• 締切済み

人は何のために生きているのか?

noname#155689の回答

noname#155689
noname#155689
回答No.79

こんにちは。 ANo.78さんが別にたてた質問への回答を通じて (ANo.78さんとの対話を通じて) 自分の考えをまとめたのでこちらにも書かせて頂きます。 ●存在は「現象」か「目的」か? 存在そのものは単なる現象であり 存在それ自体には「存在すべき根拠がない」と思います。 ご質問者さまが > 生きたいとは別に思っていません。 > だからといって死にたいわけでもないです。 と仰っているのも存在それ自体は無根拠であるからでしょう。 それに対して神や宇宙意思など外部から根拠づけようとする人が少なくありませんが 少なくとも現段階では神や宇宙意思はフィクションの域を超えないと見ます。 ただし存在は、存在を維持しないと、存在でなくなってしまいます。 存在を問う以上、存在が前提です。 存在が前提となれば、存在は目的化します。 私がANo.27で > 死にたくないから生きている と回答したのはそのようなニュアンスを込めています。 生きる意味を問うとき、生きることは目的化しています。 ここに寄せられた多くの回答はこれを言っていると思います。 さて、もう少し思考を続けてみましょう。 存在が無根拠であったとして(それが正しかったとして)も 存在はそれ単独で存在することは出来ません。 つまり、存在があれば、必ず関係があります。 関係は意味を生みます。 例えば、子を産めば親になる、ということです。 無根拠であった筈の存在も、子と関係すれば親になるということです。 もちろん、親を拒否することも可能でしょう。 つまり、意味を拒否することは出来ます。 意味の拒否は関係の拒否です。 関係を数多く持つモノは、多少の関係を失ったり拒否したりしても まだ関係が残ります。 しかし、全ての関係を失えば、存在は不可能になります。 (存在する以上、必ず何かに依存します。) 神や宇宙意思などは存在に対する外部からの根拠づけです。 物理学によって得られるモノが何であるかよく分かりませんが 恐らくこれも外部からの根拠づけです。 関係が生む意味も、これまた外部からの根拠づけです。 この中で私に真に迫ってくる外部は「関係」です。 (「縁」が私に意味を与えているという感じでしょうか。) 残りは(少なくとも今は)フィクションの域を超えません。 それに対して、内部からの根拠づけがあります。 これを私たちは意志(自由意志)と呼ぶのだと思います。 (ご質問者さまにおいては「人が生きる意味を知りたい」という意志が 現在の存在に対する最も強い根拠になっているのかも知れません。) 関係を拒否するのも自由意志です。 しかし全ての関係を拒否すると存在が不可能になります。 生きるとは、関係と意志のバランスづくりなのかも知れません。 生きる意味が見えない、というのは 関係が希薄なのだと思います。 何との関係? 様々な関係です。 例えば恋愛は濃厚な関係です。 子育ては濃厚な関係です。 他にも濃厚な関係は数多くあるでしょう。 関係は育てないと、意味も希薄になります。 関係を閉ざせば閉ざすほど、存在は無根拠に近づき 即ち、生きる意味が見えなくなります。 例えば、この世との関係を絶った人は、この世から消えてしまいます。 意志のみでは存在することは出来ません。 (あの世と関係したい人はご自由にどうぞとしか言えません。) 多分、そういうことだと思うのです。

関連するQ&A

  • ペットの死 人の死 死は終わりですか、他界ですか?

    こんにちは。 死についてです。 最愛のペットを亡くしました。 毎日辛くて悲しくて悲しくてたまりません。 もう会えないのでしょうか? また会いたいのです。 亡くなったペットは元は捨てられた仔犬で育て上げて自分の中では 家族としてずっと一緒に過ごして来ました。 老犬になって弱ってから去年一年間おむつを付けて介助をしました。 そして先日亡くなりました。 激しい後悔もあります。入院させたのですが前日は具合が悪かったけれど様子を見ていたのです。 すぐに連れて行くべきだった。苦しかった事でしょう、本当にごめんなさい… 私が連れて行かなければ自分では行けないのにひどい事をしてしまいました。 この仔と以前、これからも?失った愛する人達とまた再開できると納得して信じられる 宗教か考え方を教えてください。独自の思想でもいいです。 実家は仏教でしたが聖書が好きだったのでキリスト教の考えに近かったですが信仰はしていません。 でも幾度と愛する者の死を経験するにつれてキリスト教の考え方だとあの世、魂は存在しないので再開出来ませんよね? 選ばれし数の中に選ばれれば復活して再開できるのでしょうけど、洗礼を受けていないから 選ばれません。 そうゆう事で今の私に聖書は受け入れられません。 自分の死後に死者と再開出来る宗教はあるけど、私の根本的な考え方が肉体が全てだと考えているので、 意識である脳が無い状態の魂?と再開後どうやって会話できるの? と考えてしまい納得して信じる事ができません。 叩かれるの覚悟だけど論理的思考なので理屈に合わない事は信じられません。 論理的に納得出来る考え方なにかありませんか? そんな事を言ったら未知の世界だからこの世で出せる答えは無いのだけど、 想像の世界でもこうだからこう、と理屈に合っていればいいのです。 今の私が出す答えは何度考えても死んだら終わりになってしまうので 何か別の答えを出して信じたいのです。そうしないと悲しくて苦しくて。 何かいい考え方ないでしょうか。

  • ツインソウル?

    『ガラスの仮面』を読んだときに 世界がまだ混沌としていた頃・・・神は子を産み地上へ降ろされた そのときひとつの魂を陰と陽のふたつに分け別々の肉の身に宿らされた いつかめぐりあい陰陽なくしてひとつとなるとき人は神になる というセリフがありました 同じような話をどこかの神話か漢文の授業中に聞いた記憶があるのですが何の話だったのか思い出せません 軽く調べてみるとツインソウルという言葉が見つかりましたが、これは比較的新しい思想のようで私の聞いた話とは違うようです 似たような神話や古来の伝説のようなものがありましたら教えてください 回答おねがいします

  • 亡くなった橋本治さんが、「悩みを相談する人は、実は

    亡くなった橋本治さんが、「悩みを相談する人は、実は既に自分で答えを分かっている、悩みを書き出せば分かる」と仰っており、確かにそれもそうだなと納得しました。ただここで行き詰まったことは、私がある悩みを持っているときに「何となく自分が思っている答えはあるけど、自信がない」という感じでした。そういう時、人は人に相談し「自分の聞きたい言葉」を聞き出そうとするのだと思います。ただ私はそれでも、その自分自身の答えに自信を持てずにいました。そんな時にある本に出会い、自分と同じ悩みに悩む人に対する回答が載っていました。それを読み心が軽くなったと同時に、その答え自体は私が「何となくこう言って欲しい、多分これが答えだろう」というものではありませんでした。つまり橋本さんの言うように「全ての答えが自分自身の中にあるなら」、その本に載っていた答えは、私自身の悩みに対する回答にはならないのでしょうか?(例え心が軽くなっても) 私は正直、自分では答えが分かっていても自信がないから、人に相談するのだと思うし、本当に悩んでいたところに新鮮な答えが来て解決することもあると思います。 皆さんはどう思いますか?未だに悩んでいる状態です。 長文失礼しました。

  • 亡くなった橋本治さんが、「悩みを相談する人は、実は

    亡くなった橋本治さんが、「悩みを相談する人は、実は既に自分で答えを分かっている、悩みを書き出せば分かる」と仰っており、確かにそれもそうだなと納得しました。ただここで行き詰まったことは、私がある悩みを持っているときに「何となく自分が思っている答えはあるけど、自信がない」という感じでした。そういう時、人は人に相談し「自分の聞きたい言葉」を聞き出そうとするのだと思います。ただ私はそれでも、その自分自身の答えに自信を持てずにいました。そんな時にある本に出会い、自分と同じ悩む人に対する回答が載っていました。それを読み心が軽くなったと同時に、その答え自体は私が「何となくこう言って欲しい、多分これが答えだろう」というものではありませんでした。つまり橋本さんの言うように「全ての答えが自分自身の中にあるなら」、その本に載っていた答えは、私自身の悩みに対する回答にはならないのでしょうか?(例え心が軽くなっても) 私は正直、自分では答えが分かっていても自信がないから、人に相談するのだと思うし、本当に悩んでいたところに新鮮な答えが来て解決することもあると思います。 皆さんはどう思いますか?未だに悩んでいる状態です。 長文失礼しました。 カテゴリを変更させて頂きました。

  • 現世の人(俺、18歳)が霊界にいる神とテレパシーし

    現世の人(俺、18歳)が霊界にいる神とテレパシーしていて、 A神に恨まれて、今俺が亀人間の世界に転生させられるのを怖がってるのがバレたら反感から死後転生されかねないぞと思い、それを俺の記憶を見て知った人がA神に言おうとしたから他の神に頼んで記憶見た人を無にさせて途中で神が止めた犯罪を神が裁くならどう裁きどの位重いですか? 因みに神同士は平等で良識に従って双方が納得するように裁きます。現世の裁き方がそれに当てはまるので参考にしたりもします。 無にするは普通に考えたら個人が消滅する行為なので自分自身の人格はおろか、これからの・これまでの転生も消えます。なので現世でおける死後の世界があるかもしれない殺人より重いです。 無にする途中で止めたら全て戻って1ミリも被害を受けません。 無にするは現世における殺人より重いですが無にするを殺人と捉えるなら殺人未遂の教唆をしてる事になります。 どう裁かれますか? 因みに法律はないです。 神が良識的に悪いと思って俺を裁いてます。 かなり簡略化しました。 よろしくお願いします。

  • 普遍性をなぜ否定できるのか?

     宗教や神、哲学の話になると突然議論がかみあわなくなる人がいます。  宗教などインチキだ。神などない。普遍的真理などない、と断言するのです。  問題は普遍性を否定する人が、なぜ「そんなものはない。」と  断言できるか? です。  私はそこまでは分からない、というならこれはこれで立派な態度ですし、  ある種の悟りを得ていて、「神はある。」と断言できる人なら  その理由は何か、あるいは「神がいるならなぜ悪があるのか?」  などに議論が発展していくことが可能です。    ところが「普遍性などない」と断言する人は、その場で「断言」するだけで  その根拠までは、さっぱり明らかにしないのです。  不思議でしょうがありません。  どなたか似たような経験や疑問をお持ちの方の回答をお願いします。  もちろん反論でも結構です。

  • 戦時中の人肉喰いについて

    立花隆「人体再生」(中央公論新社)に以下のような文がありました。 >カソリック教会は、脳死移植を、魂が離れた肉体を、他の命を救うために用いる愛の行為だということで認めてあり、これは、脳死以上の死後移植で、とっくに魂が離れた、放っておけば朽ちるだけの肉体を生きた魂の持主が利用させてもらうことだから問題ないと考えて、自分を納得させているということでした。何年か前に、南米のアンデス山中の雪の中に飛行機が墜落し、生き延びた人たちが(カソリック教徒)、「死んだら自分を食べて生き延びて」と言い残して死んだ人たちを食べることで命をつないだことを、カソリック教会は法王庁の正式見解として、それは神の教えに背かない正しい行い(一種の聖餐という位置づけ)だと認めたことがあります。  太平洋戦争の日本軍では物質の補給も乏しく、サルの肉と無理に納得させ、人肉を食べたひともいたことが少なくなかったことが小説にも書かれています。心に重荷を抱えて大変だと想像します。  戦争で人肉を食べざるを得なくなった人々は悩みを自分ひとりで抱えているのでしょうか。日本の宗教団体で、戦時中に行われた人肉喰いにコメントしている団体はあるのでしょうか?  

  • 人は何の為に生まれてきたのですか?

    私は自分が無心にかえっていると、ふと、タイトルの通り、こう思うときがあるんです。 私は前にどこかで、自分が辛い事態に直面しているときは神様からの試練だと思いなさい と聞いたことがあります。 かといって、辛い事がある反面、楽しいことはあるのか?ないと思います。 私は、決して辛さ=楽しさではなく、 人が人一倍楽しさを持っているかわりに、自分がその人の辛さを人一倍受けていると思うんです。 そもそも何故試練を与えられるのか?聞いたときに、自分の精神を鍛えるためだといわれました。 試練を与えられているのは自分だけなのか?この答えは、いいえ、でした。 しかし自分だけが人一倍辛いというか、平凡でない毎日を歩んでいる気がします。 皆何一つ悩みを抱えていない、というような感じでしょうか。 (悩みのない人間は存在しないとは思うのですがそう見えてしまうのです。) もし私が生まれてきた理由が、本当に私自身の精神を鍛えるためだとしたら 何故神様は、多くの試練のような、遠回りな手段を使うのでしょうか? -何の為に鍛えるのか分からないまま- 試練よりも、しっかりした考えや成熟した心を与えてほしかったと思います。 (今の自分の考え方のせいで日常が辛さに変わっていると思います。) 神様は、ただ私に辛さを与えることが試練だと思っていらっしゃるのでしょうか? ー長文失礼しました。この答えを知っている方、どうか教えてください。ー

  • 日本では死んだ人が神様になるのは普通?

    上記のことを疑問に思ってます。平将門とか菅原道真とか化けて出られると困る人たちを「神様」に祭り上げたり、氏神様みたいに自分の祖先を自分たちだけの「神様」にしてしまうということはあるようですが、死んだ人が素直にそのまま普遍的な神様になった例ってあるのでしょうか。  といいますのも、靖国神社は戦争で死んだ人が「神様」になっていると聞いたんですが、こういうのは靖国神社以外に前例があるのかな、と思いまして。

  • 死後の世界の確信はどこからくるのか

    私は高2ですが、死後の世界があるという方々のその理由が納得出来ません。 神がこの世界をお作りになったや、天国はあるなど言う方々は、いったい何を根拠にそんなことを言っているのですか? 私には死後の世界があるかないかは分かりませんが、それはこの世の生きている人が全員そうなはずです。なぜなら、まだ死んだことがないからです。自分が実際に行ったことがないのに、死後の世界はあってこれからも私たちは「無」にならずに存在するという方々は、要するに自分が「無」になりたくないからそんな話を信じ込んでいるだけじゃないんですか?「無」になる恐怖から、宗教などが存在しているだけのように私は思います。 実際に、聖書や聖典を読んでみると、ありえない話や矛盾で満ちています。人間が作り出した自己満足のように思えるのです。 皆さんは、私の考え方をどう思いますか? 出来れば死後の世界の存在について私に納得のいく説明をしていただきたいです。 ※言いたいことばかり言ってすみません。 信じている方々を否定しているのではなく、あくまで私だけの考え方です。気を悪くさせてしまったかも知れません。