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なぜクリスチャンは神を愛さなくてはならないのか?

noname#96295の回答

noname#96295
noname#96295
回答No.30

50を超えたナンバーに書くのは初めてだな。 質問については、 質問者さんがこの世で受けた器でもって向き合うことだと思ったので、関わるつもりはなかったのです。 でも、考えがかわった。 伝統宗教にかぎっていえば、何の宗教でも同じだが、 伝書も教義もイニシエーションも、字面のまま、書物のまま、読もうとしていると、 それらが体験とおなじ位相にあるのだと考えがちになる。 体験と同じ位相 というのは、いま私たちが読む読み物のほとんどが、依って立っているところです。 知らない人が多いのかもしれないが、 中世になる前までの 書きもの、伝えものというのは、違う。 たくさんの矛盾があり、玉虫色の比喩があり、意味を追うものではなかった。 説法は尊者の口から、詩は詩人の口から、値踏みは商人の口から、物語は道化者の口から。 そのことに価値がある。どれも内容に真実があるのではなく、内容の外に信用があるのでした。 ちょうど、捨身飼虎の質問も、他の方から前後して出ていた。 血が流れること、肉を捨てることは、どのような宗教においても死を意味する。 血と肉はだれからもらったものか。親からもらい、子へ与えるのか。 それならば、サクリファイスというものは存在しない。 一人の血が流れた時、それは万人の血が流れたものとする。 それでも、サクリファイスというものは存在しない。 一人の血が流れた時、それは分けた神の血が流れたものとする。 尊い神の血であるので、自ら流してはいけないが、 尊い神の血をたすけるために自ら流すならば、サクリファイスとなる。 けっして人道的な論理に従うものではない。 契約した者たちにこの血がながれているという宗教と、 万人にこの血が流れているという宗教がある。 同じ民族にのみこの血が流れているという宗教もある。 肉は、親からもらう。肉は一つきりなので大切にするが、礼讃はしない。 現代なら、肉だって遠い祖先からの情報と記憶の宝庫だと、わたしたちは知っている。 けれども、歴史はながいあいだ、血を礼賛してきた。血が命のもとだと思っていた。 血が、遠い祖先から一人の人間に注がれ、長い情報と記憶を子へつなぐ。 親や子のために血を流すな、神のために流せ、それは親や子の中にある神のためである、てことさ。 遠い祖先や遠い子孫のことを考えて彼らを愛しなさい、親への愛や子への愛に縛られて自分を見失うことがあるならば、 自分の血と肉が負ったたいせつな媒介の役目を尊び、自分のなかの神を愛しなさい、てことさ。 平和なら、これはいいね。 民族戦争や宗教戦争の根拠になったり、選民思想や血の優生学になったりしなければね。。。 宗教のなかの文字におどらされるような人間は、たぶん、 生きることを知らないで薄い言葉だけ知っているような人間だよ。 昔の人の言葉をね、知らないんだ。

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