• ベストアンサー

人が おしえる・おそわるということは どういう事態か

arayata333の回答

回答No.7

実は、まだまだ忙しいです。 このような「哲学の対話の心」自体学ぶところの多い質問からは、もっと真剣に取り組んで学びたくなりますし、回答を書くことで私の中の価値感を伝えたくもなります。 書くスピード自体はあるほうですので、急ぎやはり書きたくなってしまった事を書いてみます。 もし、基礎教育というものに学習法や学ぶ姿勢が必須科目として学習できるならば、中学からの学校教育とかは大幅に変わっていくのではないかとか、その時期を早められないかとかで、 いろいろと教育には興味をもってたりします。 其の中で、まず書きたくなったのは サリバンとヘレンケラーのことです。 詳しくは知らないのですが、サリバンは子供の頃 私がいじめによる恐怖症から一時気がふれてしまったように 人間の意識を逸してしまうような体験をしているようです。 記憶はあるので、その間の事を明確にむしろ憶えていますが(むしろ印象的ですからね。) どういう意識状態かというと、おそらく動物の感覚や脳に近いものだと思われます。(目も耳も五感すべては働いてはいるのですが) サリバンも同じような、いやもっとひどい状態があったようなのです。 そこを何かの大きな知恵の世界とか暖かい心によって助けられて 心身の健康を取り戻したようなサリバンにとって ヘレンケラーはどのような状態に見えたでしょうか? ヘレンケラーの状態は何かを認知するとっかかりが全く無い状態ですよね。 でもサリバンには、見えていたことがあると思います。 「「「((ヘレン、貴女の脳は、動物じゃない。 あなたの意識や心は動物じゃない。人間なの。 ぜったい貴女も この世の中を知ることができるようになる。))」」」 心の中で 親にも増したそのことへの信頼と愛情のはげしいまでの叫びがあったのでしょう。 だから ほんの少しの手がかり反応も見逃さなかったのだと思います。 教えるということはサリバンにとってなんだったのでしょう。  わたしは、教育というと、まず目的を問います。 それはもし単純にベストな回答で言うならば、幸せになって欲しいということです。 もっと、もっと、というその感情の発露です。 そうすると、 教えるというのは、伝達することであれ、理解を伝えるということであれ、価値をなんとか解ってもらうということであれ、その情熱の火があってのこととなります。   そしてその火は、常に相手の長所をそれこそ無意識界からもさがしている状態となります。 細かな点も気になりみのがしません。 それがヘレンケラーとサリバンの中のまずあったことだと思います。 また サリバンという教える側の意識の中には、 上下関係という余計な考えとかは無かったと思います。 人間だから 人間を信頼している その純粋な姿が きっとやがてヘレンケラーの何が何だか解らない心の苦しみにも その闇にもとどいたのだと思うのです。 先生とは、「先にそれを知ってる生徒、 同じ生きる道すがらの徒」と私は読んでいます(笑)。  これは、かならずしも知だけのことではなく、 意志とか感情、感性の伝達においても 同じ事が言えます。( その場では大きな気付きがあればそれを教えてくれた人に深い感謝の気持ちが其のぶん起こって当然ですが、それを伝えたら後はむしろ忘れてでも前にさらに進んでゆくのが人間の道と思う。) よい先生とは何か? 「人間ならできるようになる、見えるようになる 同じに考えることができるようになる、 大丈夫 しあわせになれるよ、」と信じている人のことだと思う。 またそう信じれる哲学を持ってる人のことと思う。  その時 その先生も 多くの人から多くを学ぶのだと思います。 この「Q&A」で 以前、文章が通じない女性が、それでも何故かアランというフランスの哲学者の勉強もしてたりする様子はわかる文でいろいろ質問していました。 このミスマッチは何なのか?みたいな最初は興味本位でもあったところ、  読んでるうちに、何かがある 何かが伝わってくる? いったいこれは、この文章は、何なのだろうと 思えるようになってきて、それはやがて この女性は 詩みたいに文を書いてしまう人ではないか? もしかしたら 詩の才能があるのでは?と 気になって気になってしかたなくなってしまったことがあります。  最後は、回答そっちのけでその事を伝えてみました。   すると、彼女が母親になった時に書いた詩を補足文で書いてきてくださったのですが、  これは私にとって ソシュールよりもたぶん 言葉についてより明快に深く教えてくれるものがあったのです。  そうかこれが生きた詩なのか?  だから記号を言葉が越えることがあり、其の積み重ねが感性自体をも伝える綴りにもなってゆくのだなという原点をそこに見たからです。 いままで、求めても求めても解らなかった 諦めてもいたことが 見えてきました。  私はその質疑応答で、彼女の長所に心うばわれ、おもわず、詩を書いてみたらとよけいな形の先生となっていました。  そしたら、彼女こそ私のなんともすばらしい先生ともなってくれたのです。   情熱が火花をもたらして 「和解」を生み発展を生んだ例ですね。 学ぶ謙虚さも この相互関係で重要ですが、 それも人間存在の 何か奥からの幸せへの祈りとかもがきが自分の中にありその希求があり、飢えかわきがあり、謎を追求する哲学する心があり、 其の対話の火花が欲しい情熱があり、学びも起こり、そして そこに教え教わるという事態が生じるのだと思います。 「「おしえる側のおしえようとする意図とおそわる側のおそわろうとする努力とが あたかも一致して 教育が成立する。」」と書かれていますが、(すみません、 うまく記号変換ができなくなってしまいました。ネット音痴ですので 原因か解るまでは盲目状態となり 変則的になってしまいます。、だれか私のネットのサリバンになってくれる人が欲しいです(笑)) その中の「あたかも」の含みに、たぶん答えがあるのでしょう。 私の場合は それは人間への信頼、人間として生きてることへの信頼ですね。 そうでなくても「「成立」」はするけれども、 哲学への気付きの火花は浅かったり不明確だったり 問題の核心に迫れなかったりするのは、「「あたかも一致」はしていても 火花がでるような双方の意図と努力が ほんとうには一致していないという感じです。 質問の中に答えありと言いますが、 そんな感じの何かをその「あたかも」の含みに感じます。  しかし、これはまさに「含み」であり さらに豊かな世界なのでしょう。  そう思いました。

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  ついに来ましたね。何も言うことはありません。  わたしは 自分で言うのもおかしいですが 分析をしたり論理立てて整理したり かんたんな理論としてまとめたりするのは けっこう得意ですが 人を前にして講演や演説をしたりですとか あたたかい血のかよった随筆ふうの文章を書いたりですとか そういうことは まるで別の世界のことのように思ってしまいます。  ★ ☆《おしえる側のおしえようとする意図とおそわる側のおそわろうとする努力とが あたかも一致して 教育が成立する。》と書かれていますが・・・その中の「あたかも」の含みに、たぶん答えがあるのでしょう。  ☆ なるほどと思いました。そして さらに別の見方も わたしの中に起こりました。  ★ 問題の核心に迫れなかったりするのは、「あたかも一致」はしていても 火花がでるような双方の意図と努力が ほんとうには一致していないという感じです。  ☆ ということを さらに掘り進むなら こういうことをおっしゃっているのではないかと考えました。サリヴァンとヘレンとの間に いくら衝突があっても どれだけけんかをしようとも 火花の散り方が もはやあたかも(また この言葉が出ましたが)修羅場のごとくであっても   ★ 心の中で 親にも増したそのことへの〔* つまり たとえ社会的動物ではあっても 歴史のない動物ではなく 社会に生きる人間であるというその存在への〕信頼と愛情のはげしいまでの叫びがあったのでしょう。  ☆ というときのあたかも動物的なまでの人間の息吹きと情熱的なまでの信頼関係とが 通っているのならば もはや《おしえる‐おそわる》の一致は むしろ どうでもよいというほどなのだ。・・・  あとは 自己表現ということになるでしょうか。言葉が 一般的には 中心となるとも思われます。そして こういう大前提からの話としては このときの言葉というものは だいたい 息吹き度指数というものが とりわけ子どもたちには おのづから分かるはづです。・・・  お忙しそうですね。ぼちぼちまいりましょう。

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