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親鸞再考
kadowakiの回答
- kadowaki
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一介の真宗門徒です。 どんなに饒舌な言葉やどんなに緻密な論理をもってしても、われわれにできるのは、せいぜい「信仰」の一歩手前まで、すなわち「信心」の必然性を解明するところまでですよね。 >(A) 《弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて》というとき そこには 《人間の経験的な思考(はからい)》が伴なわれているのではないか。 う~ん、ここで親鸞は「念仏まうさんとおもいたつ」に至った内的必然性、つまり「信心」の経緯を説こうとしていますよね。 とすれば、親鸞ならずとも、《人間の経験的な思考(はからい)》を駆使するのが当然ではないでしょうか。 もちろん、その経緯と言ったところで、親鸞の内部には、弥陀の本願が無限(無量)の救済力を有することが確信されるにつけ、さらに弥陀への信仰・帰依・賛美の思いが嵩まっていったはずと推察するしかない、つまりなにがしかの人間固有の論理的飛躍(超越)も免れなかったでしょうね。 >言いかえれば >(B) 阿弥陀仏は 《絶対》か。 >です。《絶対》であるなら 《はからい》はありえない。あっては おかしいと考えます。 う~ん、こういう問を発したのも、質問者さん固有の内的必然性があってのこととはお察ししますが、この発問そのものがすでに親鸞の文脈から大きく逸れてしまっており、あまりにもご自分の問題意識の側に牽強付会なさろうとしているように見えるのですが。 と言うか、そもそも「阿弥陀仏は 《絶対》か。」という問が問として成立するのでしょうか? と言うのも、一度大経(無量寿経)をお読みになり、阿弥陀仏誕生の経緯、その《誓願》の中身についてきちんと吟味なされば、こういう疑問など生まれようはずがないと思いますから。 その点では、(C)の疑問についても同様でして、質問者さんが「《誓願》は 概念を含んでおり」と受け止めたがるお気持ちは分からなくはないですが、ここはそういうご自分の気持ちの根源に居座っているモノの正体を徹底的に凝視なさってみませんか。 >(D) 《念仏》は 《信仰》の現われた一つのかたち。 >と単純に受け取ります。 う~ん、そうなると、質問者さんには、己れの全存在を掛けて《念仏》することを「おもひたつた」親鸞の「こころ」も、己れの悪人たることを弁え、弥陀の本願(他力)にすがろうとする衆生の「こころ」も理解するのが難しいような気がしますが。
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一般および個別絶対性なる理論に立つなら どういう実践ないし現実の生活となるのか? これにこたえる必要があります。 普遍神〔とわれとの関係〕は 言葉や概念・理念の問題ではなく ちからの問題である。 これを明らかにするのが 特殊絶対性仮説です。 要するに: ・名前の異なる神もみな 普遍神のシルシの違いに過ぎない ・有る神のほかに無い神を 普遍神のシルシとする場合もある。互いに同等である。 ・普遍神とわれとの関係なるわが非思考の庭――つまり信仰――は そこから得ら れる観想をオシヘとして・しかも――あろうことか――そのオシヘを信じなさいと他 人に説く宗教 この宗教とは〔信仰は〕 何の関係もない。 さしづめこれらの一般および個別絶対性についての説明内容に立つ信仰は その実践において 元気が出るということ。無根拠にあって元気が出るということ。 ――これが 特殊絶対性仮説です。実践ないし現実の生活の問題として 元気が出る これが その根幹としての内容です。 非思考ゆえ 無根拠においてです。 これが 基本として説明のすべてです。 ご批判を自由にどうぞ。
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お礼
訂正があります。 誤: アポケー 正: エポケー ▲ エポケー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC
補足
kadowakiさん ご回答をありがとうございます。 全体として――と初めに述べることによって 印象批評のたぐいになってはいけませんが―― こう思いました。つまり じつは かつて大昔に そういうおっしゃるような過程を 自分の考え方での勉強として たどった者です。そのことを思い浮かべました。つまりは 《絶対他力》なる命題として そしてこの命題は いまも それとして 持ち続けていますが そのもとに ★ つまりなにがしかの人間固有の論理的飛躍(超越) ☆ を伴なって 理解した(そして実践しようとした)ときのことです。 もしそのことを少しでも 前提として見てくださるなら たとえば No.1のお礼欄に述べたことも 分かっていただけるのではないかと忖度するのですが。すなわち 率直に申して 次のような事柄が まだ 不足しているのではないでしょうか。 ○ けっきょく 世界との交流において 信仰の類型的なあり方は 明らかにしておくべきだ。 ○ 〔世界と日本と〕両方が 歩み寄る必要があるでしょうね。 ○ おそらく 一般的には 信仰は 非思考と言うがごとく 或る日どこからともなくやって来るのだと思う。 ○ 《はからい》は 向こうから来るのであって こちらから努めることではない。 ○ 《これを信じるなら 救われる》というような思考と意識とがあるとき――はからいがあるとき―― それは 信仰だとは言い難いのではないか。 ☆ さらに細かいことを言いますと ○ 念仏は 《向こうからやって来た信仰を受け容れた》ときから 自然にまた必然的に 芽生え生じるものだ。 ☆ したがって ▲ 念仏にまさるべき善なき ☆ であると同時に ○ その念仏行為にさえ 行為や思考の無い世界(瞬間)における信仰(非思考)が 先行する。 ☆ と受け留めるところなのです。誰だったかは この非思考を しかも 経験行為としてのごとく 《アポケー》とも言いましたが。 さらにきわめて細かいことを申します。 ★ 己れの悪人たることを弁え、弥陀の本願(他力)にすがろうとする衆生の「こころ」〔を〕理解する ☆ ことと 信仰を与えられることとは 別だと思うのです。《悪人であることを自己認識し 本願にすがる》こと――つまり 《二種の深心》ですよね――と 信仰が成ったこととは 同一のことでしょうか。そういう《衆生の〈こころ〉を理解する》ことと 信仰とは 同一のことでしょうか。 後者の信仰は 非思考であるのに対して 前者の《自己認識・本願にすがる・衆生の心を心とする》ことは 大きくは おのれの はからいによっています。 もし 弥陀の本願を言うのであれば いま上の《はからい》を成さしめる何かなぞのはたらきであると存じるのですが いかがでしょう。だとすれば そこに――つまり どこか分からないところに―― 信仰は あると言うべきだと考えるのです。 ★ この発問そのものがすでに親鸞の文脈から大きく逸れてしまっており あまりにもご自分の問題意識の側に牽強付会なさろうとしているように見えるのですが。 ☆ おっしゃるとおりでして 問題は 哲学としては わたしの理解のほうが 妥当であるように思われるという点にあります。その牽強付会をただすのは では 哲学でしょうか。それとも 言葉に表わし得ぬ《信心》なら信心なのでしょうか。もし後者であるなら 永遠に 真髄は 言葉の表現としては 得られないとこそ言うべきでしょうか。そのあたりが いまの問いの行きつくところであるようなのです。いかがでしょうか。