• ベストアンサー

第九の《歓喜》は ディオニュソス的ですか?

 ▼ (ニーチェ:アポロ的とディオニュソス的) ~~~~~~~~  (あ) アポロについて言えば[・・・]  シューペンハウアーの《個体化の原理 principium individuationis 》(* 或る種の《実存する姿》)の壮麗な神像とよぶこともできよう。アポロの風姿やまなざしから《仮象》のすべての愉悦と英知が その美とともにわれわれに語りかけてくるであろう。  (い) [・・・(引用者による要約:その《実存》の姿には 言うまでもなく時には《恐怖》が襲いかかりうる)・・・]。突然人間が現象の認識形式(* それに絡んで 実存のあり方)に迷いだし その心に襲いかかる恐怖なのである。  (う) [・・・(引用者註:《迷い》だけではなく《実存が打ち壊されてしまうと》)・・・]人間の いや 自然のもっとも奥ぶかい根底から歓喜あふれる恍惚感が湧き上がってくる。  (え) われわれは先の恐怖に この恍惚感を加えて考えるなら ディオニュソス的なものの本質を一瞥することになるだろう。  (お) [・・・《さらに〈陶酔〉というものの譬えを借りてくれば もっとわかりやすくなる》とつづく。・・・]    (『悲劇の誕生』 西尾幹二訳 〈1〉)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (か) さて この《恐怖と恍惚感ならびに陶酔》の混ぜ物たる《ディオニュソス的》なる心的現象は 果たしてベートーベンの《歓喜》に譬えられるのでしょうか?  曰く:  ▼ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~  (き) ベートーヴェンの『歓喜』の頌歌を一幅の画に変えてみるがよい。幾百万の人びとがわななきにみちて塵に伏すとき ひるむことなくおのれの想像力を翔けさせてみよ。そうすれば ディオニュソス的なものの正体に接近することができるだろう。  (同上箇所)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (く) その曲を聞いてわたしなりに感じるものがありますが この音楽についてはくわしいことは分かりません。引用箇所はまだまだ断片的でしょうが これを読んで思うところありという方は そのご見解をおしえてください。  (け) 質問者としては 感覚としてイメージとして どうもニーチェの捉え方は おかしい。違うのではないか。とは思っています。(う)の《歓喜あふれる恍惚感》というのは マガイモノのように映ります。単純な反応としてですが 破れかぶれから恍惚になるのでしょうか?  残念ながら シラーの『歓喜に寄す』についても詳しくありませんので そこのところをも交えて よろしくどうぞ。

みんなが選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

思うところと言うと、ニーチェはキリストの神を知らないで、世相の神に対して否定的なんだろうね。 そもそも勘違いでわめいている。 信仰の類型とは言わないまでも、釈迦の無の論理も同様だったのかもしれないな。 そうすると、神を愛さないで、理解しようともしない事が信仰の最もである。 こんな考え方かもな。 そう思いついたんで、私も釈迦を再考してみるよ。 ありがとう。 また金になりそうだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ニーチェはキリストの神を知らないで、世相の神に対して否定的なんだろうね。 / そもそも勘違いでわめいている。  ☆ たぶん このようだろうねぇ。  あとは すんなりとは把握しにくい。  ゴータマが入って来ると しっかりとした論理で議論したものでないと 有効性に達しないように思う。  ベートーベンの第九の《歓喜》が ディオニュソス的かという問いですよ。  ご回答をありがとう。

その他の回答 (3)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

B様、こんばんは。 『歓喜』していれば、、、「人権を侵害しないでね」 (人権を侵害しない限りで歓喜?)

noname#214841
noname#214841
回答No.3

ぶらげろさんは、反ニーチェでせうけれど、私もひとつ不可解な表現をみつけました。 「わが兄弟たちよ、君たちの胸を張れ、高く!もっと高く!そして脚のことも忘れるな!君たちの脚もあげろ、よい舞踏者よ。」 (ニーチェ『悲劇の誕生』「自己批評の試み」 秋山英夫訳 岩波文庫 23ページ) 「脚もあげろ」といふ文面は誤りで、正しくは「V字開脚だ」とすべきです。 この新版につけられた序文の末尾は、こんな文言です。 「笑うことを、わたしは神聖だと宣言した。君たち、より高い人間よ、私から学べ ― 笑うことを!」」 (同24ページ) このところニーチェを読んで、アポロンとは、ディオニュソスとは、と考へてゐます。ギリシャの神神にはさまざまな性格があり、作品によつても大きく異なります。「笑う」ことの重要性について述べた序文からすると、ディオニュソスとは、アリストパネス『蛙』に登場するディオニュソスを念頭に置いてゐるのではないでせうか。とすれば、対するは、ソポクレス『オイディプス王』で運命を決めてしまふアポロンです。 笑ひによる「赦し」をキーワードにしたギリシャ古典喜劇と、ベートーベンの最後の交響曲との接点は、世界の肯定だと思ひます。運命(恐怖)にしばられない自由な精神でもあり、人間への讃美です。 私は解説書をほとんど読みませんので、専門家がどんな見解を出してゐるのかは知りません。でたらめな意見かもしれませんが、自分ではそんな風に解釈してゐます。

bragelonne
質問者

お礼

 つまり 《解釈》の仕方がわるいと マチガイを侵す。ということでしょうか?  つまり 《恐怖と恍惚感と陶酔》という表現があっても それらはすべて  ★ 笑ひによる「赦し」 / 運命(恐怖)にしばられない自由な精神 / 人間への讃美  ☆ と読めということでしょうか?  ご回答をありがとうございます。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.2

ブラジュロンヌ様こんにちわ ニーチェはあまり存じませんが、神を放擲し自身は性病にかかってやぶれかぶれのなかで恍惚のひととなり狂い死んだと聞いています(まちがいだったら失礼します)ので祭りと酒の狂神ディオにュッソスに親近感を持っていたと考えてもおかしくはありません。 ベートーベンは彼自身人嫌い女嫌い(?)で通しましたがその人生は真の英雄の生涯そのものでした。九番の歓喜の歌もお祭りと快楽の種類の歓喜ではなく、やはりアポロン的荘厳美の人生の勝利の歌ととるべきでしょう。 したがって (か)は否  と思います。私見です。もっと勉強してから回答するべきですが、とりあえず印象評論です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。こんにちは こういちろうさん。  ★ 九番の歓喜の歌もお祭りと快楽の種類の歓喜ではなく、やはりアポロン的荘厳美の人生の勝利の歌ととるべきでしょう。  ☆ これが ふつうの・一般の・みんなの感じではないかと思っていましたし 思っています。  酒神讃歌と訳されるディチュランボスと同じ《歓喜》だなどと ちょっと考えただけでもおかしいと思います。でも 音楽としてやシラーの詩としてにおいて 詳しい方の見解を俟ちたいとも思います。    でも 音楽なのですから《印象》は とうといとも考えます。  みなさんの感想と意見をうかがいたいものです。  つまり もしニーチェはここで〔も〕おかしいとなれば こんな大事な問題がいままでどうして見過ごされてきたのか。理解に苦しむところだとなります。よね。

bragelonne
質問者

補足

 このご回答をBAにえらぶと 見方として出来レースになってしまうかも知れず その点 躊躇したままの姿勢を保ちました。あしからず。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう