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親鸞再考

noname#117439の回答

noname#117439
noname#117439
回答No.21

オコリザルです。 A18の補足に呼応して。 ならば空感は不要です。 それは「無」でない何かを縛り付けておくためのモノです。 直感的コメントでして根拠は言葉には出来ないのですが。 それからお釈迦様は確かにスーパーヒーローですが「無」に関しては専売特許でなく、その観念を磨きぬいたインドの古典的哲学全体の勝利だと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ならば空観は不要です。  ☆☆ (No.18お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  親鸞は そのような理論よりも 《信仰そして その現われとしての念仏(念仏をとおしての 人間関係 つまり 広くは 愛)》を推し出したのだと考えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と述べたとおりだと 確かに 思います。ただ 《空観》は そのような信仰の動態としての生活ないし境地を 何とか分析し理論づけようとした結果であるとみれば よいかも知れません。  この経験世界で 人は ものごとを行ない これらは 社会現象となって現われる――そのような縁起共生の関係について ものの見方〔の転換〕だけによっても 境地に変化がある。つまりあるいは ものごとは すべて 有限で可変的だ。つまり 相対的なことなのだ。悪とか罪とか そのような観念ないし幻想によって 人びとは あまりにも(余分に) 突き動かされているのではないか。・・・というような議論ができるのだと思います。  それにちなんでは インド古代哲学は ブラフマンという実体 つまり 絶対者を立てますので ブッディスムの空観は それに異を唱えて出たのだと言われます。しかもインド哲学のほうは 人間の本質としての我(アートマン)は ブラフマンによって創造された存在でありつつ なおかつ その宇宙の根本原理(梵)と一体であると言います(梵我一如)。  空観を理性によって振り回すなら――つまりは 《空》という概念を あたかも真理としてのブラフマンと同じ観念としてのように 扱うなら―― それは 《空》ではなくなるのですから 戯論(けろん)なんだそうです。したがって  ★ それは「無」でない何かを縛り付けておくためのモノです。  ☆ つまり 《空》なる概念を 魔法の杖のごとく使って 他の概念をおさえつけ 議論をまとめ上げるとき それによって あたかも 世界が分かっているのだと威張りたいということのようです。よく見かけませんか。

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