつくるわけではなく 絶対を見たわけでもないからです。その声が聞こえた気がした だけです。  そうでなければ   ★ 聞法→信→念仏という段階  ☆ における《信》は 精神による想像物として 祀り上げられているだけであり おもちゃのようなものです。  おもちゃでなければ   ○ いま現在 《まづ有縁を度すべきなり》と考えられます。  ☆ そうでなければ ままごとです。《往相還相》は 説かれたものがあるのでしょうが その内容じたいとしては 人間の思考で受け取るほかありません。また この人は すでに今 《還相》にあるかと問うても おそらく 人が判断するようなことでもないのではないでしょうか。おまえは 地獄行きだとか言って 裁くのと そう違わない人間のはからいに属することになります。信心の深さを 判定するというのですから。なぜ 如来に任せないのでしょう。  それに もし いやしくも信仰が成ったなら そのいま現在のすがたで 社会にあって 信心の完成をも想定していないとすれば それは 継起無限に やはり なるのではないでしょうか。限りなく近づくというのは 信仰ではなく 人間のはからいによる努力です。不完全でよいと ふてくされた恰好ではないでしょうか。  ▲ 「往還回向由他力」  ☆ なのでしょう? そして その《他力》に帰依しているのでしょう? ならば いま現在 その《往還回向》を実現させようという 弥陀のはからいが ないとは限らないじゃないですか。ないかも知れないが あるかも知れません。それとも 現世では 人を度すことは慎めということでしょうか?   と言っても 世界を舞台にして 《度す》ことは もはや 《弥陀の誓願》という言葉すら出さないで 信仰をも世界観をも 説明しつつ あとは ふつうの日常生活の問題として 生きるに尽きるとは 思うのですが。

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    私の母は親鸞会に30年以上入信しています。先日、私は、東本願寺でおかみそりを受けたいと母に話しました。ところが、「母は本願寺は死んだら助けるけれど親鸞会は、生きている間に幸せになれるので、(信心決定、絶対の幸福というそうですが)本願寺なんかでおかみそりを受けるな。」といいます。「親鸞会の考え方こそ親鸞聖人の教えを正確に教えている」といいます。さらに古くからの母の友達という親鸞会の先生は、「本願寺はおかみそりという形だけの儀式によって仏門に入ったように見せかける。」などといっているそうです。私としては生きている間におかみそりを東本願寺で受けて法名を手に入れ、大谷派の門徒として教えを聞いていきたいと思っています。どのようにすれば、母に理解してもらえるのでしょうか。  また、母曰くおかみそりを受けた人は100万円単位の出資を本願寺にしなければいけないとか、お寺の行事に全部出なくてはいけないとか言っています。また、初詣も行ってはだめだと言っています。実際におかみそりを受けたことのある方や大谷派の僧侶の方のご意見を伺いたいです。  同じ浄土真宗なのにこんなに考え方が違うなんて不思議でなりません。どちらが正しいのか私にはわかりません。教えてください  

  • そこまで菩提心が問題なのか?

    ~~~~~~~~~~~~ 法然は,また十二章「釈尊、定散の諸行を付属したまはず。ただ念仏をもつて阿難に付属したまふの文」においては,観経に説く「菩提心」に関し、次のように言う。 発菩提心とは,諸師の意不同なり。天台には即ち四教の菩提心あり。謂はく蔵・通・別・円これなり。 つぶさには止観の説の如し。真言には(中略),華厳には(中略)、三論・法相に,おのおの菩提心あり。 つぶさにはかの宗の章疏等の説の如し。また善導の所釈の菩提心あり。つぶさには疏に述ぶるが如し。発菩提心その言一なりといへども,おのおのその宗に随つて、その義不同なり。(中略)願はくはもろもろの行者,一を執して万を遮することなかれ。もろもろの往生を求めむ人,おのおのすべからく自宗の菩提心を発すべし。たとひ余行あしといえへども,菩提心をもつて往生の業とするなり。 この文に関する限り,法然は「善導の所釈」の浄土門に固有な菩提心の存することを認め,同時に聖道門・顕密諸宗の菩提心についても、これを全面的に否定する如き立場をとつてはいないのである。しかし同章の後段において,法然は再び菩提心否定の立場を明確にする。 答へて曰く,「仏の本願を望むに、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と云ふ。定散の諸行は本願に非ず。 経中に「定散を説くことは,念仏の余善に超過たることを顕はさむがため」に過ぎず,したがって 「菩提心はこれ浄土の綱要なり。もし菩提心なき者は,即ち往生すべからずと」考えることは誤りである。菩提心を含め「定散は廃せんむがために説き、念仏三昧は立たせむがために説く」のが経の本意である。法然において,菩提心は往生業としては,究極「余行」として位置づけられる。法然のこの菩提心観は,その思想の中核をなす本願念仏説を構成する契機である。しかしそこに,明恵から大乗仏教の基本的立場に反するとの批判がなげかけられる理由がある。明らかに菩提心は大乗仏教一般の基本をなすものであり,このことは中国・日本の浄土系思想において一貫した思想的伝統であった。しかるにこれを法然は否定したのであり,ここに法然浄土教の独自性と,同時に問題が存する。 菩提心に関する一考察 ――明恵・法然・親鸞の所説をめぐって―― 熊田健二 http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/2587/1/al-no57p001-017.pdf 5~6ページ ~~~~~~~~~~~~~~~ 私はもうokwaveに参加したくないのです。 中国人や韓国人にとって日本の浄土教の菩提心の解釈など、どうでもいいでしょう。 いやみばかりいってくるようですが、そんなに気になるならpdfを読めばいいでしょう。 批判したいならpdfの作者にすればいいでしょうが。 本当に嫌になる。

  • 歎異抄を読んで

    歎異抄を読んで、気になっていた文が有りました。 第五条 自分の父母のために 念仏をするのではない。 ならば、 お葬式で「盛大に行う葬式100万円、家族で行う葬式30万円」 執り行う葬儀は、極楽浄土への死者への往生の違いでしょうか? 第六条 師と弟子ではなく、ともに信仰の道を歩むものどうし。 寺院で階級の上下が有り上納金を納めるのは、師弟の差があるの ではないでしょうか? 後序① 信心する者には、上下・優劣がない。 死者の戒名に序列上下・優劣があるのは、お布施の多い少ない? 以上三点の質問をお答え願えませんでしょうか。 

  • 特殊絶対性仮説をデザートにどうぞ

     一般および個別絶対性なる理論に立つなら どういう実践ないし現実の生活となるのか?   これにこたえる必要があります。  普遍神〔とわれとの関係〕は 言葉や概念・理念の問題ではなく ちからの問題である。  これを明らかにするのが 特殊絶対性仮説です。  要するに:   ・名前の異なる神もみな 普遍神のシルシの違いに過ぎない      ・有る神のほかに無い神を 普遍神のシルシとする場合もある。互いに同等である。      ・普遍神とわれとの関係なるわが非思考の庭――つまり信仰――は そこから得ら    れる観想をオシヘとして・しかも――あろうことか――そのオシヘを信じなさいと他    人に説く宗教 この宗教とは〔信仰は〕 何の関係もない。  さしづめこれらの一般および個別絶対性についての説明内容に立つ信仰は その実践において 元気が出るということ。無根拠にあって元気が出るということ。  ――これが 特殊絶対性仮説です。実践ないし現実の生活の問題として 元気が出る これが その根幹としての内容です。  非思考ゆえ 無根拠においてです。  これが 基本として説明のすべてです。  ご批判を自由にどうぞ。

  • 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説

     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。