• ベストアンサー

現在時における《復活》について

arayata333の回答

回答No.6

わたしも、 前回の続編として回答します。 今、風邪で熱にうだされてる感じなので、知性は働いてないかもしれないですが、前回の記憶はあります。 (いろいろあって、このワーキングプアーの筆のペース遅くなってます。) 人間は人間となった時点でその存在は善と認めうるものか? といった質問が最後にされていたかと思います。  間違いでしたらすみません。 まず、善と言える意味が生じたのは人間以前には無いというのはそのまま事実だったと思います。 動物の行動や心理、感情は、すべて本能であり、「善」と呼べる意味は、そこに助け合いがあっても無かったはずです。    やがて、悪が出てきて余計な「善」の強調(ともかく複雑な「善」の概念)の世界とかも出てきましたが、それは無しにしても、もともと人間は「善」なる存在だったということは言えます。(詳しい理屈は略します。) というのは「自他を見つめる」脳となった時点で その意味と呼べる「善」の世界が宇宙に生じたのですから、 それは単に反省し、進歩できる能力を得たというだけではなくて、すでに人間を仲間という概念を越えて理解した状態を得たということになるんです。 脳がです。      私たちの脳と言える その私たちの脳がです。(うまく言えてないでしょうか?) 私たちという 存在してるだけで仲間である存在同志として、言葉以前に私たちのその脳は認識し始め、 その時点で私たちは人間と呼べる存在として宇宙に誕生したということです。 でも、其の言葉が やがて文明を作ると同時に、心の乱れをも生み出してしまいます。(詳しく書こうとすると、右脳とか左脳とかの話ともなるところでしょうが) また、ことへんが旧約のもう古い神話の中では知恵の木の実を食べたとなったりするのでしょうが、 その意味では、もともとは「善」だったわけです。 まさに尊い命と其の「意味」自体が最初から誕生していたのです。  長くなってしまうと思いますので、これを現代のかくされた巨大悪のひとつである「薬漬け」と言えるような医学の世界における善と悪を描写して論じなおすならば、 もともとの生物の設定では、私たちの体は、風邪を引けば治す物質がすぐ今でも出てくるのですから(それが薬を飲めば直ちに其の物質は消滅します。) もともとはかなり人間も頑丈だったし、何よりも痛みにもっと強かったようなのです。   しかも寿命がくれば、苦しくなく衰弱してゆく状態でも今よりはるかに楽に死ねたところ、 今はなんで延命のもと薬の中で苦しむことが倫理の極の正しい行為とかされてるのでしょう、 うううひどいじゃないですか、、l、 でも、これ じゃあ神の責任じゃないというのは もし、神が私たちを創った絶対創造力の主とかいうのであれば、 実は自由意志もなにもすべて神だけの責任です。   自由意志ったって私たち人間は弱い状況に「状況」に置かれてますから。  つまり神こそ悪魔となってしまうのです。  地獄に落ちるのなら落とせです! 私は人間としてそういい続けます。 でも、ほんとうに苦しんでるのは人間ですが、同時に神でもあるじゃないですか?  これわかりますでしょうか?  神もまた絶対じゃないです。   相対そのものの中にいます。 たった今もです。 たった現在時もです。 私たちには、たしかに他人の苦しみは想像からの類推でしか解りません。ならば神こそ 今の苦しみのゼンタイでもあるというか、       人間そのものというか、      すみません、あの神学の人たちって、意味を見つけたから神を見つけたのでしょ?  だったら言いたいこと解ると思うのですが、   神でも言いし存在でもいいですが、   叫びを知り怒りや涙と知るその良心が発見する世界ですよね。          ここでは理論は 私の方から詳しく書きたくないです。 終わりからはじめると言うことはその信仰からはじめるということですよね。 存在してるってなんてすごいんだという存在への畏敬、リスペクトから始めるということですよね。 それはおそらく存在を生きる過程で 其の発見とともに相互的総合的にそれは自覚され さらに其の上ではさらにさらに総合的な思索の中で深めてゆける世界、それが信仰なのだと思うのですが、 終わりからも 「今」からも、初めからも 同じ重みで今思索死闘い行動し思索しなおし、前に進んでいく人間の魂のありかたこそ、 信じることだということになりませんか? それとも信仰とは その知の一地点のとどまることなのですか? せっかく発見したその地点は そこに人を押し込めてしまうためのものですか? キリストという 《神を当時にてすべて理解しきった上でさりげなくも たとえ話で語ったような人》は 知性も感性もたぶん普通の人じゃないです。  ひれ伏さざるえないような気持ちになってしまいます。  そういう人の役割の世界は、これも私の論じることのできるような世界じゃないです。 たしかにすごすぎますが、  結局彼の説いた教えは 愛でしょ。 愛に実際に生きるのが信仰と思います。 そして、それは、たった今この水のある星で息をしてる どう感じどのように考えてるからはわからない 人たちの苦悩や苦痛と、それでも それでもじつは存在の中には消えない「希望」の世界とに対応して、     動くこと、それが信仰からはじめることですよね。 思索し行動し思索し行動し動いてゆこと。   むしろ、表現としては神などいないと言ったほうがいいのかもしれません。 人間的であろうと人間が努力するしかないのですから。 あるいは神はいるけれどもいないに等しいことを理解するべき時でなないのかということです。 あれ、なんかおかしいですね。 これは信じてるから言えるのでしょう。やっぱし、そうだとは思います。 でも 人間が人間的に動かなかったら「希望」も キリストの力強い言葉も消えてしまうじゃないですか?    なんとかしなきゃ、今 今呼吸してる命に対して何かしなきゃ    問題群を解決していかなければ、 すこしでも何も出来なくてもそう行動していかなければ、     復活って 絶対やって来たりしませんから。 だって意味から生まれたのに それって意味ないですから。 はやく一刻もはやく、自分ももっと強くなりたいし、多くの人にも強くなって欲しいと思いますし、  キリストだってその祈りから彼の役割を果たした人ですよね。 愛ということ自体、自分は復活しなくてもいいからみんなが永久の安らかであって欲しいという心だと思います。   二律背反というのはここにも当てはまるのかもしれませんね。 (とある感性からのメッセージです。)

noname#80116
質問者

補足

  arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  前編の前回 たとえば こういうお応えを返していました。  ☆☆ (No.71お礼欄)・・・したがって 自然本性なる《わたし》に自己還帰すれば 浄福であり 復活につながる。という見解です。手放しの楽観論です。至高の能天気です。《ただ 霊の息吹きを受け取りなさい》というのみだというわけです。  ☆ 《したがって》の前文 つまりこの文章の理由づけが 分からないかたちの引用ですが 最初のところでその点について 触れていただきました。つまり 《自然本性》なる存在は そのまま 《善》だと想定するといった内容のことです。  そう考えるなら このわたしのコメントは そのまま 《現在時における復活》のことを 言おうとしていましたね。《手放しの楽観論》として。《至高の能天気》として。  自分の田に水を引き過ぎてはいけませんが そのあたりの議論を その内奥から 基礎から 敷衍し 展開するかたちで 今回 ご回答をいただいたのではないかと思います。特に気持ちとして伝わって来ます。  自由意志を与えたなら その自由意志によって 存在のしかるべきあり方から逸れてしまうという自由をも許容したのだから その神は 悪の元締めになるではないかとか。――あるいは そうは言っても そのような人間の・自己を頼み自己を誇示し自己の能力に溺れてゆく姿に ともに苦悩するのも 神であるとか。――あるいは その試練のような人生と社会的な共同生活の中で 思索を絶やさず思索し尽くし死闘を繰り広げる道に ほのかな希望をも見出しているはづだとか。・・・  その基軸その起動力は 愛であるのではないか。  愛をとおしてはたらく信仰という動態もあるはづだ。  そこに 祈りも あるはづだ。  かくして  ★ 愛ということ自体、自分は復活しなくてもいいからみんなが永久の安らかであって欲しいという心だと思います。  ☆ という結語に到る。・・・  たぶん 表現の仕方としては わたしの場合 反対になってしまうと思います。わたしは自分が復活するかたちを生活において現わす。その道の原動力なる愛を愛してゆく。人については そのかれを かのじょを わたしは その自己の愛の 試練の道の上に・中に 見出している。・・・  井戸端会議として このように応じさせていただきました。さらに展開を期します。

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