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なぜクリスチャンは神を愛さなくてはならないのか?

こんにちは。 キリスト教の勉強をし始めたばかりのものです。 先日,牧師さんとお話しをしたとき「キリスト教とは,神は人間を分け隔てなく愛されているということを信じることです。」という説明を受けました。 しかし,聖書を読むと, 「わたしよりも父や母を愛する者は,わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛するものも,わたしにふさわしくない。」マタイ10:37 とか 「心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くして,あなたの神である主を愛しなさい。」マタイ22:37 とか,とにかく「神を愛すること」を求められているように思えます。 これは牧師さんの説明とどうしても相容れないように私には思えます。 神が本当に私たちを分けへだてなく愛されているなら,私たちが神を愛するかどうかは関係なく愛されていなければおかしいのではないかと思うのですが,なぜこんなことを人間に求められるのでしょうか? どなたか納得のいく説明をお願いできませんでしょうか。 よろしくお願いいたします。

みんなの回答

noname#80116
noname#80116
回答No.10

 聖書は すべて 表現の問題です。  《はじめに ことばがあった。ことばは神とともにいた。ことばは神であった》と聖書記者ヨハネは書きましたが いまたとえば日本語として使っているこの人間のことばが そのまま《神》であるわけがないと考えるのが ふつうでしょう。《神》ということばでさえ 《かみ》そのものであるかと言えば 否です。すべては 譬えであり そのものを代理する表現です。  人間のことばを超えているものを 代理としてのことばによっても表わし 人びとのあいだに意思疎通ができるかに思われることのほうが 不思議です。  人を《愛する》と言えば 経験的なおこないとして 分かる部分もあるでしょうし いや ただ《愛》というだけでは 幅が広く中身も必ずしも人びとに共通のものが理解されるとは限らないという人もいることです。  ましてや 雲をつかむような《神》を愛するとは どういうことを言うのでしょう。人間の分かる部分としてのおこないとして 捉えてそうすればよいのでしょうか。でも 相手は 目に見えていず 概念ですらないというとき どのようにして愛するというのでしょう。概念は やはり いまの神を代理することばであるに過ぎず これを一般に精神が理解すると言っても その人間の精神(魂や心)が 神であるわけでもないはづです。  いったい どうやって愛するのでしょう。  あるいは 逆説的に このように突き詰めていくという作業も ひょっとすると 《心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くして》愛することに通じていると言うべきでしょうか。いやいや そんな生やさしいものではないと言うべきでしょうか。  おそらく わたしの感覚では――とつぜん 結論に飛びますが―― 神を愛することと 人を愛することとは 同じことだと考えます。そのあと さらに わたしたちは 経験を積んでいくのだと考えます。いかがでしょうか。  ちなみに キリスト・イエスの守らなければならない掟は この二つにして一つの愛だけです。ほかは すべて 自由です。たぶん このそれこそ絶対的な自由の上に立って 二つの愛も ある。つまり 自由そのこととして 神を愛し人を自分と同じように愛する これが 伝えられているのだと考えます。  要するに 最後にですが まったく自由に 自分の主観で納得のいくように 確信をもったことがらを おこなうようにして行かれるとよいと思いますが いかがでしょうか。

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  • lati
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.9

キリストの事は知りませんが。 神=真理 だとすると、真理に従えば上手くいくただそれだけではないでしょうか。 人間は情とかあるのでいつ変わるか分からないので信じる事は難しいです、でも真理は永遠に変わる事はないので裏切らない。 真理を知る賢者は信用出来るとは思います。

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  • usijima
  • ベストアンサー率22% (17/74)
回答No.8

神は自分に、はむかった人や国をほろぼしてませんでしたっけ? キリスト教ってとても差別的だったと思いましたが・・ わたしよりも父や母を愛する者は,わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛するものも,わたしにふさわしくない。」マタイ10:37 神は人でも人に理解できる存在でもないので、ここでの私は絶対的な(秩序や本質)と読み替えたほうが一般的です。 またキリスト教の方は聖句を一遍だけ引用する方が多いですが、当然 ご存知のとおり、一遍の言葉なんて文の流れによって意味がぜんぜん変わります。すべてを通読した上での聖句の引用でない限り、まるで意味が変容される恐れがあります。 牧師や宗教者がすべて正しいわけではありません。彼らたちも人間です。すべてを鵜呑みにすることも、彼らがおかしなことを言ったからといって聖書を否定することもよくないことだと思います。 聖書でも述べているとおり、自分と神との関係をきずくことが重要と感じます。(個人的には神は絶対的なものというよみかえをしています) 一番おかしな奴らは聖書でも宗教家でもなく、自分が神に是認された正しい人間だと信じて疑わない狂人。ですから。

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noname#52670
noname#52670
回答No.7

「汝の敵を愛せ。」 「あなたの神である主を愛しなさい」 よって、神は人間の敵である。 神は、罪人である人間と敵対する。 しかし、それでも神は人間を愛する。 よって、人間も神を愛するか、否かを選ぶことになる。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.6

えっと、人類の中で、イスラエル人のみを神が選んだということから信仰は始まったわけですよね。 「私は妬む神である」と聖書に書いてあるように、沢山いる神の中でも、この神だけを崇拝しろと神は自分が選んだ民族に言ったわけです。 要は「他の女に浮気したら承知しないわよ」ってわけです。 ところが、イスラエル人が最も栄華を極めたソロモンの時代。 多神教でした。 おや? 「他の神を崇拝したら承知しないわよ」って言ったはずの神様は、何故か浮気しているソロモンに祝福を与えた。 おかしい。 それで後世の人は、なんとか辻褄を合わせるため、ソロモンには罰を与えず、ソロモンが死んだ後、バビロニアにイスラエルの支配者層の人を捕囚させた って無理な解釈をしたようです。 >わたしよりも父や母を愛する者は,わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛するものも,わたしにふさわしくない。」マタイ10:37 過激な発言ですよね。 えっとですね。 恐らくキリスト教は、ユダヤ教の中のカルトが祖だと思うんですね。 ユダヤ教にはいくつもの派閥があり、どれかが一手に権力を持っているという状態じゃなかったそうです。 ダビデの時代だったかソロモンの時代だったか忘れましたが、大祭司の家系同士で争いがあり、選ばれなかった家系が、砂漠に神殿を作って独自の集団を作り住むようになったんですね。 そこに入るには家族と縁を切るというか、家族を捨てるというか、いわゆる出家するという形態をとっていたようです。 もちろん在家の人もいたようですが、砂漠のその集団に入るときは、財産を共同金庫に預け、2年くらいは穢れを清めるために修行をしなければならなかった。 そこから分離した一派がキリスト教になったのではないかと思います。 恐らくその教団から追放された人々がある場所に住むようになり、後に彼らはナザレアと呼ばれ、彼らの住んでいる場所がナザレと呼ばれるようになった。 追放されただけあって、過激な集団だったようで、ペトロだったと思いますが、参入者の夫婦が全財産を寄付したといって、嘘をついたために、殺した事件があったと思います。 これによってペトロは殺人罪で投獄されたわけですが。 彼らが離脱したと思える集団は、清めの期間があり、その年数の間、預けられたお金に手をつけなかったし、全財産を没収してなどいなかった。 キリスト教に後になった母体から追放されたであろうこのカルトでは全財産を没収し、全財産を捧げなかった人々を殺していたわけです。 みせしめとして。 まあ このように過激なカルトは独身制を主張し、家族と縁を切るように信者に言っていたようです。 オウムと同じ感じですね。 そのような集団だったので、家族や共同体により集団で守り合うことをしていたユダヤ教とは逆の教えをするようになり、家族を捨てて出家することがいいことだ という教えになったのではないかと思います。 で、このように家族を捨てて出家することを方針とするようになった理由は、仏教の影響があったと思えます。 仏教の関連では、母体から離脱した神秘参入者たちが人里はなれた場所に住むことをしており、ナザレアとか呼ばれていたらしいです。 これにちなんで、ユダヤ教でも母体から追放された人々が自分達のことを仏教と同じようにナザレアと自称しており、彼らがだんだん増えてきて町ができて、その町がナザレと後に呼ばれるようになった。 これで旧約に何故ナザレの町が出てこないのか謎が解けたわけです。 旧約が書かれた時代にはナザレなんて町はなく、キリスト教に後になる集団が移り住んで町が、紀元後にナザレと呼ばれるようになったから。 >神が本当に私たちを分けへだてなく愛されているなら いえ、この神はイスラエル人のみを選んでいますので、分け隔てしてます。 この神を崇拝したのが、イスラエル人だったので、自分に忠実な人のみ祝福を与えるって考えが、この神の思想。 >私たちが神を愛するかどうかは関係なく愛されていなければおかしいのではないかと思うのですが,なぜこんなことを人間に求められるのでしょうか? いえ、人間が神をどうするかに関係なく、一方的に神は独断で誰に祝福を与えるか決めるってのが、この神の特徴とされています。 良い行いをしたから神に愛されて当然 というのは間違い。 神の義は人間ではわからないとされており、人間が神に愛されるだろうと思って自分の義に添ってやったとしても、それはあくまで人間から見た義であり、神の義と違う可能性もあるわけです。 もし、人間の義と神の義が同じなら、預言者がつぎつぎ迫害されるがままってありえないですよね? ヨブなど、いい行いをしていると全員が言っているのに、さんざんな目に神はあわせましたよね? で、とうとうヨブは神に噛み付いたわけですよね。 「じょーだんじゃない」と。 神の答えは「お前は恐れ多くも誰のものを言っているのだ。お前は何様のつもりだ 神にものいえる立場か? え? どうなんだ! ゴラー」って怒りましたよね。 このように神が誰に祝福を与えるかは神の勝手となっております。 例えば、バラバイエスに祝福を与えたければ祝福を与えるってわけです。 一応バラバは殺人罪で起訴されていたと思います。 神の父って意味だったと思います。 で、神は殺人罪で起訴され拘留されていた神の父を開放し、イエスを処刑した。 ヨブを見てもイエスを見ても、一方的ですよね? 人間の行動次第じゃあない。 従って「神を愛せよ」じゃなく「神を恐れよ」が正解。

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  • pojipoji
  • ベストアンサー率32% (53/161)
回答No.5

引用『ヨブへの答え』C.Gユング 林道義訳 みすず書房  「もしわれわれがヤーヴェの非道徳についてここで初めて知ったというのであれば、ヨブの神認識を前にしてもっと驚かされたことであろう。しかしヤーヴェの予想もつかない気紛れや破壊的な怒りの発作は昔から有名であった。彼は嫉妬深い道徳の番人として知られ、とくに義に対しては敏感であった。それゆえ彼はつねに「義なり」と称賛されなければならなかった。その点では彼に不満はなかったようである。こうした状況ないし性質からみて、彼の独特な人格は古代の王にそっくりであって、ただそのスケールが違うだけである。彼は嫉妬深く敏感なために、人の不実な心と密かな思いとを不信の目で探り出そうとするので、彼と人間との関係はどうしても人格的なものとならざるをえず、人間は彼から人格的に呼びかけられていると感じるほかはなかった。」P18  「これを人間に対して言うとすれば、次のような言い方になるであろう。「さあ、ここらで気持ちを鎮めなさい、意味もなく怒っていてもしかたがないだろう。君ともあろうものが、苗がよく育とうとしないのは自分のせいなのに、それをそんなに怒るなんて、本当におかしいよ。君も以前は分別があって、自分が作っている庭園を踏み躙ったりしないで、きちんと世話をすることができたじゃないか。」  この抗弁者は全能の相手を契約違反のかどで責めるなどということは考えてもみない。彼は自分のほうが哀れな違反者であれば何を言われるか分かっている。彼は理性の高みに退くよりない。さもないと命が危険になるであろう。しかしそれによって彼は、自分では気づかないしそのつもりもないのに、相手の神より知的にも道徳的にもほんの少し上に立ったことになる。ヤーヴェは自分が「あしらわれて」いることに気づかないし、ましてや自分がなぜ絶えず正しいと称賛されねばならないか理解できない。彼は彼の民にありとあらゆる形で「称賛し」機嫌をとるようにしきりに要求するが、その目的は明らかに自分が何をおいても機嫌よくしていたいからである。  以上の考察から[ヤーヴェの]性格を判断すると、それは客体によってしか自分の存在感をもてない人格に相当することが分かる。主体が自己反省をせず、したがって自分自身への洞察を持たないときには、客体への依存は絶対である。主体は自分が存在していることを確信させてくれるような客体を持っていることによってのみ存在できるかのように見える。ヤーヴェがもし本当に自分のことが分かっている―少なくとも物の分かった人間ならそうなるはずである―ならば、かれは実際のありようを考えて彼の義への称賛を止めさせたはずである。」P21‐22 著者は「私は神学者として書くのではなく(私は神学者ではない)、素人として、また多くの人々のこころの生活に深く入り込むことを許されている医師として書」いたと序文のなかで述べています。 心理分析家の独創的な見解ではありますが、「義」の変わりに「愛」を入れて読んでみれば参考になるのではないかと考えます。

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  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.4

>神が本当に私たちを分けへだてなく愛されているなら,私たちが神を愛するかどうかは関係なく愛されていなければおかしいのではないかと思うのですが,なぜこんなことを人間に求められるのでしょうか? 神は善人の上にも悪人の上にも雨を降らせると申します。 あなたが神を愛そうが愛すまいが、神はあなたを愛している。 ここまでは理屈通りです。 さて、では神が愛してくれて、そして与えてくれためぐみに、私たちはどのようにこたえたらよいだろうか。 こう展開していくと、どうしても神に応えること、神が愛してくださったように神を愛すること、そして隣人を愛すること、につながってくると思います。

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回答No.3

えーと、とりあえず、 その牧師先生に聞いてみるのが一番じゃないでしょうか。 たぶん、以下のような答えが返ってくると思いますよ。 マタイ10:37の句で「わたし」とはイエス・キリストのことですから、 キリストの弟子になるのに「ふさわしくない」ということでしょう。 家族の反対を押し切って教会生活(信仰生活)を続けている人は、 結構いると思いますよ。 マタイ22:37の句は旧約聖書の引用ですが、 「律法の中でどれが一番大切か」という質問に対する答えです。 当時のユダヤ人、特に「ファリサイ派」と呼ばれる人たちの中で、 律法の専門家とされる一部の人たちは、「神を愛する」という、 律法の中でもっとも大切な、本質的なことを忘れて、「安息日には ~してはならない」といった掟を守ることばかり重視していました。 キリストはこれを批判した上で、「隣人を自分のように愛しなさい」 ということを強調されました。つまり、 1.まずは自分を愛する 2.他人と喜びや悲しみを分かち合う   (よきサマリヤ人のように)   人の痛みや苦しみを自分の痛みや苦しみとする 3.1や2ができなくても、神様がまず私たちを愛して下さったこと   を信じる。愛されるに値しないと思える人でも、キリストの弟子   にふさわしくないような人でも、許し、受け入れ、愛して下さる   のが神様です。 仮に、神様が本当に私たちを分け隔てなく愛していると思えなくても、 それでも私たちは神様を愛さなくてはなりません。それが愛の掟です。 でも、私たちが神様を愛さないとしても(そして実際愛よりも憎しみ を抱くことの方が多いのですが)、神様は私たちを愛しておられます。 それに、罪を許された者はみな、神を愛さずにはいられないのです。 あなたが自分の罪に気づき、悔い改めた時、神を愛する喜びを知り、 本当に人を愛するということがどういうことか分かるはずです。 こんな感じです。 どの教派の牧師先生もだいたい似たようなことを言われると思います。

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  • kappa1zoku
  • ベストアンサー率29% (334/1137)
回答No.2

あの~、僕は親鸞信者ですから回答者としては不適格なのですが、宗教の根本は<信>だと思っています。 こうだからこの宗教は正しいという論理展開はありえないのです。 キリスト教は基本的には契約宗教だと思います。神と契約を交わすことが信者になるということです。 たとえて言えば、大きな農場で8時間労働をするものと、午後からやってきて4時間労働するもの、あるいは夕暮れ時にやってきて1時間しか労働しなかった者、それらすべての人に同じ賃金を支払うという考え方です。 死に間際に信者になるのもOKなのです。 でもあくまで神様と契約をしなければなりません。 私はあなたを信じますと。 もちろん、僕も親鸞の教えを信じていますが、契約ではありません。 阿弥陀様が煩悩に燃える自分を哀れに思って救ってくださるだろうと信じているからです。絶対他力という考え方です。 あなたの質問にうまく答えれなくてごめんなさい。悩むことが理解の一番早い近道だと思います。

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回答No.1

宗教は信じることです。 信じるとは理屈や論理を超えることです。 宗教は心や魂の問題であって、知能の問題ではありません。 科学や論理で見れば、キリスト教は間違っているところが いっぱいあります。 あなたは異性を好きになるときに、相手についての情報を 集めて自分にふさわしいか分析してから好きになるでしょうか。 神は愛です。愛なくして神を思うことはできません。

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    集団的自衛権行使について、キリストの子である方は、どのような意見をお持ちですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~マタイ5章38節ー42節 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、あなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 『国を護る』ことと、『国民を護る』ことは違う意味を持つと思います。 国を護るために、国民の命を差し出すことが善いこととは思えません。 国よりも人間の命が尊いと思うからです。 何か問題があって武力行使されたら、こちら側が武力を行使して、何が生まれるのでしょうか。 もし仮に、究極的なことですが、 神様の御心ならば、この国を侵略されても、武力を行使するくらいでしたら、離散することも、甘んじて受けます。 イスラエルも離散しましたが、悔い改めによって再建国されました。 神様が日本を『悔い改めなければならない』とお思いでしたら、御心に従います。 武力行使によって生まれるものは、『恨み、妬み、のろい、死』と思います。 クリスチャンの皆様は、どのような意見をお持ちですか?教えてください。

  • 神は信じるものではなく、感じるものである

      古来より神は信じるためのものとして人間によって作られた。 しかしいつの頃からか、人はこの神を信じさせようとするようになった。 信じるための神はこれを信じさせるために多くの人の命を要求した。 そのため世界各地で争いが起き、戦争が起き、多くの命が失われた。 それは今現在も同じである。 日本などはキリスト教国家によって2度も原爆を投下された。 ベトナムではこのキリスト教国家によって大量の枯葉剤が撒かれ多くの奇形児が生まれた。 また信じるための神イエス・キリストは多くの奇跡を用いた。 その結果この奇跡を求めて数限りないカルトが生まれた。 このようなカルトによって地下鉄でサリンが撒かれたりもした。   さらに聖書とキリスト教など信じるための神は終末思想を説いた。 この終末思想によって世界の倫理観は大きく傷つけられた。 結局のところ、信じるための神は多くの災いをもたらし、何一つ良いことはもたらさなかった。 信じるための神とこれを支える聖書とキリスト教および神学は偽りであることが分かってきた。 今や信じるための神は信じる必要はなくなった。 神は我々人間から隔たっているものではなく、常に接しているもの、信じる必要はないもの、感じることが出来るものでなければならない。 そしてその神が完全無欠であり、永遠不変であり、永遠不滅であり、永遠無限であるならば、それは唯一絶対なるもの宇宙の法則以外には有り得ない。 宇宙の法則を除いて如何なる神も存在しない。 これで良いのではないか。  

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 宗教は必要か?

    自分は生まれてもの心つかないうちに、創価学会に強制入会されていました。それは両親が創価学会員だったからです。 自分は親離れする年齢になって聖書を読み、創造主は存在するのではないかと思うようになりました。それで自分の意思でキリスト教を信じるようになりました。 ですが教会の牧師の聖書観と自分の聖書観は違っていました。自分は牧師が聖書を商売の道具にしていることに気づきました。その後、自分は牧師等とトラブルを起こし教会から去りました。 聖書によって人々をマインド・コントロールし、商売に利用できることを知り、聖書そのものに問題を感じるようになりました。 イエス・キリストの言葉に「敵を愛し迫害する者の為に祈れ」とあります。敵とは悪魔のことだとも言えます。これは神と悪魔の区別をなくすようにと言っていることでもあります。この言葉に自分は感銘を受けています。 イエス・キリストは尊敬できるのですが、自分はキリスト教会にもどる気にはなりません。今自分は創価学会の人からもどるように誘いを受けてますが、どうしたらいいでしょうか?

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