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ペルソナについて

noname#80116の回答

noname#80116
noname#80116
回答No.4

 No.1&3です。  ★ 1番分からないのは「生むからである」の生むなんですが、この生むとは一体どういう意味を持っているのかサッパリで。  ☆ 修正・加筆して 説明します。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり 《いわば〈可能態〉において 神そのものとしては ひとり満ち足りていて あたかも〈自己意識〉だけの存在のようであるが   〈現実態〉においては=という意味は 世界ないし人間に向かい相い対するかたちにおいては――満ち足りている〈自己意識〉のまま現われるのではなく―― 〈自ら それを=つまり 子や聖霊としての位格となってあたかもそのような顔かたちを 生む〉恰好である》と。  神は 光にたとえられます。あたかも 光として 満ち足りている存在です。それが 可能態です。現実態としては 三つの位格(ペルソナ)にあたかも分かれて現われるという見方です。これが 三位一体として捉えられる神のことです。  光源が 父なるペルソナ(そういう顔かたち と思ってください)であり その発耀が 子なるペルソナであり それら両者の明るさ・暖かさが 聖霊なるペルソナです。   光は 経験世界におけるモノですから 光源とそこから発する耀(かがや)きには 時間的な経過があります。しかし 神じたいは 時空間を超えています。したがって これは あくまで たとえです。  光の源が あたかも 耀きを《生む》かのようであるということです。明るさや暖かさに喩えられる聖霊は 基本的には 《光源と発耀とから つまりは 父と子とから 発出する》と表現されます。これも おおまかには 《生む つまり 聖霊が生まれる》かのようだということです。  神の子であるイエス・キリストは そのナザレ村のイエスという名の人間としても存在した。かれは 十字架上に去っていったあと 父なる神とともに 世界に聖霊を送った。これが いわゆる愛として われわれの心に宿るというわけで そのように 《現実態》においては神は あたかも顔かたちを変えて 現われるかのようである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#68627
質問者

補足

わざわざご回答いただき誠にありがとうございます。 すいません最後の補足になりますが、 神は可能態から現実態へ推移するのでしょうか?

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