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なぜクリスチャンは神を愛さなくてはならないのか?

kappa1zokuの回答

  • kappa1zoku
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回答No.2

あの~、僕は親鸞信者ですから回答者としては不適格なのですが、宗教の根本は<信>だと思っています。 こうだからこの宗教は正しいという論理展開はありえないのです。 キリスト教は基本的には契約宗教だと思います。神と契約を交わすことが信者になるということです。 たとえて言えば、大きな農場で8時間労働をするものと、午後からやってきて4時間労働するもの、あるいは夕暮れ時にやってきて1時間しか労働しなかった者、それらすべての人に同じ賃金を支払うという考え方です。 死に間際に信者になるのもOKなのです。 でもあくまで神様と契約をしなければなりません。 私はあなたを信じますと。 もちろん、僕も親鸞の教えを信じていますが、契約ではありません。 阿弥陀様が煩悩に燃える自分を哀れに思って救ってくださるだろうと信じているからです。絶対他力という考え方です。 あなたの質問にうまく答えれなくてごめんなさい。悩むことが理解の一番早い近道だと思います。

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