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親鸞再考

noname#96295の回答

noname#96295
noname#96295
回答No.22

門前払いどころか、私は親鸞に関して門前の小僧ですらありません。 学生時代から進歩のない通り一遍です。 それにしてもまず、はからいという語を、本来の意味に従い「取り決めておこなうこと」「処置」とお考えでないのは腑に落ちません。  阿弥陀が決めて行うことが、阿弥陀のはからいであり、 文盲極貧のうえ分別も明るくない人々が、決めて行うことがあれば、それがその人々のはからいであると。 はからいは善悪かどうか最善かどうかの問題も含まず、選択かどうかの問題も含まずに、意味が成り立つでしょう。 百回の意思、百万回の意思、百億回の意思のたゆまぬ反復が起こり得る、 場処と言うのか、契機と言うのか、そこに、一回性の性質のものがあるでしょうが、 一回性のうちには全体を見通す光・明哲はなく、 人間に可能である弱い光があると思います。 対象化とは、きわめて難しいものです。これは認識していただきたいと思います。 われわれの主観の勝手な記憶と予測が、かろうじて対象を対象たらしめていますが 智明に照らされた、顕の側に表れ尽くしたものの「代わりとして」、 一回性において代替される手段 が、対象に近付くメソッドなのです。 言葉もそのようにあり、宗教の儀式やイニシエーションというのもそのような性質のものですが 親鸞の場合の念仏もまた、代替された手段ではないかと思います。 一回性の弱い光には、自発的な意思があってよいし、むしろなくてはならないでしょう。 全体の対象化というのは、なるほど一見小説家や政治家には行をとおして接近しなければならない技能と見えます。 しかし過去の結果が今わかり、未来の結果が今わかる、という目を持っているのは 神託だけと昔からドラマトゥルギーが決まっています。 行為、はからいの全体は、おこなう人間には不可知です。 小説家や政治家は多分に錯覚を見る職能でしょう。掌握しているのはイマーゴやイデアであって、これらを絶対視するものでしょう。 阿弥陀が祈りの対象ではない、阿弥陀のはからいを信じて阿弥陀仏を唱える、 この一回一回のことがらが、対象見えなき不安をよく埋め合わせるものとなっている、巧みな仕組みと思います。 とまあ所感を述べただけですが。 「悪人正機説とキリスト教の原罪」http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1505325.html というのがありましたがご覧になっていますか。

noname#80116
質問者

お礼

 しかも そのさらに寸前に 如来のはからいによって=すなわち 人間による何の表象も思考も行為もなく なぞの一瞬において こころの伸び(あるいは ひらけ)が起こったということではないでしょうか。これを受け容れたということではないでしょうか。これが 《信じる》という行為です。受け容れるのは 大きく言って はからいです。  ですから 《念仏》と《信仰(その成立)》とは 前後関係があると考えるのです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  阿弥陀が祈りの対象ではない、阿弥陀のはからいを信じて阿弥陀仏を唱える、  この一回一回のことがらが、対象見えなき不安をよく埋め合わせるものとなっている、巧みな仕組みと思います。  とまあ所感を述べただけですが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういう事例も よくあるようです。詳しくは  ○ 阿弥陀のはからいを〔聞き及んでいたが ふと そのことと符合するような事態に陥り その事態を受け容れ〕信じて阿弥陀仏を唱える、  ☆ というのが 基本的な方程式だと考えます。  ★ Q:「悪人正機説とキリスト教の原罪」  ☆ については 今回読んで 無難なところを説明しているとは思いました。もう少し細かく明らかにすべきでもあるでしょうね。すでに間接的に触れたことがらもありますが いま一度 問題点を指摘していただいてからにしたいと思いますが いかがでしょう。(字数制限の関係も)。  課題として挙がった主題については amaguappaさんご自身が 質問――というのも おかしいでしょうが――に取り上げられるのも よいのでは? ここで つづけて 取り上げてくださっても構いません。

noname#80116
質問者

補足

 amaguappaさん 来ましたね。まづは ご回答をありがとうございます。  来ましたねと言いましたが それは 全体として ご見識の広さと深さに対してでありまして この質疑応答の核心部分では なお再反論いたしますので よろしくご査察くださいますようお願いしておきたいと思います。  あの野営していた羊飼いたち――たぶん無学文盲――に最初に かの人の誕生が告げられたのです(ルカ2:8-20)。虚構としてでも そう 記されたわけです。    むろん かれらのはからいによってではなく しかも何者かのはからいを受けて 自分たちの自由意志によってこれを受け容れた結果 飼い葉桶の中の乳飲み児を見ようと駆けつけたのです。  ここには 悪人問題も罪も原罪問題も ありません。それは まったくのなぞですが この謎を受け容れないほうが よほど なぞです。へそが曲がって折れて また 曲がっているのでしょう。(羊飼いたちが 悪人の要素を持たなかったのではなく 無原罪だというのでもなく それなのに その問題を通り超えて お告げがありました)。  これが 信仰の成立という事件です。  ★ 一回性(☆この問題は それとして 重要だと思いますが)  ☆ というよりは 《普遍的な〈はじめて〉》とでもいうべき体験だと考えます。この《最初〔のわたし〕》を そのつど 自乗して わたしの冪を作っていくのが 信仰の動態であり それとしての生の過程です。  ★ 一回性のうちには全体を見通す光・明哲はなく、 / 人間に可能である弱い光があると思います。  ☆ ということで よいのだと考えます。その《弱い光》――わたしたちの理性は 薄暮の明かりでしかないと言われます――であっても 《羊は よき羊飼いの声を聞き分ける》のだと思います。    ★ それにしてもまず、はからいという語を、本来の意味に従い「取り決めておこなうこと」「処置」とお考えでないのは腑に落ちません。  ☆ たしかに この場合(つまりいまの質問の場合) はからいの中の《思考》という要素だけを取り上げて 使っています。あるいはむしろ おっしゃるように  ★ はからいは善悪かどうか最善かどうかの問題も含まず、選択かどうかの問題も含まずに、意味が成り立つでしょう。  ☆ ということで 《表象》というただそのことだけを 取り出して来ているものです。蓮の花の咲く場面(天国で何人かのおとめによってかしづかれる場面)を仮りにでも表象するなら そしてそのことによって 念仏を申すなら それは ただの経験行為であるに過ぎないという批判 これを言うためだけのものでした。信仰が成ったあとに いろんな表象を描こうとも自由ですが 信仰の成立に関しては はからいがあっては おかしいということを言うためでした。  ですから  ★ 対象化とは、きわめて難しいものです。  ☆ の問題も 同じようなのでした。表象を伴なうのかどうか。伴ない得るという意味で 対象化し得るし する場合があると言ってしまったのです。もうひとつは  ★ 全体の対象化  ☆ に関連して まづ(1) ものごとを 全体として知ることと 全体をくまなく知っていることとは 別だという問題です。わたしは amaguappaさんを 経験合理性にもとづき 妥当な推論をおよぼしていく思考の持ち主だと 全体として 理解しますが そのamaguappaさんのそれ以外のことは 何ひとつ知りません。そういう意味での《全体の対象化》は あり得るのではないでしょうか。  (2) もう一つには 経験世界の全体を あたかもそれこそ神の目から見て 捉えるというのと そしてそうではなく ふつうにこの相対世界を 一人の人間として 全体として 捉えるというのと 二つの場合があると思われることです。その前者の例のごとく 全体の《完全な把握》のことを amaguappaさんはここで問題にしておられるように見えます。ですから  ★ 一回性 / 対象化(代替される手段)/ 全体の対象化 / はからい論  ☆ などは それぞれとして 重要であり 議論が俟たれますが いまここでは きわめて大雑把な定義〔の部分的な取り扱い〕で まづは 事足りるようには思うのですが いかがでしょう。    ★ 親鸞の場合の念仏もまた、代替された手段ではないかと思います。  ☆ これには 異論があります。  ● 「念仏申さるるも如来の御はからいなり・・・」  ☆ まるっきり如来のはからいによって念仏を申すのなら それは 自動機械です。おそらく弥陀の称号のことを すでに聞き及んでいたのでしょう。その称名をふと思い立ったという事例を取り上げるなら その念仏という行為をおこなう寸前に よしやろうという判断があったはづです。自由意志のはたらきです。つまり はからいです。

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