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集団誤認する事象について
下記例のように、集団で誤認する事象が世の中に沢山あると思います。 1.http://www.i-mezzo.net/log/2004/09/20122313.html http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=373775 アニメ映画「天空の城 ラピュタ」のエンディングで、 「パズーがシータをゴンドアの家まで送るシーン」(実際にはそのようなシーンは無い)を見た という人が多数出ており、はっきりと見た、と言っているような事象。 2.「建国記念の日」が正しいのに、いつの間にか「建国記念日」と覚えてしまい、更には誤認している方の言葉を正しいと集団で信じきってしまっている事象。 どのような条件の時にこうした集団での誤認が発生するのか、どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、御教授頂きたく。 変な質問で大変恐縮ですが、宜しくお願い致します。
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1.んー実は私も見た派なんでw ただ細かいところまで覚えているわけでもないし、真のエンディングとして受け取っていたわけでもなく、単にタイトルロールに静止画が被っていたというのを覚えているだけですが。 ですので自分の中ではこちらのサイト http://uso8oo.com/select/20070804.html の解説(TVでの放送時にエンディングというかタイトルコールの部分だけオリジナル板が流された)で納得している話でして。 これが元になっており、記憶を美化したり、混同したりというようなことがあっただけでしょう(さらにインターネットの世界だと補強もしやすくなるし。またノリや釣りでやってるだけの人もいてるでしょうし)。 エンディングで後日談を流すという手法は例えば同じ宮崎アニメでもナウシカがそうでしたが、良く行われることですから、その辺から勘違いが発生したのではないかなと。記憶の改変が起きた人はおそらく相当思い入れを持っていたり、作品中に印象に残るキーワードがあったりというのがあるのではと思います。 その辺の話は参考URLにもリンクがはられていますが、こちらのページで分析されている通りで、願望が根底にあると思います。またその願望を刺激できるほどの印象力の強い作品でもあったということ。 http://park3.wakwak.com/~romulus/kiwame/gase.html ただ「集団で誤認する」という表現だと、ユング的な集合的無意識を思い浮かべてしまいますが、このケースは例えは悪いですが、マスコミの演出に踊らされる人という構図に近いかと思います。分かりやすい悪人だったり、事件だったり、実際はそんな単純なものでもないのに、編集を繋げたり適当な音楽や演出をつければ多数の人に対して意図通りの印象を残せるというようなことです。 2.これは集団誤認というよりは言葉の進化というか変化でしょう。特に言葉は省略する形に変化していくというのは金田一先生も述べておられます。「ら」抜き言葉と原理は一緒です。別に誤認して「ら」を抜いているわけではありません。「の」がついているかついていないか程度のことは、誤認しているかどうかという問題ではなく、コダワリを持つ人は頑固だったり生真面目だったり保守的な心情の持ち主かどうかだけとしか私は思いません。 言葉は進化(変化)するという話で言えば例えば「全然」+肯定語のような使い方は良くないという指摘もありますが、元々明治までは「全然おいしい」というような表現も使われていました。これが今では文法的にはダメといわれたりしていますが、辞書には全然OKですとされていたり、最近では若者は普通に使っています。 参考 こちらの掲示板では全然OKはよくないという意見が多数 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q141159664 辞書では全然OK http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/3578/2003/zenzen.htm
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少しずれるかも知れませんが、いわゆる常識の中には正に集団誤認といわれるものがあるように思います。例えば昔円が1ドル360円と規定されていた時、多くの日本人はこのレートは屈辱的だから1ドル1円にすべきであるというような説を信じていたと思います。また常識とは言いにくいですが栄養に関する俗説の中にはマスコミであおられて怪しげなものが信じられてしまうというような現象があります。マスコミの責任が大きいとも思います。もうひとつは小学校ぐらいの初等教育の影響も大きいと思います。
お礼
成る程。ANO.1の御礼に書いたような(1)潮流(2)引き金(3)上書きという私の三段論法(恥)に当てはめると、誤認意識の土台となる(1)集団意識の潮流を形成する上で、 ・既存の集団の感情 ・既存の集団のプライド ・広報・広告・周知による意識の形成(これは(2)引き金に近い) ※昔はプロバガンダ機関、現在はマスコミが該当しますかね。 ・教育による意識の形成 が誤認の要素である、というように解釈致しました。 余談ですが、ネット上では、上記の広報・広告・周知による意識の形成について警戒・着目する人が多いようです。
雰囲気流動性に飲み込まれやすい人ではないでしょうか? もう少し詳しく言うと状況という情報を入力するさい感情性を 刺激し幸福的感覚に至るときに「AはBである」「AはB的であろう」 などのマクロ的な見方をしてしまい事実性がある程度歪んで 他者認識の段階で同じような現象を体験なりされていればその人の 言葉が暗示内容の強化につながるという仕組みです。 想像してみてくださいこの世の中の皆が今日は「12月24日だよ」と 12月23日に言っていたらそうかな?と思ってしまうのではないでしょ うか?しかしこれが真夏の7月30日に言われたら「え?」となるので はないでしょうか?
お礼
成る程。集団誤認の原因は作品鑑賞だけではなく、第三者の噂による暗示強化が働いて、集団誤認が発生した、と言う事ですね。 確かに、ラピュタの件と建国記念日の件については、そうした引き金も働いているように見えます。 貴重なご意見を頂き、ありがとうございました!
お礼
1.現在ある作品のみで集団的な幻惑を起こさせていたら面白かったのですが、やはりキーとなるものがありましたか。 ラピュタの現象で面白いのは、まばらな事後認識とは言え、ある程度絞り込まれたパターンに誤認識が集中している事にあります。 紹介して頂いたページを拝見させて頂きましたが、これが実際にあったとすると、ある方向性へ引っ張る為のキー(鍵)が集団誤認識の前提に含められており、これがトリガ(引き金)となって誤認識を発生させた、と考えるのがベターでしょうか。 それと願望による記憶の上書きと思わしきものが見られるのも面白いと思っております。 こんな事を言うとマズいのかもしれませんが、私としては、上記のようなキーやトリガ無しにユングで言う集合的無意識が一方向性に働くと一番面白い展開になるのではと思っていましたが(人類の相対的な意識としての運命がDNAレベルで決まっている)、何かしらキーやトリガが必要と解釈すべきでしょうかね。いずれにせよ、究極的に人類の意識が画一的な方向に向いているのであれば戦争やいざこざは起きない訳で、ある程度の意識のうねり(抽象的集団意識の潮流というのでしょうか)にキー・トリガの提示(具体的な情報の提示)をすれば、ある程度集団的な誤認識を誘導・発生させられそうですね。 まとめると、(1).抽象的集団意識の潮流に(2).具体的な情報の提示(3).記憶の上書きとなり、ラピュタの場合は(1).パズーがシータの家に迎えに行って欲しい、という願望が作品を鑑賞する事によって発生(2).エンディング、もしくは印象的シーンでの私的解釈(3).記憶の上書きという形で私の考えが収まりそうです。 popesyuさんが仰られているマスコミによる認識誘導ですが、上記に当てはめてみると、集団意識の潮流の方向性は昔であればかなりの程度で誘導できたでしょうが、これから情報取得の割合がインターネットのパイが大きくなる事によって、キー・トリガの提示しかできないのでは? というのが私の見解です。 また、個人的な意見を申し上げますと、実際私がこんな事をされたら本当に困りますので、集団的誤認識の渦に巻き込まれないようにするには、どうすれば良いかもちょっと思案中です。 回答ありがとうございました!
補足
2.「建国記念日」について質問後に少し考えたのですが、記憶の整理整頓が行われたのでこうした認識を引き起こすのでは、と。 仮に人間全てにそういった能力が備わっているとすると、ちょっと面白いですよね。