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親鸞再考

arayata333の回答

回答No.13

私のような、死の孤独と直接に深く対面した人間や 自然に哲学的にものごとを考える人たちにとっては、 神とか《絶対》は、何かそれに頼るとか寄りすがるとかいう“子供の「《親》」に対するような気持ち”とは別のものでしょう。 しかし、これは仏教に限らず、キリスト教でもイスラム教でも 昔から今にいたるまでまるでそれが信仰であるかのように、続いてきてしまっている信仰形態です。 《神様 仏様 御手にすべてをゆだねますから 弱い私を究極はお救いください。  苦しみも すべてはあなたの御旨のままにて …》 行き着くところもそんな感じの信仰?です。 ですので、普通は それが>信仰一般<の世界と受け取られてしまうのではないでしょうか? そちらのとっての>信仰一般<というのは、当然「あるべき信仰としての常識」と言った意味合いのものと思いますが、 それはbragelone様がすでにそれをあまりにも 常識として理解しきっているからだと思うのです。 文章にこだわるようですが、>次の《信心》は信仰一般であると言えるでしょうか。< の文の中の>信仰一般<という言葉は、誤解を生み出してしまうと思います。 あえて、それと知りつつの「いじわる」な書き方^^なのかもしれませんが、であるとすると、むむ、なんと言ったらいいのか? * まず、私の印象ですが、 親鸞にしても法然にしても、おそらく存在とはという思索から阿弥陀仏にたどりついたというような信仰形態を持っていないと思いました。 最後までは 歎異抄を今回読めなかったわけですが、 これでは、オコリザルさんが危惧する部分があっても仕方ない面のある宗教ですね^^。 地獄とか孤独ということをリアルに理解していたら、とてもこのような文章は生まれてこないからです。 しかし、この法然という師匠とともにならば地獄への道も辞さない覚悟というのは、この場合、阿弥陀仏がすべての悪をも包み込む《親》なのですから、まず地獄は実際には存在しないと考える地点にあります。 ただその確信のようなものを隠して表現してるつもりになっているだけです。 いずれにしても、 その《親》は、悪の因果をすべて知り、悪が存在するのではなくてそのような小さい心の閉じ込められた存在とか、哀れな人しかこの世にもあの世にもいないという信念を持った 大きな絶対的度量の《親》ですから、   これを信じきっても、そこから他宗とも悪とも争いはい起こらないということまで考えられる宗教になっているとも考えられます。 ほんとうはだから頼っていいというのではなくて、  そのような広い理解や度量にみずから目覚めて、 自律して自ら この世の「今」を生き抜くというのが よりこの世に必要とされる《信仰》一般の世界なのでしょうが、 むかしからの「信仰一般」の世界が 《すべてをお任せする信仰》となってしまっている以上は   そのお任せする《親》が、 絶対的な広い度量さへある方という想像を信じきるかぎり、その形の中では 一番いい宗教とも言えるかと思います。 日蓮は 一言で「念仏無間地獄」と言い切っていますが、 この「無間地獄」というのは、単に自律できていない状態のことを言ってるのではなくて、「無間」というように 人と人との間がそこにはなく けっきょく自分の中の「仏」に閉じこもって出てこれなくなってると揶揄しているのでしょう。 しかし、 では日蓮は その信者達を自律させられたでしょうか? またその題目は 自分の中の題目から脱却できるものでありえたでしょうか? 日蓮自体は優れた人だと思いますが、 たとえば鎌倉の刑上での首を切られる寸前の巨大な星の光とかの話が御親筆(本人が書いたもの)ではないと解かっているのに今でも どこの宗派も大事にしてるように?  みんな、やはり日蓮や仏陀を《親》としてしまっていて、同じように自分の中の《親》に頼っているわけです。 これがゆえに、日蓮が生きていたらびっくりしてしまうような争いは、むしろ日蓮宗の起こってしまったという結果を生んでいます。 そういう“《親》宗教”の卒業を そちらは埋葬の時とかいう厳しい表現で訴えつづけておられるのかと思いますが、 このへんは、《念仏》という 念じて唱えれば救われるというまさに《親》に頼り切るという宗教そのものですので、 この形で《絶対》か否かを問うのは、 数少ないであろうその頼り切ることを通じてすでに自律までたどりついたような仏教徒とかでないと、 この場合難しいのでなないかと思います。 だからと言って、 》 次の《信心》は、哲学的に厳密な意味での《信仰》というふうにほんとうに言えるのでしょうか? 《  というふうに まともに質問しても これもまた答えは得がたいということになりかねない、微妙な質問となってしまうのでしょう。 存在の哲学の伝播というものは、時として難しいものですね。 * (A)「請願不思議」というふうに「弥陀の不思議」という文でもないわけですので、これは「存在の不思議」という概念を持ったものでは、もともと無いと思います。 (B)「絶対的度量を持った《親》」というのと、そちらの言う存在の《絶対性》とは まったく別のものと考えます。  この場合前者でしかないと思います。 (C)「不思議」も「請願」も 《非思考、思考》の次元で捕らえられた文章ではないと思います。 (D)《念仏》は、単に《親》を呼ぶ 自らの心の中だけでの作業でしかないと思います。 * ほんとうは、このような信仰の仕方は、早く卒業できればそれにこしたことはない世界だとは思います。(こんな意見、“単なる偏見であって欲しい意見”ですが…。)

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  すぐ次のご回答をご覧ください。みごとに わたしは やられました。負けました。(もちろん 勝負をしようとしていたわけではありません)。そのご指摘を受けるまでは この今回のご投稿内容と同じく 《信仰》があいまいであると思っておりました。どうも そうではないようです。一本も二本もまいりました。  ★ ほんとうは、このような信仰の仕方は、早く卒業できればそれにこしたことはない世界だとは思います。(こんな意見、“単なる偏見であって欲しい意見”ですが…。)  ☆ その願いが 叶えられました。わたしも 一緒に。  《第十一条》を見過ごしていたのです。  そこでは まだ あいまいさが ないわけではありません。  ▲ (第十一条)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・弥陀の大悲大願の不思議にたすけまいらせて 生死(=迷い)を出づべしと信じて 念仏のまうさるるも 如来の御はからひなりとおもへば すこしも みづからのはからひ まじはらざるがゆへに・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と言っています。  ▲ 生死(=迷い)を出づべしと信じて  ☆ というところに たしかに そのように《〈輪廻〉を繰り返す世界を出る》という思考が はっきり 現われてもいますが その思考をも超えて 非思考=信仰が与えられたときには   ▲ 念仏のまうさるるも 如来の御はからひなり  ☆ だと言います。そして しかも さらにそのあとに  ▲ 〔如来の御はからひなり〕とおもへば すこしも みづからのはからひ まじはらざる  ☆ と言っています。  ▲ ・・・信じて / ・・・おもへば  ☆ という二段構えなのですが   ▲ みづからのはからひ まじはらざる  ☆ を 基本として 言っているとみました。  課題が残るとすれば 二点 考えます。  ○ わたくしが上で 《非思考=信仰が与えられたとき》という瞬間を 差し挟んだわけですが そのことを さらに きちんと明らかにすべきではないか。  ――つまり (1)無明(煩悩)のわたし→(2)信仰=非思考の与えられ→(3)念仏行為 という過程において (2)を 明確にすべきではないか。  ○ もしそうするなら――もしそう解釈して よいなら―― あとは (B) 阿弥陀仏は 《絶対》か? については 然(しか)り という答えが用意される。(B1・2) 《仏性》は その《絶対》と同じ一つの《霊》のことだとなる。そのように 説明すべきではないか。  ☆ このようです。  * なお 日蓮が 念仏や他の宗派を批難したのは おそらく おのれの宗派のアピールのために過ぎないように 思えますが いかがでしょう。  * 《存在》論の系譜が 色あせたなどということは まったく 言っていませんし そう見られるべくもありません。  * こう見てくると   ★ 念じて唱えれば救われるというまさに《親》に頼り切るという宗教そのもの  ☆ が――それも 人間の弱さなのであって―― 基本は 《絶対他力》なる非思考にあると思えるようになってきましたが いかがでしょうか。

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