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宗教は政治にどこまで関与出来るのか

  私は浄土真宗の門徒です。先日当宗主催の[ 平和のつどい( 副題全戦争犠牲者をしのんで )」という行事に参加しました。その時の講演で講師の方が、「 仏教徒(真宗門徒)として仏教的(真宗的)立場から政治的主張・行動をする 」ことは正しいという旨を述べられました。その方は当宗教学研究所に以前所属され、言わば真宗教学の現代のトップクラスです。   私は800年昔の親鸞聖人の時代のように、日本人だけのことで思いを巡らしている時代には、それでも済むと思いますが、現代のように キリスト教国、イスラム教国等、はては社会主義国(なのかどうか?) など基本的な価値観の違いが国内外(門徒内)に影響している現在、教団内に政治的主張を持ち込むべきでは無いと思います。   特に真宗は戦争に積極的に協力した過去の事実を深く反省しているため、戦前の国と教団の在り様を全否定しつつ、現代の政治の在り様も 悉く否定しています。   私は真宗の教えは一人のものと心得ています。同じ様に政治的意見も一人のものと思います。真宗の受けとめ方が一人一人違うように、政治的意見や立場も一人一人違って当然と思います。   出来るだけ冷静な文章にしようと勤めたため、大変抽象的な文章になってしまいました。皆さんのご意見をお聞きしたいと思っています。特に真宗門徒の方のご意見をお待ちしております。

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  • Roman0
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回答No.2

 私は神道の徒ではあっても仏教徒ではないのですが、回答。  「政治」という単語で考えると、答えは出ません。  政治には、富の再配分だのインフラ構築だのという、生活レベルの話もあれば、外交や戦争という国家でなければ手を出せないレベルの話まで含む広い概念です。  宗教が絡んでおかしな話にならない可能性のある領域は、生活レベルの話ですね。これは、宗教も政治も慣習という概念に基本的には従わざるを得ない領域だからです。    が、外交や戦争の話に宗教が首をつっこんでも、いいことなどありません。外交や戦争とは目的合理性と妥協が必須ですが、宗教はそれを放棄することが本質ですから、国家として取るべき選択肢を誤らせる力にしかなりません。  そういう区分を、きちんと付けましょう。  参考までに、「政教分離」という概念についてもちょっと触れておきましょう。  勘違いしていたり曲解している人が多いのですが、これは政治と宗教を分けるという意味ではありません。そもそも、政治には生活レベルの慣習を相手にする面があり、慣習から宗教を切り離すことはできないからです。  「政教分離」とは、特定宗教の信者であることをもって政治的差別をされるような制度を、国家は作ってはならないという程度の意味です。具体的には、例えばアメリカはプロテスタントの国ですが、だからと言ってカトリックである故に差別したり迫害しということは、アメリカ政府はやりません、という意味です。  この点、もし認識を誤っていたら、正しましょう。

takajizou
質問者

お礼

 「宗教が絡んでおかしな話にならない可能性のある領域は、生活レベルの話ですね。これは、宗教も政治も慣習という概念に基本的には従わざるを得ない領域だからです。」    「外交や戦争とは目的合理性と妥協が必須ですが、宗教はそれを放棄することが本質ですから、国家として取るべき選択肢を誤らせる力にしかなりません。」   上記2点は大変参考になりました。私は宗教が社会のシステムに関与すべきは、具体的にはマザーテレサの行為までだと思っています。   ありがとうございました。

その他の回答 (8)

回答No.9

<仏教徒(真宗門徒)として仏教的(真宗的)立場から政治的主張・行動をする 当たり前のことで、何の問題もないと思いますよ。 逆に、そんなことを殊更に言うから、変に誤解を生んだり勘ぐられたりして不審に思われるのだと思います。 この言葉を語った人は、何も、世の中を真宗化しようなどと思って発言したわけではないでしょう。 歎異抄4章にある「人間の善行は末通らない善、つまり不完全な善行だ」という教説から、真宗教団内に、政治や社会に積極的に関わることをためらう空気があり、そういうことに反発した発言なのでしょう。 自分の政治的意見を主張し、政治的行動を起こすことは誰にも認められているわけだし、その人がある特定の宗教を信じていて、その理念から発せられる発言や行動だからといってそれが制限されるということはありません。 そんなことがまかり通ったら、それこそ憲法違反です。 強いて言えば、「政治的社会的に行動しないような者は真宗門徒とは言えない」などとその人がいうのであれば、それは問題です。 もっともそれは、浄土真宗の教団内の問題ですが。

takajizou
質問者

補足

 先ず、タイトルをご覧になればお判りと思いますが、講師の方を含め真宗門徒が政治的主張・行動をすることを否定しているのではありません。教団の公式な行事の中で、影響力の大きい立場の方が主張・行動されることを疑問に思っているわけです。こんなことを「殊更に言うと、変に誤解を生んだり勘ぐられたりして不審に思われる」のでしょうか。  政治的立場や意見は同じ門徒でも様々です。昨今の「憲法9条」や「靖国」などをめぐる議論は、どちら側の意見であれ平和や国の安寧を望んでのことであり、充分論を尽くす事が大切だと思います。そして、宗教はその論の主体となる個人の哲学を磨く場でありたいと思っています。

  • chokmah
  • ベストアンサー率30% (11/36)
回答No.8

>私は真宗の教えは一人のものと心得ています。 すばらしいと思います。 昨今の信者は闇雲に教団の教えに従い、自分で考えることをしなくなった者が多い。 そして自分の意見を表明する際は神の名を借りて言う。 人の弱さと醜さの表れのように思えてしまう。 5大宗教であるキリスト教も仏教も、今では多くの派閥にわかれ書物の内容も原初に作られたものからは程遠い内容に改ざんされてしまった。 しかし、それ以前に実際はイエスも釈迦も、経典となるようなものは作るな(特に釈迦)、と言っていました。 そして、その教えは、神は自らの内に存在するものである、ということを両者とも言っていました。 話がそれましたが、ローマのキリスト教のように、当初政治が宗教を利用し国政をひいたのです。 そのおかげで逆に、キリスト教も一気に拡大することとなりました。 (ちなみに私の家は浄土真宗らしいです。 死んだときに必要だから宗派書け、と上司に言われ、親に聞いたら判明しました。) 国家で宗教を持っていることは、感情抜きに「それは何か」と分析すれば「求心力」です。 宗教とは本来一人一人に、内面の平和をもたらすべきもの。 しかし実際は国民を束ねるのに扱いやすい「求心力」として利用しています。 その求心力は芸術などのすばらしい遺産も遺しましたが、宗教戦争などという血塗られた歴史をも残しました。 そしてその宗教に属した人間は本当に心の平安を得られたか。 平安を得られた人もいるでしょう。 しかし、自己を失ってしまった(すべて神のせいにし自分で考えることをしなくなった)人のほうが多い。 宗教はある一定のレベルまで人間を統制し教育を施すことができる。 しかし、それが完了したならば卒業させ自分の意思で未来を切り開いていかせなければならない。 でなければ人間の成長を阻害するものであり、だからこそ今まで平和な世界が訪れたためしがない。 >言わば真宗教学の現代のトップクラスです。 この時点ですでに、、階級のようなものをしいている時点ですでに、人間一人一人を救おうという意思ではなく、政治に組したいという社会欲が表現されています。 かつて、その霊性から存在を見出され「星の教団」のトップに持ち上げられたクリシュナムルティは、真理とは組織によってもたらされるものではなく、一人一人がそれに近づけるように努力すべきものだ、として星の教団を解散しました。 私も、真理とは誰かから与えられるものでなく、自分の目でこの世界を見て、自分の手でこの世界に触れ、自分の足で必死に歩み、そうした一生懸命この世界で生きようとする行為の中で、魂の琴線に触れいるもの、それが真理だと思います。 >「 仏教徒(真宗門徒)として仏教的(真宗的)立場から政治的主張・行動をする 」ことは正しい そうではなく、今の政治に不満を持っているならば、信州門徒幹部という肩書きを脱ぎ、政治の世界に足を踏み入ればよいのではないか、と思います。 そうでなければ、真宗門徒を率いる数の力をもって政治の世界を支配することであり、真宗門徒皆さんを数の力として利用しているにすぎないのですから。

takajizou
質問者

お礼

 「真理とは組織によってもたらされるものではなく、一人一人がそれに近づけるように努力すべきものだ、として星の教団を解散しました。」   実は真宗の開祖親鸞聖人も教団を作ってはならないとおっしゃっています。ところが今は真宗が日本最大の教団です。聖人の「教団を作らず」の意図はクリシュナムルティと通ずるところがあります。

  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.7

霊界を体験され、人間の実体、世界の実体を知っている宗教家であれば、「この世は仮の世」ってことを知っていると思います。ですので、「この世の権力なんて欲しくもない」「所属する宗派への執着も、日本への執着も無い」ってことになると思います。 でも、仮の世とはいえ、現時点では、肉体を持って数十年も生活していれば、まったくこだわりがゼロかといえば、そうではないというのが本当でしょうね。 それで、自分や家族の幸福、同じ国に生きる多くの人々の幸福のためなら、全く無欲の宗教家でも「政治に口だすしかないかな・・。難問山積なのに、まともな解決策、アイデア出せずに、どうでもいいことを国会で議論して、重要な問題は無視されたままだから。」という判断もあると思います。 しかしながら、宗教家本来の仕事は「魂の救済」であって、現世の利権調整ではありません。この世のことにかかわれば、たぶん際限なく相談事が持ち込まれるでしょうから。 なので、今の日本なら、あまり表に出ないで、総理とか、各政党党首の「相談役」的なスタンスで間接的に政治に影響を与えるってレベルがいいように思われます。(政教分離の原則もあるでしょうし) ただ、国民が求めてくるなら、「国教」になって、さらに政治に関与してもいいかもしれませんね。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.6

本来、宗教は大まかな平和や民主主義、人権など言う考えだけを反映するように促すべきでしょう。 でも、世界中で宗教が政治に影響していない国はあるのでしょうか? 例えばアメリカではプロテスタントの穏健派を原理主義的な強硬派のバランスで国の姿勢が変わっています。 ブッシュ政権設立時には原理主義的な派閥が多数を占めていました。現在では穏健派が巻き返しており、政治の動向と呼応しています。 比較的宗教的圧力が少ないとされているヨーロッパ、特にフランスなどでも、果たして皆無とは言いがたいのではないでしょうか。 ミャンマーなどを見ると、やはり宗教は最後の砦として民衆が支持をし、軍事政権も手が出せませんでしたが、いよいよとなればまるで信長のように、一気に弾圧に変わります。 逆にこれを手本とするならば、平時にあっては政治に関わらず、平和と民主主義、人権だけを政策に対して主張し、これらが弾圧される時には大きな力となる姿勢が良いのではないかと思います。

takajizou
質問者

補足

  「平時にあっては政治に関わらず、平和と民主主義、人権だけを政策に対して主張し、これらが弾圧される時には大きな力となる姿勢が良いのではないかと思います。」   私は政治的主張は教団とし行うのではなく、個人の立場で、主導する組織に合流して行うべきではないかと思います。ミャンマーには民衆を指導する組織が宗教者集団しかないと聞いており、やむをえないと思いますが、日本では好ましくないと思います。

  • 63ma
  • ベストアンサー率20% (265/1321)
回答No.4

憲法第20条に政教分離の規定がありますが、このご質問ですと自ら政教分離の原則を蔑ろにする様に思えます。

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.3

 『信じる』というところに全ての根源を置く「宗教心」は、宗派に属するか単なる個人的な心情として存在するかを問わず、人間個人にとって必要なものと思います。  同じように、人間が集団で生活する以上、リーダーの元にみんながまとまって行動する「政治」は必要不可欠と考えます。    現在のように人間集団が巨大化し、一度間違った方向に進むと取り返しが付かない社会となってしまった現状では、リーダーを『信じない』ことを前提にした民主主義(その基本は、リーダーの独走を規制し、簡単に排除することの出来るシステムが組み込まれていることです。)が、先進国では機能しています。  民主主義は、今まで歴史上で行われてきた政治システムの中では、一番ましなもの(欠点自体は多いが、政治が暴走する可能性は、今までの政治システムの中で一番小さい。)と思っています。  詰まるところ、  「宗教」は『信じる』ことからスタートするのに対し、民主主義という「政治」システムは、『信じない』ことからスタートしています。  ですから、民主主義に宗教を持ち込むと機能不全に陥ります。  民主主義でない政治体制ならば、もちろん宗教との両立は可能です。 例えば国王と宗教指導者が同一なら、国民の力を結集した効率の良い国家を作ることも夢ではありません。国会議員の選挙費用や大勢の議員を養う必要もなく、宗教による互助を中心にすえれば、福祉費用や治安維持費用も大幅に安くなります。(人口が多くなると、国家機関もそれなりに必要となり、機能させるのが難しくなるかもしれません。)  このような効率の良さと、一度間違った方向へ行きだすと止まらないことの両方を比較したうえで、人口の多くなったこともあって、現在では民主主義が主流となっています。

takajizou
質問者

お礼

{「宗教」は『信じる』ことからスタートするのに対し、民主主義という「政治」システムは、『信じない』ことからスタートしています。  ですから、民主主義に宗教を持ち込むと機能不全に陥ります。}   同感です。現実に国政レベルでも好例がありますね。私たちの教団も集票マシンにならないよう気をつけたいです。

noname#160785
noname#160785
回答No.1

まず、私は真宗門徒ではありません。 特定の宗教を信じている者でもありません。 ただ、影響を受けた宗教はあります。 小~高校まである宗教系の学校に通っていたので。 また、私は高校では世界史を選択して、大学では政治を専攻しておりましたので、この立場からの意見になります。 世界史、政治の分野では、ご存知かと思いますが、『政教分離』という原則があります。 政治は宗教に介入すべきではない。 また、宗教は政治に介入すべきではない、という考え方です。 歴史的に見て、宗教が絡んだ戦争が絶えないからです。 今現在でもそういった図式があるのが思い当たるかと思います。 同一宗教の宗派間の対立や、キリスト教対イスラム教といった異なる宗教の図式などです。 私は高校の時、世界史の中で宗教を理由にした戦争や戦いがあまりにも多いので、 いったい宗教の役割はなんなのだ?と学生ながらに考えたものです。 政教分離はもっともなことだな、と。 かといって、宗教は人を支える、平和を唱えるものだという考えもあるので、けっして宗教を否定する立場ではありません。 >「 仏教徒(真宗門徒)として仏教的(真宗的)立場から政治的主張・行動をする 」ことは正しい 主張をすることは言論の自由や信教の自由もありますのでかまいませんが、 行動という部分では、何をしてもいいという訳ではないはずです。 極端に言えば、力の行使である、戦いや戦争です。 価値観の違いは衝突を生みますが、それは単純に自分達の立場以外は認めない、という不寛容からくるものであると思います。 『自分達の考えだけが正しい』という考え方は、別の『自分達の考えが正しい』という考えを否定します。 世界の歴史を振り返れば、時代や場所を選ばずに、そういうことが非常に多い。 私はけっして無神論者ではありません。 世界にいる多くの神、八百万の神々の教えも至高のものだとは思いますが、 一方で、人類・人間の英知を結晶させた法律、戦争放棄、信教の自由、言論の自由、思想・信条の自由、 その他諸々の決まりごとも至高のものであると思うのですが、どうでしょうか(同時に欠陥があることも否定できませんが)。 私の文章もまとまりがなく、抽象的になってしまいました。 >教団内に政治的主張を持ち込むべきでは無いと思います。 政治に宗教を持ち込むべきではなく、同時に、この逆として、 『教団内に政治的主張を持ち込むべきでは無い』という主張も、 私はもっともなことだと思います。 『政教分離原則』については、詳しくはウィキペディアにもありますので、参照してみてください。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%95%99%E5%88%86%E9%9B%A2 乱文失礼いたしました。

takajizou
質問者

お礼

お礼が遅くなりました。   政治的立場や意見は同じ門徒でも様々です。昨今の「憲法9条」や「靖国」などをめぐる議論は、どちら側の意見であれ平和や国の安寧を望んでのことであり、充分論を尽くす事が大切だと思います。が、仏教はその論の主体となる個人の哲学を磨く場でありたいと思っています。   ウィキペディア(政教分離原則)は大変参考になりました。ありがとうございました。

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