• ベストアンサー

親鸞再考

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.24

 こんにちは。真宗の人間としては忙しい時期で来ていなかった間に、おもしろい質問が出ているとは思いませんでした。少しお話させていただきます。 >>(A) 《弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて》というとき そこには 《人間の経験的な思考(はからい)》が伴なわれているのではないか。  これにつきましては、法然浄土教を中心とする日本の浄土教で往生に必須の信心を三つに分けて「三心」が説かれます。その中でも「深心(じんしん)」という心は浄土教にとってはその骨子となる心といえます。  この「深心」については「深く信じる心」として、二種類あると説かれています。法然上人は善導大師の『観無量寿経疏』の深心釈を前面引用して、 「二者深心。深心と言うは、すなわちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一つには決定して、深く信ず。自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無しと。二つには決定して深く信ず。かの阿弥陀仏、四十八願をもって、衆生を摂受したまう。疑い無く慮無く、かの願力に乗じて、定んで往生を得と。」  と説き、深心とは「深く信じる心(深信)」であるとし、また深信には二種類あると示しています。 ●信機  一つは、自分自身が罪悪生死の凡夫であることに気付き、このままでは永遠に悟りを得ることは難しい存在であると深く信じる事です。この、自らの機(機根)を罪悪の凡夫であると信じることを、「信機」といいます。 ●信法  そして二つは、この自分自身の悟りがたいという機根を信じる「信機」に対し、そんな悟りがたい者が救われる、阿弥陀仏による救済の法を信じる「信法」が説かれています。阿弥陀仏が四十八願をもって定めてくださった称名念仏をする事によって、罪悪生死の凡夫であったとしても救って下さるのだと、疑うことなく、自らの考えでいれずに、必ず往生が得られるのであると言う確信を、法を信じるものを「信法」といいます。言い換えれば、阿弥陀仏の救済を確信することいえます。  この二種の深心について法然上人は「浄土教に帰入してみれば、どちらが先であるかは分からなくなってしまうが、浄土教帰入以前であれば信機、信法のという『観無量寿経疏』に説かれている順番で信じなさい。」と説かれています。つまり、浄土教帰入以前の段階においては、自分自身の愚かさを知り、阿弥陀仏の救済を知る、という段階をたどるということです。確かにここでは「自分自身の愚かさを知る」という自身のはからい(人間の経験的な思考)があるといえます。  しかし、この信機は信法は一度で終わることはなくより深まっていく心でもあるといわれます。つまり信機→信法→信機→信法→信機→・・・という具合です。このとき、この自己内観は最初の信機にも目が向きます。お釈迦様は『法句経』のなかで 「もし愚者にして愚なりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、 愚者というべし。」 と説いておられますが、「自分はそのお釈迦様が説くような賢者であったろうか?そんなはずはない。自分はそんなことに気づくことのない愚か者であったはず。では誰が気づかせてくれたのか?」という問いとなり。最初の信機の前に「自分の愚かさに気づかせてくださった阿弥陀仏という「信法」が生まれます。こうなると、「信機」「信法」どちらが先か分からなくなり、阿弥陀仏のはからいだけが残るというわけです。   >>(B) 阿弥陀仏は 《絶対》か。  まず、これは違います。確かに阿弥陀仏の救いの力は絶対であるかもしれませんが、阿弥陀仏が絶対なのではありません。阿弥陀様は「神」に様に森羅万象全てを司っているわけではありません。 >>《絶対》であるなら 《はからい》はありえない。あっては おかしいと考えます。  阿弥陀様はいつでも我々を救おうとあの手この手でアプローチしてくださっていると思いますよ。これが、阿弥陀仏はからいですかね。 >>(C) 《不思議》は 《〈絶対〉との対面として 非思考》ゆえ 信仰であると採りますが 《誓願》は 概念を含んでおり それを人が受け取るなら 《思考=はからい》を伴なう。  先ほど「深心」で説明したように、初期の段階ではそうでしょうが、そうじゃなくなっていくんですよ。 >>(D) 《念仏》は 《信仰》の現われた一つのかたち。  そういう言い方もできますかね。法然上人は『常に仰せられける御詞』のなかで、 「仏阿難に告げたまわく、汝好くこの語を持て、是の語を持てとは、即ち是無量寿仏の名を持てとなりと。云々。上人かたり給える詞には、名号を聞くというとも、信ぜずば聞かざるが如し。たとえ信じずと云うとも、唱えずば信ぜざるが如し。只常に念仏すべしと。」 と説かれています。また、親鸞聖人は信心を重視しますがその理由としては『教行信証』信の巻に、 「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」 と説いておられます。ですから、「《念仏》は 《信仰》の現われた一つのかたち。」というよりも「信心=念仏」ということでしょうね。  長々書き連ねましたが、急ごしらえのため誤字脱字乱文はどうぞご容赦ください。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

 むろん 絶対という概念は 人間にとって 手に取るように分かるものではなく あくまで 想定に属します。虚構です。虚構として 現実です。つまり 阿弥陀仏が もし絶対の領域のことではないとすれば それは 単なる人間の精神の産物であるとなります。いわば想像物として おもちゃです。そうではないと言うためには 絶対そして 絶対他力であると 仮定します。神も もちろん 同様です。    このように哲学しておかないと 世界の舞台では 通用しないと思いますよ。いかがでしょう。いっさい説明はせずに スマイルばかりの日本人ということになりかねません。あいまいの美学は 内向きでは 通用するんですかねぇ。どうですかねぇ。あの麻生太郎も その美学の波の押し寄せるのに 手こずっているというべきでしょうか。(うつくしく言いすぎですね)。  * baka-hageさん このあと 他の宗派と言いますか ブッディスム全体として その《信仰》のあり方はどうなのか これを問いたいという魂胆があります。すでに問うています。→《Q4531636:慈悲は 経験現実か=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4531636.html》です。

noname#80116
質問者

補足

 baka-hageさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。まづこれまでの経過をたどってみます。  (A)の読みは ctaka88さんに 次のように読むべしとおしえていただきました。ANo.14です。つまりは そのあとの《念仏まうさんとおもひたつこころのおこる》という箇所までを ひとまとまりとして 捉えるべきであり また歎異抄・第十一条の  ▲ 念仏申さるるも如来の御はからいなり  ☆ を基本に据えて 合わせて読むなら 如来のはからいが すべてであるということ(絶対他力)を 納得いたしました。  その後 わたしが次のような細部のことを知りたいと言い出しました。念仏は 経験行為であるゆえ 微妙に細かく分析するなら その称名行為の寸前に すでに聞いていたであろう阿弥陀仏の誓願のことを思い出し しかも なぞにおいて その誓願のちからを受け容れようとする心の伸び(もしくは 開け)が起こり これを《わたし》は みづからの意志行為として=その限りで 我がはからいとして 受けとめ受け容れた。  つまりは 念仏を申す寸前に起こったこの一連の出来事――飽くまでも 無根拠において=はからいなく 心が開いた / いづれ耳にして記憶に残っていた弥陀の称号を その心で受け容れた(これは はからい) これら大きくは 二つの要素から成る出来事―― これが 《信じる》という人間のおこないであるのではないか。このことの当否を明確に知りたいと尋ねました。(たとえば No.17補足欄)  ctaka88 さんのお答え(No.23)では 一般に 阿弥陀仏が絶対かどうかの問題を含めて 信仰の成立→念仏行為という時間的な経緯分析については そこまで細かくは 意識しないということだそうです。  これらを踏まえて baka-hageさんのご教授につきましては 次のご指摘を 表現しなおした命題が 基本になるということではないでしょうか。  ★ 確かに阿弥陀仏の救いの力は絶対であるかもしれませんが、阿弥陀仏が絶対なのではありません。  ○ →《阿弥陀様は「神」の様に森羅万象全てを司っているわけではありません》が そのはからい・誓願つまり《救いの力は絶対であるかもしれません》。  ☆ とうぜん そうでなければ 《信じる》という行為は起きないですよね。そうでない場合に 心の開きが仮りに生じて 絶対ではないけれどもその弥陀のはたらきを 心に受け容れたとすれば――つまり 《信じた》とすれば―― それは 絶対ではない部分において 疑いが入っていると言わなければなりません。つまり ほんとうには 信じてはいないわけです。  部分的にでもいいからというのは ただ その場しのぎで 藁にもすがりたいというだけの心理的な それゆえ時が経てば また 別の心が生じるというような気休めの行為だというものでしょう。仮りに このような部分的なその場しのぎが 繰り返されて――《信機→信法→信機→・・・》という過程が展開して――《心の深まり》が仮りにあるとすれば それは わざわざ言わずともよいけれども 基本的には 絶対であるという〔あくまでも〕想定〔ですが〕のもとに 捉えられる。そして これに 心で同意したときなのではないでしょうか。  それというのも しかも 親鸞は――あるいは 親鸞も―― 他者もしくは社会に向けての心の伸びにも 触れているからです。いわゆる衆生済度です。つまり  ▲ (歎異抄・第五条) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・たゞ 自力をすてて いそぎ浄土のさとりをひらきなば 六道・四生のあひだ いづれの業苦にしづめりとも 神通方便をもて まづ有縁を度すべきなりと 云々。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というように 社会的な――必ずしも布教でなくとも――人と人の関係行為に及ぶというときに 絶対なる他力であるという想定でなければ 成し得ないと思われます。そりゃ 表現行為の自由はありますが もし 心に――深心ではなくて――部分的に疑いを容れているようであれば 人に対して 失礼になるでしょう。  ▲ 「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」  ☆ であれば 《信じる》の成立 →そして《称名》の行為 という先後があると考えるのですが いかがでしょう。このことが 単に 分析においてだけでよいですから 成立するとなれば やはり わざわざ言わなくてもよいことながら 阿弥陀仏は・その力のはたらきは 絶対であるという確認が出来るはづです。

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