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noname#96295の回答

noname#96295
noname#96295
回答No.2

補足も拝見しましたがすごい文章ですねえ。 理性的単一実体とは、hypostasisの語源、rational single substanceそのものです。 ほかに解釈の思いつきようがありません。 しかしながらhypostasisは判断のないpersonといえると思います。 神によらぬ人間の自然な存在のしかたが、想定として、神学上必要な起点ですから、 しかしそうでありながら、そのように自ずから存在し完結している存在のしかたとは、神のうちなる性質を示すにほかならないのですから、 hypostasisとは、判断がないながらも究極の判断様態であるといえるのではないでしょうか。 そこで判断がなくていったいどうrationalでありうるのかについて、 「理性的に自己を意識し、自己を他から区別する」というのでしたら、さしずめ、赤ちゃんの鏡像段階ではありませんが、わたくしを峻別するわたくし、という理性の土台なのでしょうか。 現実態という語は、エンテレケイア、アリストテレスの可能態と現実態の区分です。 「質料」とは可能態であり、可能性より先立ち可能性もたない最終の「形相」である神を、運動や変化のない完成たる、現実態とするのです。 それは質料がない、動かない、可能性をもたない、ただ自己であるありようです。 これは運動と存在の追いかけっこの最終の存在となります。 一見すると泉氏は神が現実態ばかりではないような書き方をしているように見えますが、 あるいは、現実態としてあるのでなければ、自己意識に終始してしまい、自ら三位格を生むことにならないのだ、という気持ちかもしれません。 現実態であるような自己の存在のしかたが、personを生むということは、 そこには生みの材料があってはならない状態で生むということですから、謎めいた行為、謎めいた存在様態です。矛盾をはらんでいます。 自己であるという判断を棄却したhypostasisは、rationalであるその本質によって、判断された内実をともなうpersonを生みだすことになるのでしょうか。 私にできる解釈はここまでですね。

noname#68627
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >一見すると泉氏は神が現実態ばかりではないような書き方をしているように見えますが、 そうなんですよね。神は純粋現実であると思っていたのですが。 >そこには生みの材料があってはならない状態で生むということですから、謎めいた行為、謎めいた存在様態です。矛盾をはらんでいます。 神の本質は質料を含まないですよね。 自らそれを生む、それを存在の仕方と言っているのか。

noname#68627
質問者

補足

実はこれ初心者向けの用語集だと思ったんですけど泉さんもこんなの初心者に理解できると思っているんですかね(笑い)。 たいへん参考になりました。

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