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昭和17年徴兵検査丙種に召集令状?

ある兵士の戦争体験 http://park23.wakwak.com/~syaminto-niigata/ken-heishi3.html 上記サイトによると、昭和17年4月、徴兵検査丙種なのに召集令状がきたそうです。 これはなにかの手違いでしょうか? 病気がある人を徴収しても役に立ちませんし、戦争がさほど逼迫している直でもありません。 当時、手違いではないかと、役所に問い合わすことはできませんでしたか? 現在の社保庁のような書類ミスだったのではないですか。 他にもこのような例があるでしょうか。 よろしくお願いします。

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  • hs001120
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回答No.5

No.1さん回答済みですが、徴兵検査の丙種というのは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E6%A4%9C%E6%9F%BB 基本的に国民兵役として、警備や輸送任務には適する扱いです。 ここで、http://park23.wakwak.com/~syaminto-niigata/ken-heishi2.html >体格や健康状態の綿密な検査の結果は、意外にも「丙種」 >小柄ながら小さいときから労働で鍛えた頑健な彼がこの結果になったのは、レントゲンで肋膜炎にかかったことのある影が出たためと言う。 で、与えられた任務は >輸送任務 というのですから、特におかしなことではないと考えます。 特にリンク先の >1941 年(昭和16)春、松本さんは20歳になったので、徴兵検査を受けた。 の場合、 http://hamaj.hp.infoseek.co.jp/01nenpyo/1940.htm >1941(昭和16)年11月15日 兵役法施行令改正公布(丙種合格も召集) ということですから、徴兵検査を受けた半年後にルールが変更になったことになります。 >甲種や乙種の合格者でまだ召集を受けない適格者は他に何人もいたのに。 子供のころから徴兵検査を受けた時まで聞いていた話と違う! という事であったのかも知れません。 当時は、輸送任務を軽視蔑視する風潮があり 「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」なんて酷い戯歌も伝えられています http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%9C%E9%87%8D%E5%85%B5 つまり「輸送要員なんて一人前の兵隊の範疇に入らない」優秀な兵隊がする仕事ではない 呼ばわりで、次の様な話もあったようです。 http://www.geocities.jp/satomurakinzou/tyouheikihi.html >それは兵役義務の名で徴集された事実上の強制労働者であり、昇進制度もなかった。 http://teikoku2.spaces.live.com/blog/ >水上氏はあとがきで、「わたしたち兵卒は、徴兵検査では丙種(合格)で欠陥者が多く、中には猪首の男や片目の男もいた。つまり、クズのような兵隊が、新馬育成に精を出したのである」と述べている。 http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/minaosu23.htm >徴兵検査で甲種合格の体格のいい輜重兵のもとで、第二乙種または丙種の弱々しい輜重輸卒が重い荷物を背負ったり、車をひいていたそうである。 >戦争がさほど逼迫している直でもありません。 については推測ですが、逆に戦争がさほど逼迫していない時期、つまり日本軍が進撃を続け補給線が伸び 前線の兵の損害はまだ大きく無いが弾薬の補給が追いつかないので輸送要員がとにかく必要 という時期だったからこそではないでしょうか?

その他の回答 (5)

  • roku43
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回答No.6

私はまさに正真正銘の「丙種合格者」です。質問に登場する松本さんより少し若く、徴兵検査が昭和19年だったため、翌20年には戦争が終わり、幸い赤紙は来ませんでした。 「丙種」でも「合格」ですから、いつ召集されても不思議ではありません。松本さんは、日本軍が戦線を拡大するさなかだったので、召集されたのでしょう。決して<手違い>ではありません。時期が不運だっただけです。翌18年には兵員増強のため、それまで与えられていた文科系学生・生徒の召集猶予が取りやめになり、全国で十数万の学徒が兵役に就きました。いわゆる「学徒出陣」です。 ところが、この年あたりから戦局は日増しに悪化し、日本軍は太平洋をはじめ各地で玉砕・転進(退却のこと)、戦線は縮小されてきました。 そんな時、まだ学生でしたが検査を受けたのです。病気一つしない健康な体でしたが、いかんせん裸になればあばら骨が見えるひょろひょろの痩せ。おまけに、60キロの米俵を担いで50メートルを何秒で走れるか-という体力検査まで行われました。立派な体格の若者は軽々と担いでスタスタと走るのに、私は何回やっても持ち上げることすらできず、検査官の軍人も苦笑して「もういい」と放免。結局、それらが重なって「丙種合格」になったのです。 ほんとは「不合格」でもおかしくないでしょうが、身体障害の「丁種」にも該当せず、結核など病気中の「戊種」でもないので、最低限の合格にしたのでしょう。20年8月15日、同期生200人のうち、召集されす残っていたのはわずか13人。その中の一人が私でした。

  • hukuponlog
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回答No.4

事実を正確に記すために 1.徴兵検査で不合格は存在しません 違います。身体欠格(右手の親指が無い、全盲)などは丁種と言って、「兵役に適さない」不合格です。普通に考えて、全盲の人間が兵士になりうるかどうかくらいは分かるでしょう。 2.硫黄島の部隊は元々30歳以上の方で編成 違います。例えば、戦後読売新聞の記者になった多田実という方の「海軍学徒兵硫黄島に死す」(講談社)という有名な本があります。彼自身も昭和18年学徒出陣です。この人は、2006年に82歳で死亡していますから、1945年当時は22歳程度です。 3.戦争は若ければ強い訳ではありません。経験豊富な人が強いのです。 経験豊富ということと、高齢は違います。20歳で徴兵され、17年実戦をした兵士なら確かに「経験豊富」で強いでしょうが、37歳で徴兵された人間が体力的にも「強い」はずがありません。 4.戦時中に毎日新聞はありません。当時は東京日日新聞という社名 違います。毎日新聞の社史をきちんと確認してご覧なさい。1943年(昭和18年)「 大阪毎日新聞、東京日日新聞の題号を毎日新聞に統一」です。

回答No.3

 徴兵検査で不合格は存在しません。まず甲種から徴兵し、甲種が不足すると乙種、乙種が不足すると丙種から徴兵します。母体の大きい県ですと甲種合格で充足するのですが、母体が小さい県では下位からの徴兵が行われました。  尚、軍隊へ行けるのはかなりの名誉で、行きたくても行けないのが普通でした。一番哀しいのは召集入営後に兵役不適格の判定を受けることです。これを受けると除隊になってしまいます。この認定を受けた方はかなりの方が自殺しています。  硫黄島の部隊は元々30歳以上の方で編成されています。109師団は東京を徴兵区とする部隊で、後備兵役(20歳の時に徴兵された方々)だった人を再召集して編成した部隊です。これに鹿児島の後備連隊である145歩兵連隊を付与して編成されています。  戦争は若ければ強い訳ではありません。経験豊富な人が強いのです。 最後に戦時中に毎日新聞はありません。当時は東京日日新聞という社名です。

  • danke3
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回答No.2

私の母方の伯父がそうでした 肋膜炎になったことがあり、徴兵検査は丙種合格でしたが 召集されました 生還して間もなく、結核で亡くなりました 召集されてなければ、生きていたかもしれません 長男の伯父も戦死しましたので 母方の家は跡継ぎがいなくなりました

  • hukuponlog
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回答No.1

徴兵検査の丙種というのは、必ずしも病気を意味しません。例えば、身長が足りないとか、体重が足りない、完治したけれど肋膜の病歴があるなど肉体的には健康であっても丙種になることはあります。 また、懲罰招集というのも実際ありました。例えば毎日新聞の新名記者は極度の近視で徴兵免除、しかも当時37歳ですから、兵士としては老兵で使い物になりませんが、書いた記事が物議をかもし、徴兵されました。 しかも、彼を徴兵するために、同年代の徴兵免除者250名を併せて徴兵したのです。その250名の老兵達は完全に「とばっちり」を受け、全員硫黄島で戦死しました。 この例のように、例えば軍事教練や隣組の防災訓練に非協力的などの理由でリストアップされ懲罰的に徴兵された事例はあったようです。 >手違いではないかと、役所に問い合わすことはできませんでしたか? これはできないでしょう。何故なら徴兵されるということは、建前としては「おめでたい」ことなのです。お国のために滅私奉公できる機会を、しかも丙種の人が与えてもらった、という筋から言えばむしろありがたいこととして捉えなければ非国民です。

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