• ベストアンサー

親鸞再考

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.30

 こんにちは。引き続きよろしくお願いします。 >>☆ を視聴しましたが これは 一辺や二度では 分かりにくいですね。現代人は 説教ものは 嫌うかも知れません。    それが案外そうでもないんですよ。講義形式の現代の布教が理が勝ちすぎて法義安心を充分に伝えられていないとされる中、聴聞者の感性に訴える節談説教の評価が高まってきています。  節談全盛期の方に言わせると、毎回同じ話を皆さん涙を流して聞いていらっしゃったようです。また、話の内容を全て暗記している方など、つわものもずいぶんいたそうです。 >>節談説教じたいを知りませんでした。どう発展させるかでしょうね。  起源はお釈迦様のお説教であり、『十二分経』の中には「歌」という意味を持つ「gaathaa」という言葉があるように、お釈迦様のお説教にも節がついていたことが伺えます。また、『十二分教』には因縁(尼陀那(にだな)・nidana)聴衆の請問に応じて種々の因縁物語をし、また譬喩(阿波陀那(あばだな)・avadana)例え話がされていたことに由来します。こういったことを基礎に中国にお説教は伝わり、日本において初めて説教を行なった聖徳太子以後、多くの名説教者によって受け継がれていき、鎌倉期に入ると法然上人の門下聖覚によって「安居院流」の説教が樹立されます。有名な『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・・」という冒頭の一文は、安居院流説教の名調子からきていると言わています。それが、浄土真宗にも伝わり、江戸期に「節談」という名で呼ばれるようになります。  詳しくは、仏教大学の関山和夫氏の著作に節談の構造・歴史等々記されています。    >>浄土なる絶対の領域のことが 娑婆なる相対の世界に 想定として 遍在するとしても いいわけですが この鐘の音が 弥陀のはからいによって 《お母さん》と聞こえると見なすとすれば それは 飽くまで《主観》の内にとどまることです。どれだけの数の人に共通であったとしても それぞれの主観内の問題であります。 >>○ これを 主観を通り越して すべてに渡って 人びとの共同の観念として そしてその幻想化において等しく 《自他・男女・仏凡・迷悟・老若》の一如という説に持っていくのが 本覚思想であると思います。鐘の音が 《お母さあーん》と言っていると聞け というわけです。つまり これは 《絶対》ではありません。はき違えています。  ちょっと、誤解があるので申しますが、鐘は弥陀のはからいによって「お母さん」聞こえるのではありません。  かわいい小娘の最後の一言を聞いた加典兄妹だからこそ、ただの鐘の音が「母さん」としか聞こえてこないということです。  そして「南無阿弥陀仏」聞くということとの共通点として、「南無阿弥陀仏」の六字であっても同じであり、阿弥陀仏の御本願を知らぬ人が聞けば「ナムアミダブツ」と聞くかもしれないけれども、阿弥陀仏の御本願聞いて下さったからには自分で称えているお念仏でも阿弥陀様の「衆生がかわいくて仕方がない」という阿弥陀様の声にしか聞こえないのです。と述べたいわけです。  あと「加典兄妹」は小沢昭一氏の「また又日本の放浪芸節談説教」に収録されている廣陵(ひろおか)先生のものを聞いてみてください。   >> 如来の側から こちらにやって来るものだからです。部分的に あるいは 不完全なかたちで やって来るとは 考えられません。あとで 疑いは生じるでしょうが 信仰成立の時点に限っては 身も心も――救われると言うよりは―― いわば たも(たも網)で 掬われたといった体験を持つはづなのです。魚になった気分なのです。 >>さもなければ 阿弥陀仏の誓願は 不完全であったと言わなければならなくなります。あるいは ひとによって 絶対であったり不完全であったりすることになります。信の成立は――たとえ 空想としてでも―― 絶対・完全なのです。つまり それは ただ 受け容れるだけなのです。わたしたちが その完全性をつくるわけではなく 絶対を見たわけでもないからです。その声が聞こえた気がした だけです。    確かに信心についてはその通りです。阿弥陀仏よりいただいた信心に違いなどはないと『歎異抄』の中でも語られるとおりです。  しかし、「その声が聞こえた気がした だけです」というのは違います。「加典兄妹」における結論である「南無阿弥陀仏」は「衆生かわいやな」の呼び声であり「我を頼め必ず救うぞ」と聞くのが弥陀を頼む心であるという根拠は、親鸞聖人が『教行信証』において「是以帰命者本願召喚之勅命也」と説いておられることからです。本願召喚の勅命ですから「浄土へ来いよ」の御呼ばれ声が「南無阿弥陀仏」なんですよ。 >> もし いやしくも信仰が成ったなら そのいま現在のすがたで 社会にあって 信心の完成をも想定していないとすれば それは 継起無限に やはり なるのではないでしょうか。限りなく近づくというのは 信仰ではなく 人間のはからいによる努力です。不完全でよいと ふてくされた恰好ではないでしょうか。  それは違います。阿弥陀様は機法一体全てを成就して、私達にご信心を御回向して下さってます。しかし、深心に関しては深まり続ける構造をもつからこそ完成しているのです。  もしも完全という形で終わってしまうものであれば、「本覚思想」とどこに違いがあるのでしょうか?本覚思想は先述の通り、この本覚思想は、衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性つまり本来完全な仏であるということが根底にあります。人間は誰もが完成された仏であるのだから、修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、全ては内なる仏の顕現であり凡夫は凡夫のままで仏の姿なのであると解釈されます。そのことによって、愛欲・退廃の全てが肯定され、現に僧侶たちは堕落していき、愛欲・財欲の成就を祈る「玄旨帰命壇」のようなものまで出来て、江戸時代中期には完全に終焉を迎えることになります。  「本覚思想」を見ても完成したとき人は堕落の道をたどります。「阿弥陀仏が本願を完成してくださっているから、何をしてもいい!」という考えが横行したのも同じ理由です。けれども、阿弥陀様はそこまでお見通しだったはずです。信機と信法は「限りなく近づくというのは 信仰ではなく 人間のはからいによる努力です。不完全でよいと ふてくされた恰好」ではなく、完成された阿弥陀仏の救いの心の表れであるといえます。   >>▲ 「往還回向由他力」 >>☆ なのでしょう? >>いま現在 その《往還回向》を実現させようという 弥陀のはからいが ないとは限らないじゃないですか。ないかも知れないが あるかも知れません。 >>それとも 現世では 人を度すことは慎めということでしょうか?   今現在も還相回向はいただいています。私などはお念仏など知らずに死んでいたでしょうが、多くの方々の還相回向をもってお念仏いただかせていただいています。  しかし、私は今現在の私が人を度すことができるほどの人間ではないと思っています。けれどもいつか、仏となり阿弥陀様のお手伝いができたら素敵だなぁとは思います。  前にも申しましたが、「自信教人信」です。私はただただお念仏をするだけしかできませんが、私はその姿で人を度そうとは思っていませんが共感し一緒にお念仏してくれる方がいらっしゃったら嬉しいですね。 >>すべて まかせているわけですから 疑いとか 自己の至らなさとか この種の弱点を拾い挙げても しようがないように思うのですが。  いやいや、そうではありません。法然上人も親鸞聖人も「深心」を重視されるのは、単に救いをいただくということではなく浄土教の実践形態にまで深く関わりをもつからです。この「深心」の信機と信法の二種に分けて説かれていますが、二種一具であると説かれます。つまり、凡夫であることを自覚することは、すなわち凡夫のお念仏させていただくことに直結しています。また、お念仏称えさせていただき阿弥陀様のお救いをいただくことは、自分の至らなさを愚かさをお知らせいただくことでもあるのです。これは、別々に生まれる心ではなく同時に存在する心です。浄土教においてただただお念仏称えさせていただくことが阿弥陀仏への全託であり、それがあらわされるのが深心なのです。法然上人もこの点については『十七條の語法語』のなかで、 導和尚深心釈せんがために、余の二心を釈したもうなり。経の文の三心を見るに一切、行なし、深心釈にいたりて、はじめて念仏の行をあかすところなり。 と説いて、善導は「深心」を説くために他の二つの信心を説いたとしています。その理由として、善導は『観経疏』において三心を「至誠心」「深心」「回向発願心」の順番で解釈するとき深心釈の中にのみ正行・雑行を明かして、阿弥陀仏の本願にある念仏を称えることを勧めていると指摘しています。ですから、「深心」というのは浄土教の骨子というべき信心なのです。  またしても、長々書き連ねましたが、まとまらぬ文章で本当に申し訳ないです。またしても的はずれなことを書いたかもしれませんが、どうぞご容赦ください。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

 でも 絶対の無限のほうを 基本にすえているということは   ☆☆ すべて まかせているわけですから 疑いとか 自己の至らなさとか この種の弱点を拾い挙げても しようがないように思うのですが。  ☆ に通じると思うのです。なぜならば 一 二 三・・・と段階を踏んで進むときのその段差としての《至らなさ》を思うゆえに 念仏を申すのではなく ましてや 信心が起こったのでもないからです。いえ もっと精確に言うべきです。信心が与えられ 始まったゆえに 段階ごとの至らなさを思うようになるのだからです。だって 信心の始まる時でさえ わが愚かさを知るのは――つまり 信機は―― 如来のはからいによるのだからです。  ・・・  長引きそうですね。違いも 徐々に 顔を現わして来ましたね。絶対他力では 一致しているのですがねぇ。やや途中ですが ぜひ この核心について 解き明かしていただければと思います。

noname#80116
質問者

補足

 baka-hageさん ご回答をありがとうございます。  関心のありかが少し違いましたが 親鸞の信仰一般の内実について 述べていただきましたので この質問の回答集として よかったと思います。  まづ 微妙な焦点ないし力点の置き方の違いについて 述べます。そして その前に 《信心》と《信仰》との微妙な違いについて やっと分かりかけて来たようにも思っていることを まづ お伝えしておきます。  ★ しかし、「その声が聞こえた気がした だけです」というのは違います。・・・本願召喚の勅命ですから「浄土へ来いよ」の御呼ばれ声が「南無阿弥陀仏」なんですよ。  ☆ これは わたしの舌足らずと言いますか 確かに 焦点の置きどころが 別々になってしまいました。おっしゃる内容は 信心の帰着するところであり 信心の始まってからの日常の過程におけるお話であり そのとおりだと思います。(往ってから ふたたび 還ってくることも つけくわえて欲しいと思いますが それは 措いておいてです)。  わたしの焦点は 信仰の始まる起点 ただ そこにおける心の構造――阿弥陀とわたしとの関係構造の中身―― これにあります。また そのことの説明の仕方にも からんでいます。  《弥陀と――想定において――直面した。これは 向こうから来たのであるからには 絶対他力である。というのが わが主観である。と同時に ひとに説明するには 想定というからには 〈声を聞いた気がした だけ〉である。つまり すべては 主観におさまる出来事である。変な言い方をすれば 弥陀とわたしとの二者の世界である》と。  ですから 本覚思想の問題にしても 同じようなのです。  ★ 阿弥陀様は機法一体全てを成就して、私達にご信心を御回向して下さってます。しかし、深心に関しては深まり続ける構造をもつからこそ完成しているのです。  ☆ これも 信心の始まってからの過程を捉えての説明であり そのとおりなのだと思います。ただ 信心の始点においては 《浅い・深い・深まる》という気づかいは ないのだと思います。《弥陀の声がしたということが 部分的だったとか 不完全なかたちだったとか そういうことは あり得ません。身も心も 人格の全体で 掬われた格好なのだ》と考えます。  つまり それだからこそ その後 揺らぎがあって 《深心に関しては深まり続ける構造をもつ》とも言えるのではないでしょうか。原点があると考えるものです。  つまり それだからこそ 本覚思想が 信仰の完成を掲げることとは 真っ向から 対立しています。わたしのは 主観内面での・また想定であるゆえ主観におさまる完全性における出発です。本覚のほうでは あたかも客体についても あるいは 客観的にも 完成が見てとれると言い張るのだと思いますから。  ☆☆ もし いやしくも信仰が成ったなら そのいま現在のすがたで 社会にあって 信心の完成をも想定〔する〕  ☆ というのは――すべて 想定ですが―― 原点とその持続(断続的な持続)として 全人格において帰依したという姿 その意味での完成を言います。摂受が 完全なかたちで成されたゆえ 信心は 完成したかたちで始まった こういう意味です。その後 凡夫にあっては 揺らぎます。したがって 原点回帰の継続ということになります。言いかえると 信心が発進したのは 完成した姿においてであったからこそ その 想定という恰好にある信心が 現実に 深められていくのだと考えます。  繰り返しますが 完成から始めたのであって 一から始めて 二 三・・・と段階を追ってのごとく 高められ深められるのではないと言いたいのですが いかがでしょう。深められるという様相じたいは 共通であるはづです。ですが 後者だと 継起無限になって いつまでも 信心の弱さについて弁解が効くということになります。それは 地道で着実な歩みであるごとくに見えますが その行く先は けっきょく 見えていないと言いますか  あるいは 逆に 弥陀は つねに あたかも馬の鼻先にある目標物であるかに わたしには 映ります。  このとき 次のような考え方が あるいは 出来るのかも知れません。それは 弥陀は とうぜん この世界に遍在している。だが それとは あたかも別に あたかも分身のごとく わたしたちの ほんの一歩前に いつも そのすがたを見せるかたちで 信心を深めさせようと はたらいている。という解釈です。絶対の無限と 継起無限と ふたつの姿を持つという解釈です。  あたっているかどうか たぶん 間違いだと言われると思いますが わたしとしましては 絶対の無限を しっかりと 基本にすえることが 肝心であり それが あれば あとは 表現のあやだとは思います。

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