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復活とは? 不死の境地とは?

bananasandの回答

回答No.21

まず、霊の存在/非存在と我々の接点は、直接的にありません。 時空間宇宙を薄いカーテンとしてその向こう側に存在/非存在しています。 霊は、時空間宇宙の実相を通して二次的に直感する(この言い方も正確とは言えませんが)以外ありません。 霊は、物質的要素、エネルギー的要素、そして時間的要素のうち我々が時間として捉えている概念を一切含みません。 霊は精神的なものであってもいわゆる精神とは完全に異質です。 では、>非存在と見なすことまでは 同じでも その非存在は 文字どおり ゼロ(無)ですから おそらくここが微妙にずれているから、有神論と無神論へと地滑りが起こるんですね。 我々から見て、確かに非存在は「無」です。しかし、あくまでも存在/非存在なのです。 この時空間宇宙の中でさえ、brageloneさんの時計は永遠に時を刻んでいるのに、私の時計は停止している という空間が同時に(変な言い方ですが・・連続した空間の中に)存在しますね。 絵空事とは言えない現実です。果たして、どちらが真の永遠なのか・・・・ 両者の違いは歴然としてますが、両者肯定は決してあやふやとは違います。 納得とは違うかもしれませんが、エネルギーを内在したまま、答えを獲得するのです。 >《虚構》と言うのは 無神論との橋渡しのためです。 承知しています。それは、片側の話で、未だ時空間宇宙内に留まるに必要なものですね。 でも突き詰めればここにも存在と非存在の狭間に炎が顔を出しますね。 >★☆ この今現在の世界が 復活であり 不死の境地であり 地獄・楽園をひっくるめて社会そのものだ。 後段の地獄・楽園をひっくるめて社会そのものではありますが、それ自体は復活であり 不死の境地であろうはずは ありません。 《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える  立場が共通意識として 満たされ、かつ、それがシステムとても機能したときに 復活 が成立します。 また、出演者が主役であって舞台は舞台に過ぎません。 霊との間で、>接点を見ないということは 互いに 火花を飛ばすような展開もないということです。 いえいえ、霊との間に直接接点はありませんが、時空間宇宙の不完全性の原因としての位置づけがありますから、 言い換えると、霊との直接の接点がないからこそ、時空間宇宙の存在と いわば不完全性としての 非存在の 間で我々が炎の中に置かれることになるわけです。 幸不幸や成功と失敗、マイナス側の悩み、プラスの悩み・・いずれも個人それぞれの中に存在して当然です。 《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える  立場が共通意識として満たされたとき、 各個人の不幸、失敗、マイナスな悩みが炎に焼かれそれが消え去るのでなくて、その不幸、失敗、悩みの本質であるところの 「生」を焼き尽くすということを基盤としての社会性が成り立つと思うんですね。それが現実としての、 生 の復活となるのではないでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  行き違いがありました。前回 大股で歩いて はや 結論に達したかと思ったのですが 概念の用い方に 食い違いがありました。  確認しつつ つまりむしろ初めに戻って確認しつつ まいりたいと思います。そして 最終的に 補足要求となりました。  ★ 霊が 存在 / 非存在 である。  ☆ そうではなくて わたしの場合は 人間という経験存在から見れば その存在世界を超えていると想定するのですから 《不在》として 霊を 捉えていたのでした。  したがって 有神論――つまり 霊を神として抱く信仰――においては この不在のものが あたかも この経験世界に 現在するというのですから そこでは 人間という存在と 接点を持ち 信仰動態において 火花を散らすであろうと見たのでした。  たしかに   ★ 霊は 同時に 存在でもあれば 非存在でもある。  ☆ と規定できると思います。《存在》という一面に特化すれば 有神論ですし 《非存在》を全面的に採用すれば 無神論になるからです。というように 言ってみれば 便利な用法をもたらすひとつの定義だとも思います。思いますが どうでしょう。  この規定にもとづいて 《存在 / 非存在》の両側面を ひとりの人が 合わせて 同時に 捉えると どうなるでしょう? じつは この《ある / ない》というのは あくまで 経験的な存在にかかわる概念です。逆に言えば 霊は この・ものごとを有るか無いかで判断するところの経験世界を超えています。  超経験の領域に 経験的な概念である《ある / ない》という規定を 同時に 認めるということは この超経験を 経験理性が その頭脳の中に 取り込むことになるではないのでしょうか。  そして そう言えば たしかに すでに  ★★(ANo.19)~~~~~~~~~~~~~~~~~  前回表現した、”時空間宇宙の向こう側の精神的なもののみ”とか「霊」を解く鍵は、 / それが思考の範疇にはあるということですね。   *  いわば、永遠も、無限空間も、霊さえも思考の中にあるというわけです。  しかし、我々自身が我々自身から見て時空間宇宙から遊離して成り立っている不可思議 / はあるにせよそれも脳細胞無くして成せる技ではありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうにも 述べておられました。まさに  ★ 霊さえも思考の中にあるというわけです。  ☆ これですね。すなわち  ★ ”時空間宇宙の向こう側の精神的なもののみ”  ☆ という表現は 複雑であって   1. 霊は 超経験であり 人間の精神を超えている。  2. その霊を 人間の精神は みづからの思考過程に取り込む。  3. ゆえに 精神の中に入り込んだ霊は 《精神的なもの》として 現われている。  ☆ というかたちで いくつかの局面から成り立っているのですね。  ここで 一点 短所のように思われることは こうです。無神論との理論的な通底性を捉える上で 霊が このように 精神という経験世界に入り込んで来ているとすれば 無神論は もはや 成り立ち得ないと言っているに等しいと思われるのですが どうでしょう?   言いかえると 無神論は 霊が この世界にやって来るという考え方は いっさい しないのであり 受けつけないと思われるからです。  不倶戴天の敵どうしだとなります。どちらか一方しか 真実ではないと言っていることにならないでしょうか?  そして それは 霊に相い対して 人が それを《有り》として仮りに捉えるか それとも《無し》として もう放っておくか 二つに一つの信仰選択であるにもかかわらず 《有 / 無》の統合論を立てたところに帰因するのではないでしょうか? 包括的に 無神論を 取り込んだのが かえって 無神論との矛盾を露呈する結果になったのではないでしょうか?  分かりませんが とりあえず このように 今回 捉えたかたちで 考えました。いかがでしょうか?  * その他 すでに進展していたところは 一たん 保留になります。今回の結語としての  ★ 不幸、失敗、悩みの本質であるところの / 「生」を焼き尽くすということを基盤としての社会性が成り立つと思うんですね。それが現実としての、 生 の復活となるのではないでしょうか。  ☆ この鋭く追究した箇所も 一たん 保留とさせていただきます。  ★ 《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える  立場が共通意識として満たされたとき、  ☆ という条件に立つものですから。

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