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人は何のために生きているのか?

maggaの回答

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.12

<<やはり答えというものは普遍的で誰もが納得するものであるべきで、自分が納得できる答えもそういうものだと信じています。>> 最初から有る、「生きる意味」は無いでしょう。皆後から、「生き甲斐としての生きる意味」を置いているだけでしょう。 何のために生きるのか。 その前に「生きるとは」何なのか考えて見ますね。 知ること・動くこと この二つにあたるのではないかと思います。 生命は多く動いていますね。何で動いているのでしょうか。止まるとどうなるのでしょう。止まるとは同じような刺激を受け続けることといっても良いかもしれません。 同じ刺激をうけ続けると苦しみが多く生まれることを発見できます。立っていれば徐々にたっていることに苦痛を感じる。そこで座ると楽を感じますが、また徐々に苦痛を感じる。またそこでたって歩くと楽を感じ、徐々に苦痛が生まれる。…同じような刺激を続けると苦痛が生まれ、新たな刺激(苦しみ)に移ったときの苦痛の減り具合で楽を感じると言って良いと思います。 大きな苦痛から逃れるため・避けるために、苦から苦へ動いている。 これが生きることと私は思ってます。 <<科学的根拠のない神や死後の世界、魂が出てくるような仮想的な話は馬鹿らしいです。宗教的な話も全く納得できません。>> 科学を多く学ばれているようなので簡単なことも、複数の同時要素をはらんだ問題を科学では表せないという、科学の不完全さも熟知していることと思います。そこを見ない科学信仰者も多いですよね科学者でもいるぐらいですから根は深そうです。最先端で研究をしている人にとっては「科学はただの道具で一つの方法論と言うだけだ」というのは常識なのでしょうが…。 しかし科学的な理性的で論理的で実証的な根拠を大切にする見解に執着しない柔軟な態度自体はかなり重要で大事にしなければならないことでしょうね。 苦痛を避けることが生きること。 多く悩み苦しみを生むことは「巧みでない生き方」といえるでしょう。その逆の悩み苦しみを減らし充実感を感じることは「巧みな生き方」といえるでしょう。 我々人間は「思考・視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚」によって知ることをしますねそして「言葉・身体・心」で行為をします。その行為のポテンシャルを原因として常に次ぎの瞬間の自己なるシステムに受け継いでいると考えてます。 「巧みでない生き方」になるのは五感に執着し、思考によって妄想し、間違った見解を抱き、執着し、感情的な煩悩による心に支配され、言葉や行為によりさらに大きなものとしてしまうことによって、より理性的な思考を押しつぶし、物事を見えなくすることで陥ると考えてます。 その逆の「巧みな生き方」の道が仏教(パーリ語経典)が語る「八正道」です。至って論理的道徳的理性的実証的な八つの項目です。これはいうなれば非宗教的な教えですw 「死後の世界・輪廻」ですが、「無い」といえば、原因に結果が出ないことになって道徳などの理性的な思考が成り立たなくなる。という考え方もあります。が、しかし「死後の世界」は八正道の実践にかんして問題にならないのだと言うのが仏教の立場だとおもいます。 もし死後の世界が無くても、今の苦しみを解決するのですから現世でも楽を享受し、もし死後の世界が有るなら良いとこに行くでしょう。と <<この悩みのヒントになると思われる本や思想を教えてください。>> スマナサーラ長老の書籍やサンが出版の「仏法」がオススメです。 スマナサーラ長老の書籍では個人的に ダンマパダの解説書・「一日一話」「一日一悟」 「なぜ悟りを目指すべきなのか」 「智慧と慈悲の開発レッスン」 「人生は美しく清らかに」 「現代人の瞑想法」 はかなりはまっていてオススメの書籍です。 「仏法」はまとめた教科書のような書籍です。宝物ですw ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

symmetry5
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 薦めていただいた書籍ですが、興味を持ったものから読んでみます。 特に「仏法」はmaggaさんのお気に入りなようなので、1度見てみます。

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