• ベストアンサー

美について(美意識の探究)

noname#68005の回答

noname#68005
noname#68005
回答No.12

 当方は視力が0,02未満でございまして、近視のまま矯正もしておらず平時は裸眼です。  特別な一点において、「美」に感動した記憶はありません。  しかし眼鏡を掛けて野外を悠々と歩み、ふと自然、それは人為によらない天然という意でなく人工物も含めた物象、そういった自然に視線を傾けると、久しい鮮明さに息を呑みます。青空を仰ぐと、ペイントツールによる青味で塗りたくったような整然に驚愕します。間抜けながら百貨店にあるふきぬけが実際、その完成度から、天井に描かれた絵だと誤解することもございます。  普段から近視で視界が漠然としているから、パソコンの煩瑣な画像や写真になれているから、自然の鮮烈さと天衣無縫の有様、真に迫る現実感、構造の冷徹な帰結、そして何よりもその意味を考えずに感じられるのを、たまらなく愛しています。私は、自分で「感じている」自然に、最も美しさを覚えます、時には自然の音にも魅せられます、月並みですが水の音など。  写真は写りや構図が良かろうが迫力と細微に欠けます。絵画も制作が難しかろうが画家が凄かろうが深い意味があろうが、即物的に美しくなければ感動できない私は退屈です。また「見た」自然の記憶は美しく残りません、色あせた印象と経験が過ぎ去るのみです。自身でも、中々に本能的であると自負しております。  個人的な余談ですが純粋な美意識とはやはり人間の機能性なわけで、そこには何らかの合理性が携わっているのでしょうね。それは遙かかなたから研鑽されてきたもので、遠い先祖の記憶は我々の根っこにどのような訓戒を説いているのか(根拠に欠けた例えですが、根底として水分を必要とするため、水の音へ惹かれるようになった……かのような)、いやはや興味深いことです。

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございました。 >「見た」自然の記憶は美しく残りません、色あせた印象と経験が過ぎ去るのみです。 記憶や経験には、すでに美はないという点は、なるほどと思いました。それは、美を意識した事実そのものではなく、何らかの記録でしかありません。しかし、その記憶は、現在進行形で体験し、気持ちよさを伴った感覚があったことを意味していますし、(仮に錯覚だったとしても)事実として経験した美の体験が確かに過去にあったと言えます。今では、色あせているかもしれませんが、その過去の時点では、ゾクゾクするような感覚体験であったであろうと推察します。 人類の能力のひとつとして、誰でも時々、美を感じることができるように私は思っています。ただ、現代日本において、この美の感受性が衰えてしまっているのではないかという印象を持ったので、今回の質問をしました。回答者様は、「純粋な美意識とはやはり人間の機能性なわけで、そこには何らかの合理性が携わっているのでしょうね。」と言っていますので、私と同様に美の感受性が人間の能力としてまだ残存しているとお考えなのでしょう。 美の感受性が衰えてしまっているのかどうか、もう少しの間、回答を受け付けたいと思います。

関連するQ&A

  • 美(美意識の探究)について

    あなたの記憶の中で、今までに最も印象に残っている「美しい」と感じたもの、ことを教えてください。そして、その理由も分析してみて下さい。 たとえば、いつも競馬場に行くけれども、競走馬は芸術作品とも言えるもので、○○○○号は特にそうだった。なぜならば、・・・・・。という感じでお願いします。 最終的には、実例に基づく美意識を展望してみたいと考えています。様々な視点を知りたいので、よろしくお願いします。

  • 美や芸術についてこだわりをもっている作家

    美や芸術についてこだわりをもっている作家、独特の美的感覚をもっている作家、美意識を刺激してくれるような作家を探しています。 私は最近嶽本野ばらさんの作品を読んだのですが、彼の独特の美的感覚や、ファッション・絵画・音楽に対する思い入れが強く感じられ(あまり趣味の方向性は合いませんでしたが)、こういう作品をもっと読みたいと思いました。 そういうオススメの作家がいれば教えてください。

  • アメリカにおけるM&Aの実例

    こんにちわ。初めて質問します。 卒論でアメリカにおけるM&Aを扱おうと思っている者です。ただ私は経済学部生や経営学部生ではないので、M&Aを経営学的な視点からではなく「企業文化の融合」という視点から分析したいなと思っています。 そこで、アメリカにおけるM&Aの実例を集めたいのです。どなたかアメリカにおけるM&Aの実例が載った文献やホームページをご存知の方はいらっしゃいませんか??またそれらのM&Aの経緯、成功or失敗した理由などがわかればもっと素晴らしいです☆

  • やっぱし無意識の概念は要らないのではないか?

     (α) 《意識にのぼっていない記憶野における情報》もしくは《潜在意識》と言えばじゅうぶんではないか?   (β) これは 無意識という概念ないし領域を想定する必要すらないと言おうとするものです。  (γ) 《アーラヤ識》も 同じくふつうの《記憶》ないし《潜在意識》という用語で足りるのではないか?  (δ) 第七識のマナ識は もし仮りに《意志》と言うならそういう精神のひとつの行為能力である。《自我執着心》と言う場合には その種の意志の発動となっている。自我つまり私に執着しない〔で《わたし》たちを生かそうとする〕ふつうの心としての意志もある。  このような(α)から(δ)までの問い求めは つぎのヰキぺの説明内容をさらに深めつつ明らかにしたいという趣旨のもとにあります。  ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98  フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、  20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 思想や芸術への影響のうち要らない部分・まちがいの部分を明らかにし 捨てるべきは捨てたいという趣旨です。  (ε) さらにヰキぺの記事のうち つぎのチョムスキーの生成文法仮説〔そのうちの用語法のほう〕にもうたがいを持ちたいという魂胆です。   ▲ (ヰキぺ:同上) ~~~~~~~~~~~~~~~  ノーム・チョムスキーの生成文法は、人間の大脳に、先天的に言語を構成する能力あるいは構造が備わっていることを主張している。  子供は成長過程で、有限数の単語を記憶する。単語は、単語が現われる文章文脈と共に記憶される。しかし、子供の言語生成能力は、それまで聞いたことのない文章、従って、記憶には存在しない文章を言葉として話すというところにある。「記憶したことのない文章」を子供が話すということは、それは記憶ではないのであり、それではどこからこのような文章が湧出するのか。    それは「意識でない領域」、または「無意識」から湧出するのだと言える。チョムスキーの考えた普遍文法の構造は、無意識の領域に存在する整序構造である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《記憶という行為能力は みづからの領野としてそれじたいに秩序作用とその構造を持つ》と考えます。《おぼえる》とは《その知識や情報じたいをととのえる》ことだと考えます。  おぼえたものを想起しそれらの知識要素を筋道立てて推論に用い最終の判断のための材料を用意するのは 《知解》というもうひとつの精神の行為能力だと見ます。これに判断をくだすのは 《意志》という能力行為です。  精神(ないし心)は《記憶・知解・意志》の三つの行為能力から成るという見立てです。社会形態における役割になぞらえれば 順に《司法・立法・行政》に当たるという見方です。  ここでも《無意識》という領域を単独分立させる意義はないと見ますが どうでしょうか?

  • 確かに美しいけれど、自分好みではない・・・

    例えば芸能人・・・  確かに美人(美男子)とは思うけれど、自分の好みではない。 例えば美術作品・・・  確かに美しい芸術品とは思うけれど、自分の好みではない。 例えば風景・・・  確かに美しい景色とは思うけれども、自分の好みではない。 そんな例があれば、教えて下さい。 また、そう思うのはどうしてなのか理由がお分かりであれば、それもお聞かせいただくとありがたいです。 宜しくお願いします。

  • 森鴎外の魅力についてご意見をお聞かせ下さい。

    森鴎外の魅力についてご意見をお聞かせ下さい。 森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』を青空文庫で読みました。 「あらゆる芸術はLiebeswerbungである。口説くのである。」が印象に残りました。 この場合のLiebeswerbungは「求愛」でしょうか。 「性欲を公衆に向かって発揮するのである。」とも記してあり、 なるほど…と思ってしまいました。 当時の鴎外が「西洋の芸術や美」に触れ「旧来の日本のそれ」を顧みた際に、 いったいどのように各々を捉えていたのだろうとも考えます。 森鴎外について興味を抱きました。 彼の作品の魅力につき、ご意見をお聞かせ願いますでしょうか。 どうぞよろしくお願い申し上げます。

  • ゴルゴ13「7号コテージ事件」について

    「7号コテージ事件」「ルーサー・キングの遺産」という2作品は確か,連載200話記念として同じ週刊誌誌上に収録された作品だったと思います。 2話のストーリーがリンクし,お互いの作品の中に別の視点からの同じシーンが有ったと思うのですが,コミックスを読んでもそういうシーンは出てきません。そもそもコミックスでは収録巻も違います。私の記憶違いかもしれません。どなたかご存知有りませんか?

  • 世界的な美の基準について

    質問失礼します。 批判覚悟で書き込んでいますが、第三者視点で俯瞰した回答をいただけますと幸いです。 また、当方に白人至上主義・人種差別の意図は一切ありません。 ・質問→世界的な美の基準は、やはり白人圏にありますよね? 仕事とプライベートを兼ねて八年ほど海外(東欧・北欧中心)におり、時折帰国していた者です。 先日、本帰国いたしまして空港に降りた途端、周囲の方々を見て愕然としました。(※自分も例に漏れず日本人なのは百も承知です) 所謂コーカソイドと呼ばれる人間達に囲まれすぎていたせいで、恵まれた体格・長い手足・堀の深い顔立ちがデフォルトの光景だった当方は、国内の様子に違和感を覚えました。何度か一時帰国していた際も同様の所感を持ちましたが、今回は明確な感情として意識してしまいました。 美の感性はそれぞれという意見は頷けますし、東洋の美・西洋の美、それぞれ違った趣があると思います。 しかし個人の趣味嗜好とは別に、生物の本能的な部分に「不動たる美しさの基準」が刷り込まれていると思うのです。ヒトは一般的に、左右対称の黄金比率を好むといいます。 それが、冒頭で質問した世界的な美の基準は白人圏にあるということに帰結します。 また、海外暮らしで感じた違和感の他に、国内でも感じた事を以下記載します。 国内で暮らし海外旅行にもあまり行かない身内は、日本の芸能人の美しさを世界のマジョリティのように語っています。それに感化され数年ぶりに視聴した国内テレビは、男女問わずみな似通った顔立ちの芸能人ばかりが出演していました。 それぞれのお顔立ちを拝見すると、本当にこれは暴論だと思いますが"いかに白人の要素に似ているか"が鍵なのではないかと感じました。 また、整形についても同様です。 コンプレックス解消のため・自己満足のためなど様々な理由があると思いますが、大体の人が小顔・大きな瞳(二重)・高い鼻・細い顎をのぞみ施術を受けられる方が多いと聞きます。日本人が整形をしてまで手に入れたいものを、白人は生まれた時から既に持ち合わせています。 上記の要素を並べて俯瞰すると、やはり美しいと定義される基準は白人に多く当てはまると思います。 ここまでお読みいただきありがとうございます。 上記について、皆さんはどう思われますか? さまざまな意見をお聞かせいただけましたら幸いです。 また、繰り返しますがこれは人種差別を意図したものではなく、興味本位から質問しています。

  • 日本人の方に訂正していただければ助かります。よろしくお願いします

    大学で日本語を勉強しているとき、いくつかの川端康成の作品を読んだことがあります。読んでいるうちにだんだん川端作品の風格と含蓄の表現方法に対して深く興味を持ってきました。特に「山の音」 という作品です。複雑な人物の心理活動の描写及び生々しい会話表現方法は深い印象を与えてくれました。だからこの作品を私の卒業論文のテーマとして述べてようと思います。  本稿では信吾の思考領域を中心として、芸術性と社会性の二つの方面から論述します。信吾の山の音への恐れ、一家としての怯え、夢と幻想、保子の姉への憧れから菊子までの恋、これらの四つ方面から信吾の複雑な心理活動を分析します。又修一の浮気などに起因する房子の不幸な婚姻生活の描写を通じ、敗戦後の家庭生活の苦しさと人間関係と思想意識の変化を反映しました。  又、「山の音」に出てくる能面などの小道具を通じて、日本伝統的な情緒を反映し、川端創作の芸術性を現れました。  とにかく、「山の音」は川端康成の生涯の創作の中でも芸術性が高く、社会性を持つ通俗的な作品だとおもいます。「 山の音」の分析を通じて日本人は戦争による損害と暗い影、戦後の思想観念の変化を知ることができます。だから、本稿を書きたいと思います。不足なところがあったら、諸先生に指導していただきたいとおもいます。よろしくお願いいたします。

  • 映画のタイトルがわかりません

    今から約10年ほど前に観た映画のタイトルがわからず困っています。 確かな記憶 ・洋画 ・美少女が連続して殺されていく ・最終的にあまり美しくない少女1人が生き残る 曖昧な記憶 ・あまり美しくない少女はロングヘアでオーバーオールを着ていた ・何かの建物の地下かどこかに温水プールのようなものがあった 自分でいろいろと調べてみたところダリオ・アルジェント監督の 『フェノミナ』(84)と『サスペリア』(77)が出てきたのですが、 前者は虫が出てくるというところがピンとこないのと 何より主役が美少女なため違うように思われます。 後者はバレエ学校が舞台というところが少し引っかかりますが、 こちらも主役が美少女であるのでやはり違うように思います。 どなたか少しでもこの内容に近い作品をご存知の方が いらっしゃいましたら回答よろしくお願いします。