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復活とは? 不死の境地とは?

bananasandの回答

回答No.24

>《存在 / 非存在》の両側面を ひとりの人が 合わせて 同時に 捉えると どうなるでしょう?  >じつは この《ある / ない》というのは あくまで 経験的な存在にかかわる概念です。 >逆に言えば 霊は この・ものごとを有るか無いかで判断するところの経験世界を超えています。 そうでしょうか。 連続した時空間内でAさんの周辺は動いているのに、Bさんの周辺は停止している。 1つのものがA地点とB地点に同時に存在する。 そこを見たときはあるのに、見ていないときはない。 一の移動体がA地点からB地点に到達するにAさんから見て10年必要なのにBさんから見ると瞬時に移動している。 どちらも、互いに否定し合う必要などなくて、両方とも正しいことはいくらでもあります。 これらに神の視点とか裁きとかはありません。 確かに、日常ではありません。 しかし、時空間宇宙の実相を見れば、これが本来の姿であることに驚愕します。 >同時に 認めるということは この超経験を 経験理性が その頭脳の中に 取り込むことになるではないのでしょうか。 上述までは、超経験の手前だと思います。特異点が日常ではないにしても当選確実だからですね。是非ここまでは経験の範疇に入れてください。 両者肯定は、一方を肯定したとき、必然的に他方が否定されることが起こらないのです。そもそもは、一方だけを肯定する態度が ないのです。原則的には、一方だけに視点を移した瞬間に両者肯定が崩壊します。 で、この先が超経験だと思うんですね。 >3. ゆえに 精神の中に入り込んだ霊は 《精神的なもの》として 現われている。 まさしく、そうなんです。そしてまた、これが人間知性の驚異的能力でもあるのですが、 それこそが霊への直接対面を絶望的にしている所以ですね。 >霊が このように 精神という経験世界に入り込んで来ているとすれば 無神論は もはや 成り立ち得ないと言っているに >等しいと思われるのですが どうでしょう? これはそう単純ではありません。 我々にとって、今が常に今であり続ける事実は、2元対立の狭間で一方へと安定化してはいないことが実相だといういことを表しているのではないでしょうか。。 そうでなければ、まだ始まっていないか、既に終わっているはずで、奇跡だとして追いやることの方が違和感があるんですね。 2元対立の両者肯定は、4つのパターンへ分化し複雑化しますが、時空間宇宙が安定化していないことからの 単純な帰結をそのまま受け入れてゆく以外ありません。 神はあるのか、ないのか。 正確には、あるとも言えるしないとも言えるではなくて・・・あるとする肯定とないとする肯定を同時に把握します。 その状態が立場、視点、都合によって変わることを許さない(変わることを包含した)唯一の答えなのです。 なぜならば、それが時空間宇宙の実相だからです。

noname#80116
質問者

お礼

 したがって 《霊が精神の中に入り込む》というのは 《身体(感性)》とも《接点》を持つのだから 《霊は 肉(つまり身体および精神)に宿る》という想定事態だ。  ☆(3-4):おそらく《これゆえ 人間知性は 驚異的能力を持つ》。ただし 《霊との直接対面が 人間にとって 絶望的である》のは 初めからの想定事項だ。  ☆(3-5):このような《霊と人間》との関係は しかしながら 《二元の対立》ではあり得ない。どちらかと言えば 《越えたほう・包むほう》が 根元だ。その霊を分有するかのように《宿す》ほうは その霊に 基本的に 従属している。要するに 人間に勝ち目はない。  ☆(3-6):ゆえに これまでは 有神論の場合の分析であったが これを 無神論者は ひとつのことを除いて 認めない。《霊が人間に宿る / 〔ちなみに〕人間には 仏性がある》を ちゃんちゃら おかしいと見る。ただし認めざるを得ない一つのこととはこうである。 《霊》とも呼ぶ《超経験のなぞ》については 一度は それと対面した体験を持つということだ。Uターンして来ただけだ。(未体験であっても いま このことを聞いた瞬間 あたかも 体験した恰好となろう。もしそうでなければ その人にとって 人間は あたかも全知全能だとなる。つまり 《なぞ》は一切ないという立ち場に立つ。ただし これは 非現実だ)。  この人間にとっては 有神論と無神論とのあいだで 揺れることもあろうし 一たん決めた良心の選びも 変えることは 自由だ。  おそらく 《存在かつ非存在》の包摂論は この《信教の自由》というその《自由》を 最大限に尊重しようとして 出来た理論なのではあるまいか。  以上は 《包摂》観を実相とする思想に立つと 日常生活でわれわれは(わたしは) 身動きがとれないようになるのではないかと恐れて 考えたところです。一応 ボールをお返しできたかと思います。

noname#80116
質問者

補足

 おはようございます。  そうですね。一つひとつの事項を きちんと 検証していかねばならないと思います。  まづ 次の考えは 魅力的であると思い 重ねて掲げます。  ★★(No.21)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) 不幸、失敗、悩みの本質であるところの / 「生」を焼き尽くすということを基盤としての社会性が成り立つと思うんですね。それが現実としての、 生 の復活となるのではないでしょうか。    (β) 《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える  立場が共通意識として満たされたとき、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そして(α)は 表現を わたし風に編成して そのまま 結論としてのように持ちたいと思います。そのわたしにとっての骨子は  ○ 旧き人を脱ぎ 新らしき人を着よ。  ☆ になります。  ですが (β)は 魅力的であるにもかかわらず 実際の生活態度――それが 思想だと思うのですが――にとっては なんとも 受け容れがたいですね。受け容れても 使い勝手が 定まらないのではないでしょうか?  さて その(β)の《霊にかんして 存在 / 非存在なる両側面を同時に肯定する理論》についてです。  (1) 最も単純な反論として:   ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この経験世界を超えた領域を 霊として 想定するのは よい。また それは 《ある/ない》を超えているからには 仮りに規定するとすれば 《ある》か 《ない》か 《ある かつ ない》か 《あるでもなく ないでもない》か それら四通りのどれでも 選んでよい。じつは そうであって そうなのだが 一つを選んだ者は 他の三通りを 同時に 認めていなければならない。それが 《良心・信教の自由》という公理なのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (2) 次に 上の反論事由の中の《四通り》は 実際には 前二つの二通りしかないということを 論証します。まづ 《あるでもなく ないでもない》という仮りの規定をえらんだ場合です。  これは あたかも 時と場合によって 仮りに《ある》であったり《ない》であったりするのだと考えられます。けれども これなら 《ある》の一本として選んだ場合と 同じことになります。《ある》つまり有神論に立つという場合にも 神はあたかも現われたり隠れたりしているのですから。  あるいは もし そういう顕在潜在といった側面とは まったく関係ないとするのならば それは 《ない》という選択つまり無神論を標榜するに等しいわけですから。  (3) さて 《ある かつ ない》の両者の同時肯定論についてです。いくつかの角度から 捉えることになると思います。  (3-1) ★ 時空間宇宙の《日常》と《実相》との違い  (3-2) ★ 《特異点》の問題:  (3-3) ★ 人間精神を超えた霊が 精神の中に入り込む事態  (3-4) ★ これが人間知性の驚異的能力でもある〔と同時に〕     それこそが霊への直接対面を絶望的にしている所以だ  (3-5) ★ 〔しかも その事情ゆえに 知性と霊との――つま     り 人間と神との〕2元対立の狭間で一方へと安定化してはい     ないことが実相だ / そうでなければ、まだ始まっていない      か、既に終わっているはずで、奇跡だとして追いやることの方     が違和感がある  (3-6) ★ 〔以上の繰り返しではあるが〕神はあるのか、ない     のか。/ 正確には、あるとも言えるしないとも言えるではなく     て・・・あるとする肯定とないとする肯定を同時に把握〔す     る〕。/ その状態が立場、視点、都合によって変わることを許     さない(変わることを包含した)唯一の答えなのです。 / な     ぜならば、それが時空間宇宙の実相だから。  ☆(3-1)について:同一の現象を二人の人が 違って観測した場合。観測の地点や情況やあるいは主観の違いによって 異なりうる。――このこと自体は 超経験と かかわらない。  ☆(3-2):★ 《特異点が日常ではないにしても当選確実だからですね。是非ここまでは経験の範疇に入れてください》という表明のとおり なおまだ《経験世界》のことなり。  ☆(3-3):これは 《接点》の問題として捉える。じつは (3-1&2)の場合にも 超経験は 経験現実とかかわらないけれども すでに 接点を持っているかも知れない。《超えている》ということは 《包んでいる》そして ゆえに《接している》と想定しうる。

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