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人は何のために生きているのか?

HANANOKEIJの回答

  • HANANOKEIJ
  • ベストアンサー率32% (578/1805)
回答No.28

NHK爆問学問天文学林正彦 の再放送を今見ています。128億光年の宇宙見物。ハワイ「すばる望遠鏡」からのぞく宇宙の姿。 「・やはり答えというものは普遍的で誰もが納得するものであるべきで、自分が納得できる答えもそういうものだと信じています。 ・科学的根拠のない神や死後の世界、魂が出てくるような仮想的な話は馬鹿らしいです。 ・宗教的な話も全く納得できません。 ・答えなどない。人は悩むために生きている。といった回答は答えになっていません。」 symmetry5さんの考えを箇条書きにしたものを読むと、答えに到達した人は相当数いるとお考えですね。 特別な訓練、修行をした人にしかつかめない答えではなく、万人に共有できる答えなのですね。 そして、物理学をはじめ、自然科学の領域には、その答えがないだろうという理解ですね。 ほとんど答えの近所までたどりついているようです。 http://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_syakai/index1.html ほかの回答者には、コメントが返ってきているのに、私の回答は、読んでもらえないのでしょうか?それとも、コメントに値しない内容でしたか? 残念! 社会から切り離された、無人島で一人で暮らしていると考えてください。食料の不安はなく、何不自由なく暮らしてゆけます。そのとき、symmetry5さんは、「私はなんのために生きているのか?」と悩むでしょうか? 悩まないでしょう。 悩むということは、何か足りないものを求める衝動です。だから、満足している人は悩みません。あるいは、通過儀礼のようなもので、そこを通過して大人になったら、もうその悩みには封印がされて、めぐり会えなくなります。大人は、みんなsymmetry5さんの悩みを悩んで、大人になってきました。答えは、大人の数だけあります。どう向き合ったか、それも各人の人生に刻印されています。 文学のテーマ「愛と青春」、哲学のテーマ「人はなんのために生きるのか」 宗教のテーマでもあります。答えは、すでにでていると思いますが、 symmetry5さんの答えは、自分の頭と、体と足でさがしてください。 symmetry5さんの頭には、たくさんの相談相手が住んでいます。今まで学んできた学問、読んだ本の主人公、漫画のヒーローもいるでしょう。 一生悩みつづけることはありません。いつかは、年貢を納める時期がきます。それまで、苦しいでしょうが、悩んでください。 「問いと答え」の間が、長ければ、収穫も大きいでしょう。

symmetry5
質問者

補足

回答ありがとうございます。HANANOKEIJさんの回答はもちろん参考にさせていただいてます。 前の回答のマルクスの論文ですが大学図書館にマルクスの論文集というのがあるそうなので、また見てみます。 ここで、回答して下さったみなさんにお伝えします。 回答はもちろん全て拝見し、全ての回答についてじっくり考え、自分の考えをより納得のいくものにするために参考にさせてもらってます。補足やお礼をつけている回答とつけていない回答がありますが、それは回答の内容の差ではありません。できれば全ての回答にコメントをしようとは思うのですが、回答に対する自分の考えがまとまらず、言葉にできないためコメントできないというのが言い訳です。 回答のお礼だけをしてしまった回答がありますが、後でこれは失礼だと思いました。できれば全ての回答にお礼だけでなく、コメントも残したいと思っています。

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