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「あきらめるな」の精神について

Harune_の回答

  • Harune_
  • ベストアンサー率20% (1/5)
回答No.3

世の中「あきらめない」ことが絶対正しいかのように言われ、 単純な価値観を押しつけられるようで、 息苦しい感じはわたしもします。 たしかに潔くあきらめることが美徳とされる場合もありますね。 恋でも、お金でも、その他いろいろなことに関しても 情熱を傾けるのはいいことですが 少し引き際を誤れば貪欲や執着ばかりが目立ってしまいかねません。 しかし「あきらめる」ばかりでもよくないと思うのです。 目標転換して次にいっても またうまくいかなくなってあきらめる、 その次も泥沼になってきたから身を引こう… ということを繰り返すようでは 強さ潔さなど誰にも認めてもらえません。 どれだけ醜くても、泥臭くても、 やはり最終的にはどこかで踏ん張らなければいけないのだと思います。 「あきらめるな」という言葉が真剣な意味でに使われるとき 話し手はこういうことを言いたいのだと思いますが、いかがでしょうか。

garcon2000
質問者

お礼

ご回答、もっともだと思うのですが、しかし同時に、やはりこの質問を立ち上げようと思ったなにか「洗脳作用」のようなものに対する疑念が沸き起こっています。 うまくいかない→どんどん次にいく→ヒットするものを発見する→成功する こういう過程がメジャーに名ってのなんら悪いことはないと思うのですけどね、むしろうつ病を減らすのではと。 たしかに踏ん張る強さはなにか印象的でことをなす要素です。しかし、それは拘泥ストレスを伴っている。 やはり、どっちもとりえがあるのに、なにか一方だけを無批判美談にする傾向があるようです。

garcon2000
質問者

補足

お礼後のどしますね。 私思いますに、企業人を養成するという魂胆がこの国のどこかにあってそれが文化的媒体に流出定着しているということがいえませんかね。つまり、企業人にとっては「あきらめる」営業姿勢はご法度だということで。

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