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親鸞再考

arayata333の回答

回答No.16

私は 神という存在を、助けてくれる存在ではなくて、すでに助けてくれている存在という捕らえ方をしています。 (大雑把な言い方ですが) ところが、宗教時代というのが人間史の中にはあって、その時代を通過している時には、 神はさらに「助けてくれる」存在としてそこに帰依するといのが「一般信仰」だったと思います。 親鸞とかの時代は、ことさらその渦中であることを 彼らは悟ったところがあるかと思います。 時代に寄り添い、時代の「今」への賭けとして、彼らは信仰を選び、それならばそこに、まず「信じれる親」のイメージを描き、そこに絶対的に帰依しようという信仰の世界を  “その当時の「今」を生きる良心の発露”としてその時代に打ち出したというのが この前の私の回答の続きとして書こうと思っていたことです。 * 私自身の回答の力点は、「悪人正機説」ですか、その悪人や悪の存在も含めてのあるがままの世界の捉え方のあたりにありました。 過去は過去、過ぎ去ったこととして、悪もまたこれからの生の可能性としては善悪両方の要素があると見切り「今」をとらえてゆく生き方や、 慈悲というもののあり方を大きな目で捉えているのですから、 そこが重要だと思うのです。 そのことを自律して考えることが出きるならば それに越したことは無いという考えは私の中では変わっていません。 でも、当時の時代においては、信仰の形で《親》のイメージがどうあれまずはそこへの理屈抜きの帰依を求めた とう賭けだったのではないか?という捕らえ方です。 * 今回 すくなくとも親鸞は その時代にても存在の不思議を自覚していたとの見解がはっきりしたのであれば、 なおのこと、それは彼のような人の良心の気迫の世界を ここのあらためて思い起こさせます。 大勢の知識ある人たちを歎異抄が感動させてきたのだとすれば、それはおそらくその良心の発露のあたりの、時代を生き抜く魂としての美しさにあったのではないでしょうか? * もうひとつ、私が念仏に注目したことがあるのは、 右脳と左脳の問題のような地点です。  心に関して いくら当時複雑に考えてもそれは複雑さに輪をかけるだけの話(阿頼耶識論のそのへんのめちゃめちゃさがその証拠の一つです^^)それよりも、 念仏だ!とすることで、 もともとの自然本性の世界への帰化 あるいは感性の発達を促すことのほうが先決だと捕らえたのではないかと思ったからです。 しかし、今の時代にては、 私の考えではなのですが、 あらゆる多元的などこから進んでも 真実の自律の道に向かう 大きな度量に目覚める 新たな哲学的なコミュニティーが必要で、   その中で 悪も、あくまで単なる死刑廃止論とかではなく、その理解の深まりと合意のもとに、徐々に、過去はすべてすぎさらせて、 悪人にも同じように眠っている可能性を そのコミュニティーの教育の機会均等の輪の中に迎え入れる体制を 実際に勝ち取るという 力強い姿勢に、 親鸞の弟子達も あらたに目覚めるべき時代なのでは、 という考えなのです。 これは新約聖書の「左の頬も向けなさい」というキリストの言葉とも符号する地点だと思います。 このへんの 《現代における「今」の良心》の目覚めが重要だと思います。 * ほんとうに神への感謝の気持ちに目覚めたというのならば、 頼ることからは、現代人ならば自律すべき「時代」かと思うのですが。 でも そのためにも、《“権力ともつながりかねない《親》宗教”の卒業》にかんしては、 理論的にも哲学の方からは明確さをきびしく求めてゆくことはたしかに必要のようですね。 今回、そのへんの真摯な姿勢を こちらのほうこそ学ばせていただいた想いにもなっています。 そこは、こちらのほうがお礼をいわせていただくところです。  ありがとうございます。   気持ちがすっきりします。 

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。顕微鏡で見るように arayata333さんとわたしとの違いを捉えてみましょうか。  ○ 基本として 人は 救われ済みであり もう何も わづらうこともない。  ★ 私は 神という存在を、助けてくれる存在ではなくて、すでに助けてくれている存在という捉らえ方をしています。 (大雑把な言い方ですが)  ☆ ここが 原点であり 共通なのだと思います。クリスチアニスムの見方では   ● 《人の存在にとって その心に対する自己欺瞞である原罪が 存在にとって基本の問題であり そうだったが しかも この原罪は 贖われた。もはや 毒矢は取り去られ とげは抜かれている》  ☆ というところです。  そのあとで あたかも とげが抜かれたあとの傷痕の問題が わづかに 残っている。というわけで 長い目でみれば これは  ★☆ 《“権力ともつながりかねない《親》宗教”〔――つまり親に依りすがるような形態での憑依のごとき心性の現われを合わせ持つ理性の自己誇示 から――〕の卒業》  ☆ を用意しているし すでに その推移の過程に入っているのでありながら まだまだ 大きな課題となっている後遺症の問題です。  ここで それではというので ちょうど各論として たとえば哲学が出番になるのですが 次の(い)には 文句なしに賛同しつつ (あ)に対しては 自覚の過剰に陥ることはないかと感じられ (う)に対しては どこか理性とその精神主義のにおいが――従来のその種の思想に欺かれた経験からか――してくる部分が感じられるのです。  ★(あ) あらゆる多元的などこから進んでも 真実の自律の道に向かう 大きな度量に目覚める 新たな哲学的なコミュニティーが必要で・・・  ★(い) 悪も、あくまで単なる死刑廃止論とかではなく、その理解の深まりと合意のもとに、徐々に、過去はすべてすぎさらせて、悪人にも同じように眠っている可能性を そのコミュニティーの教育の機会均等の輪の中に迎え入れる体制を 実際に勝ち取るという 力強い姿勢に、 親鸞の弟子達も あらたに目覚めるべき時代なのでは、 という考えなのです。  ★(う) これは新約聖書の「左の頬も向けなさい」というキリストの言葉とも符合する地点だと思います。 / このへんの 《現代における「今」の良心》の目覚めが重要だと思います。  ☆ ひとつには 《自律》も《自立》も 基本は 絶対他力だと考えるものです。人生や生活が思うように過ごせるとは思っていないのです。出来ることは すべて 自力で やります。やりますが それでも 行ない切れないというなおまだ あの傷痕が 妨げとして 残っているという感覚があります。  《良心》を最大限に尊重し発揮するように生きる。生きるのですが その目覚めだけでは 非力であるという感触があります。《左の頬も向け》たなら その左をも殴られたという恐怖です。それは そういう悪(善の損傷・欠如 としての とげの傷痕)が なにを隠そう わたしの中にあるからです。  一介の善良な市民 つまり 善人にも見られる悪の問題――錯覚でありながら その幻想が なおまだ はたらくかにあるこの現実という生――を どうすべきか。  顕微鏡で見ようとして その世界をつづりました。  * 日本は みづからの軍事力によって 自国を守るべきだという議論を 一方の側の人びとは 朝まで生テレビで していました。悪と不信によって振り回される人間と国家の姿が みづからの心から去らないという訴えであるようです。

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