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noname#80116の回答

noname#80116
noname#80116
回答No.6

 No.1&3&4&5です。  ボエティウスの《三位一体論》を読みました。(短い論文です)。  特に修正を加える必要はないと確認できましたので お伝えします。  エピソードとしては まづ  ▲ アウグスティヌスの書物(* そのかれのほうの《三位一体論》)から出た議論の種子が私(* =ボエティウス)の内に播かれて なんらかの実りをもたらしたかどうか〔を吟味して欲しい〕・・・。  ☆ と言っていますので アウグスティヌスを理解した線上で捉えて間違いなかったのだと考えます。  《理性的・理知的》な性格を持つという側面について たとえば  ▲ 自然学に対しては理性によって 数学の対象に対しては学習によって 神学の対象に対しては知性によって研究すべきであり 感覚表象へとは引きずられてはならないと思います。  ☆ と述べるところに いくらか うかがえます。もっとも だからと言って 《感性》をないがしろにせよと言っているのでもないわけですが。  一つの本質が 三つの位格に分かれることについて そのたとえを自ら挙げて  ▲ 《一振りの剣( gladius ) 一振りのつるぎ( mucro ) 一振りの刀( ensis )》と言ってみても・・・それは《一性》の反復であって・・・。  ☆ と表現していますが そのあとでは なお その喩えでも 不適切であると論じていきます。神は モノではないからだと。  トマスについては わたしは 《スンマ》を途中で 読むのを諦めた経緯があります。横着な者です。つまり 喫緊に必要だと思ったところしか勉強しません。逆に言ってよければ アウグスティヌスで だいたいは 間に合います。でも その態度は 褒めたものでないことは言うまでもありません。  ともに 勉強を進めるという恰好になると思いますが 課題がありましたら 質問に応じてまいりたいと存じます。 

noname#68627
質問者

お礼

どうもご回答ありがとうございます。 私もトマスは一次文献を読んだわけではなくて、中世哲学における本質とか現実態、可能態を調べているうちに突き当たったと言うわけです。私の持っている哲学概論にトマスの存在論という個所があってそこからから引用したものです。 ボエティウスの《三位一体論》、たいへん参考になりました。 やはりネットでは得られないような情報を紹介していただくと非常に参考になります。 また質問いしましたときは宜しくお願いいたします。

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