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親鸞再考

ctaka88の回答

  • ctaka88
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回答No.17

幾分かでもお役にたてたならうれしく思います。 が、brageloneさんはどうしても前後関係でとらえようとしているようですが、 >(1)無明(煩悩)のわたし→(2)信仰=非思考の与えられ→(3)念仏行為  というこの順番は分析的にすぎると思います。 時間的に見た場合、(1)から順番の場合もあるだろうし、逆に(3)から行として入って(2)(1)へと進むことも、これらが全く同時に生ずることもあるでしょう。 信仰とはどういうものかと 歎異抄にそって私なりに考えると次のようになります。 他力信仰の構造については、第一条、第三条、第四条および第十一条以下で明らかにされています。 私が問題にしたいのは第二条、第五条、第九条などにある信仰者としての生活態度(行)の問題です。 第二条は「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。」 ここでは、ひたすら信じることが信仰なのだと理解します。しかもその信じることは理屈ではない、向こうからやってくるもので、それを受け入れるかどうかが問題なのだということです。キルケゴールのいう「つまずき」に最も近い問題と考えた覚えがあります。 第五条は「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。」 この部分は、正法眼蔵随問記にあった(?)師匠が病床にあっても入宋すべきという話とともに、信仰は世間一般の関係・常識とは別次元のものという理解となっています。 第九条は「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと」 ここは、信仰の揺れの問題であるとともに、信仰は行(念仏)の中にしかないという理解です。 信仰は一回だけの廻心によるもの(第十六条)ですが、それだけで信仰が続くわけではなく、信仰による「踊躍歓喜のこころ」がなくとも念仏が信仰を維持するということかと思います。 なお、日蓮に関連して若干。 日蓮聖人のものを直接読んでいないので見当違いかもしれませんが、 日蓮は 法華経の護持=菩薩道の実践 と考えていたと、私は理解しています。 従ってお題目を唱えることによって法華経護持を鮮明にすれば、誰でも菩薩なのでしょう。 これは、歎異抄第五条の後段とそう違わない発想のような気がします。

noname#80116
質問者

補足

 ctaka88さん ご回答をありがとうございます。  ★ 信仰の持続  ☆ この側面に焦点をあてて ご見解をうかがった恰好だと思います。その意味では 《習慣》を掲げて 信仰を定義されたNo.15の amaguappa さんの説にも もう少し 光をあてて 取り上げるべきだったとも まづは 思います。  そうですね。今回は あえて 異なった見方をお伝えして 出来ましたならば 親鸞ないし信仰論の核心に迫ってまいりたいと 大それた目論見をしてみましょうか。  一言では 《信仰の持続》は 《そのつど 信仰の成立した原点に立ち帰ること》だと考えます。その意味で 時間的な・歴史的な前後関係におけるおのれの信仰〔その成立の時点ないし内容〕の位置づけは どこまでも重要であると考えるのです。 つまり  ☆☆ (1)無明(煩悩)のわたし→(2)信仰=非思考の与えられ→(3)念仏行為   ☆ という順番は 実際にどのようであったかを別として 基本的に このように整理することが出来るという意味で やはり 或る種の仕方で 基礎になるのだと思います。  この(2)の時点に 絶対なる者の歴史的な経験的な介入があったということです。つまりは こちら側の人間としての思惟や行為などなどのはからいは いっさい なかったということです。(信仰の受け容れとしての振る舞いはあります)。つまりは この世界において (2)の時点というのは まったく 人が思考しうる実行しうることがらは 関与していないという時空間です。  無ですが それを受け取る《わたし》は存在していますので いわば数としては《一》なるものです。わたしは この《何も無かった》時点において 一なる存在です。つまりは この信仰の持続ということは このわたしなる《一》を ふたたび・みたび 掛け合わせる行為になると思われます。一の連乗積を形作っていく過程が 信仰の動態であり わたしの生です。一の無限のベキは やはり 一です。    他者とは 互いに度し合う関係にあることはあっても 欺かれたり傷つけたりすることは ほんとうには ありません。欺かれるなら われ有りと言うでしょうし 傷つくのは おのれの無明によるのではあっても 相手の批判や中傷によっては あり得ません。また 互いに 同朋です。  キルケゴールの《つまづき》について 検索して 知った限りでは その見解が あたかもキリスト以前の状態にとどまっていると見ました。(わたしは かなり大きな風呂敷を拡げていますが)。  そもそも キリスト・イエスは しかるべき人に対しては 自分の存在が 《つまづきの石》となると言われています。《神の子 つまり 神 である》とすれば そんなばかな!という反応において 躓きになるでしょうし 《人間である》とすれば 何故あなたは 人と違って 《絶望》を味わわないのか?という疑問とともに 躓く人は 出ることになるでしょう。  そもそも 《弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆゑに》 絶望は 人間として 味わうことがあっても 悪無限なる絶望に陥ることはないでしょうし そして――これは 完全にドグマですが――キリスト・イエス自身が神であったなら 阿弥陀如来の或る種の仕方で 応身仏だったということになります。つまり 信仰の時点の問題として 《まったくの無根拠》のことです。《無が わたしに介入した》という事件のことです。  ★ 第九条は「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと」  ☆ に関しては パウロに言わせれば 《日々 死んでいますが 日々 よろこんでいる。日から日へ 変えられる。一なる存在が 旧い者を脱ぎ 新しい者を着る》等々と言います。でも  ★ ・・・信仰による「踊躍歓喜のこころ」がなくとも念仏が信仰を維持するということかと思います。  ☆ 《信仰をとおして 愛がはたらく(または 愛をとおして 信仰がはたらく)》と言うときの《愛》が 《念仏》ということになるのではないでしょうか。ただし 《信仰》は もしすでに彼岸に達したのなら もはや 要らなくなっています。《信じる》必要はなく 《愛》ないし《誓願》の只中に わたしたちは 位置していると思うからです。信仰は要らなくなったのに対して 愛もしくは衆生済度は そのときにも なお はたらいているということだそうです。  ★ 日蓮は / 法華経の護持=菩薩道の実践 と考えていたと、私は理解しています。  ☆ ですから 《題目の唱え》や《法華経の護持》の前後関係において 《信仰》が成ったと言うのであれば われらが同朋であると考えます。  いかがでしょうか。なんだか 議論に巻き込んでしまった恰好ですね。

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