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親鸞再考

莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)の回答

回答No.4

 そういうはからいに働く機能を私たちはpure discriminative intelligenceという表現で、感覚性にたいりつするものとして教えられております。  これをしも、親鸞がはからいとしてさけるべきものとしておっしゃってはいないのではないかと存じます。  ○ はからい無きを 旨とする。(正確な原文および出典をおしえられたし)。  と仰せられておりますが、信仰関係に入らないということで、私たちでは、理屈でどうかいっているなら、出て行き、もっと遍歴すればいい。ということなのでしてね。出典といっても、そういうことなのです。全部がそれで貫かれています。

noname#80116
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  ★ pure discriminative intelligence  ☆ 簡単には 《純粋》も《識別》も あくまで 経験思考であるというふうに応じると思いますが たしかに この《非思考=信仰》については 一筋縄で解けるものではないようです。  つまり どこからか その一瞬に 心の奥のまたその基底の いえ どこのものとも分からないような 得も言われぬ力が はたらいたというとき――それは たしかに 向こうからやって来ると言って 間違いないと思っているのですが―― そのとき このはたらきを受け取るのは わたしたち人間の側であり その思考および振る舞いであるにほかなりません。 向こうから来た《不思議》を こちらでの《思議 intelligence 》をとおして 受けとめ 受け容れるという行為に及ぶわけですから。  さらに ただし このとき 《受けとめ 受け容れる》のは もはや 精神であろうが 純粋精神であろうが あるいは 感性であろうが 全身であろうが よいわけです。たぶん そういうことになると考えます。  さらにさらに しかも 問題は   ○ 信仰の成立という事件であり その時点における精神および身体の つまりは 存在ないし人格全体のあり方は 如何?  ☆ ということになると考えます。  これに対しては  ○ はからい無きを 旨とする。(正確な原文および出典をおしえられたし)。  ☆ が ひとつの親鸞の与えた答えだと思いますが――ちなみに 出典は 親鸞のそれを どなたか ご存じであれば おしえられたし という意味でした―― へそ曲がりは 《はからいを失くする》という《はからい》があるではないかと しつこく 食いさがるものと思います。そのような親鸞再考です。  研究というより 実践の問題だと思いますが そのような問い求めは 親鸞から逸れていくのでしょうか。  そのあと ご自身の世界観のあり方をも 照らし合わせるべき内容として おしえてください。  ★ 理屈を超える  ☆ ということでしたら 直前の応答で  ☆☆ (No.3補足欄) 永遠に 真髄は 言葉の表現としては 得られないとこそ言うべきでしょうか。  ☆ と述べましたとおりの問いが出てまいります。入門としての質問ではないですから しっかりと問い求めてまいりたいと思います。    * しかも 信仰問題は 入門であると同時に卒業 としての原点にかかわると言うべきかと思います。

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