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真理と論理と道理の中で重視するのはどれ?

真理は価値、論理は記号(操作)、道理は事実(自然)に属すると私は考えていますが、この中で最も大切なものはどれでしょうか。 一般的には真理が重要とされていますが、現象の背後に本質(真理とか実在)は無いと思います(「真理とは、それがなくてはある種の生物が生きていけないような、一種の誤謬である」ニーチェ)。真理は、実在や論理といった記号世界(それぞれの人の心と呼んでいいでしょう)の最大公約数にすぎないのではないでしょうか。 私は「真理より道理、実在より現象」と思うのですが、皆様、いかがでしょうか。

みんなの回答

  • harepanda
  • ベストアンサー率30% (760/2474)
回答No.4

当方はdoyoubi777様とは全く異なる発想法で生きていることを、まずはご理解ください。 「真理とは、それがなくてはある種の生物が生きていけないような、一種の誤謬である」というニーチェの理論は、支持できません。理論と現実は必ず一致するものであり、理論と現実は違うなどという人は、単に偏見にとらわれているだけだと思っています。 真理(価値)と事実(自然)を分別する思想は、西洋哲学史のなかでは、たかだか200年程度の歴史しか持たない発想法です。プラトンのイデア論から解放されたことで哲学がはじめて可能になったのではなく、イデアなくして真理と事実の関係を説明することは出来なかったのだと思います。 真理と事実は一致します。いわゆる自然法思想の本質は、「現実に存在する間違った法律に対し、人間本性にそぐう理想の法は、どのようなものであるか」という議論であり、この論争をヨーロッパ人は何百年、あるいは千年以上前から、脈々と繰り返してきたわけです。この自然法思想という枠組みの中にある限り、真理と道理は同一のものです。「実在より現象」という議論に対しては、弁証法の基本である、「実は人間が主体で理論が客体なのではなく、理論が主体で、人間の脳は概念の自己運動を客体として伝達する媒介にすぎないのではないか」という議論が出てきます。 そのようなわけで、doyoubi777様とはかなり異なる見解を私は持っているのですが、このあたりの発想法は、キルケゴールの「不安の概念」と「死にいたる病」を読めば、何となく見えてくるものです。日本語訳もまともで読みやすいので、お奨めです。キルケゴールの特性は、弁証法家にして実存主義者であること。現象学的な発想法の人にとっては、斬新に見えるかもしれません。自分たちとは違う発想法で、人間心理を表現することが可能なのか、と。 真理、論理、道理のどれが重要かと聞かれたら、私ならこう応えます。 「偉大なるルソーの段階ですでに、真理と道理の同一性、ならびに自然法思想の根本的欠陥である、人間本性をどのようなものとして理解するかにより、全く違う結論が出てしまうという弱点が指摘されている。よって、真理と道理は同格。論理は、単なる方法論に過ぎないものであり、成熟した哲学者には意味の無いものである」、と。

doyoubi777
質問者

お礼

懇切に回答頂きありがとうございます。「自然法」という言葉の理解が一歩進みました。ただ、「真理と事実は一致」するという点については異論があります。一致させるべく人類は努力しているとは思いますが。 ところで、この議論を私が持ち出したのには理由があります。哲学は入門書しか基本的に読まない私ですが、プラトン流の真理一元論(私の勝手な言葉で恐縮です)が歴史上(特に20世紀)多くの悲劇を生み出したように思うからです。人類に英知があることは否定しませんが、知の行き過ぎが狂信を生み出したことも事実と思うのです。 そんなことで私こそ行き過ぎてるのかもしれないなあとちょっぴり反省しつつ、今のところは「真理より道理」で暫く進みたいと考えています。今度は道理とは何かが問題として降りかかっております。 それでは、今後ともどうかよろしくお付き合いをお願いいたします。

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回答No.3

真理でもなく、論理でもなく、道理でもなく、 (誤解を受けやすい言葉だが)「力への意思」だとニーチェは言いそうですね。 ・・・答えになってなくてスイマセン^^

doyoubi777
質問者

お礼

いえいえ、参考になります。 「力」を自然=道理とねじまげて解釈すればニーチェも道理に一票となると考えました。ありがとうございました。

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noname#60992
noname#60992
回答No.2

哲学とは一切縁のない人間ですが、 私は、 「真理とは道理を論理で表現したもの」 と考えています。 どれが大切とかいう問題ではないようなきがしますが。

doyoubi777
質問者

お礼

なるほど。真理と道理とは表現方法・形態は違うけれども中身は同じということですか。道理ですね。 現実世界(現象)の背後には真理や実在は無い。真理=道理は現象(自然)から人の心(論理)が構成するものだと考えているのですが。 回答ありがとうございました。参考になりました。

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  • 3rdTp
  • ベストアンサー率31% (19/61)
回答No.1

論理が最も重要なのは言うまでもありません。 県外に出て初めて気づいたんですけど、 この国の人は意外と論理性に欠ける。 勿論自分もこの国の人に含まれるのですが。 論理がなければ真理も道理も説明できません。 どちらも論理の上に成り立っているのです。 価値を説明するときどうして●●に価値があるのかないのか説明できますか? 事実(自然)を説明するとき△△だから○○は事実だと説明せずとして誰が納得しますか?

doyoubi777
質問者

お礼

そうですね。論理は説明の際の手段とか、あるいは、思考の際の手順として大切ですね。そういう手段・手順を尽くした上で、私は、道理(自然)が大切ではないかと思います。真理一元論(真理はひとつしかない)に反対したいための論理ではありますが。 参考になりました。ありがとうございました。

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