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仏教宗派、門徒について
仏教宗派、門徒について わたしは仏教には無知ですが、観音さまが好きで寺院巡りもします。 奈良京都、先月はタイにも行きました。 その上で、わたしは無宗教と思っていたんですが、祖母の通夜で阿弥陀仏が唱えられ浄土真宗と知りました。 わたしは門徒とかもよく知りませんが、阿弥陀さまを信仰さえすれば成仏する、住生浄土が約束されるという考えが理解できません。 ”他力本願寺””門徒もの知らず”なんて聞くし、仏教と門徒は分けて考えるひとがいるという、マイナスな面でしか知りません。 だからといって、どこの宗派がいいとか、踏み込んだ考えも知識もないので、門徒を語る立場にありません。 (1)祖母が門徒ならわたしも門徒でしょうか? わたしの葬儀の宗派まで引き継がれますか? (2)趣味の観音さま寺院巡りは問題ありますか? 長くなりましたが、みなさんの門徒に対する考えも聞きたいです。 ご指導よろしくお願いします。
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- magga
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ganchan420 さん こんにちは^^ 僕なりに思うところを書いてみますね。 元々の仏教(初期仏教)は、物事に対し論理的で宗教的でなく、実践的な具体的な教えだったと理解してます。そこから分派して、今となっては相反する内容も包括する多種の宗教のグループネームとして「仏教」という言葉が使われているように感じます。 (1) 葬儀の形などは、自由になされば言いと思いますよ。葬式を語る教えでもないですし、継いだ文化を大事にするならそれもよし、自ら納得できる形にするもよし^^ そもそも仏道は一人一人が御釈迦様の言葉を参考に思索し実験実践していく教えでしょうから、師であるからとか経典あるからという理由ではなく、納得や実証における確信を柔軟に構築していけばいいと思います(カーラーマ経など^^)。 仏道は理性の道ですから、相手を無根拠に信仰させたり、脅しご褒美で釣ったりはしないでしょうしね♪ 「行為の宗教」今現在どう生きるかの教えだと思いますので^^ この一瞬一瞬どうよく生きるか八正道からずれないようにするか、いつ終わるかわからない人生という名のゲームをいかに八正道というマップを元に、不幸に至る考え方などから逃れ、成長しつつ幸福になりながら攻略するか<実践している人>は「仏教徒」にあたると思います。 手を上げたから、名乗ったから仏教徒というのはちょっと違和感を感じますね^^; (2) 問題ないでしょう。キリスト教系でも仏教系他宗派でもどこにいっても問題ないでしょう^^ 建物など単なる物質ですしね。仲良くするためにも相手の文化を大事にすることもいいことでしょう。 無意味なこだわりを捨てることも仏道と思ってます^^b 何か参考になれば幸いです
- otherwind
- ベストアンサー率40% (12/30)
(1)祖母が門徒ならわたしも門徒でしょうか? わたしの葬儀の宗派まで引き継がれますか? 私見に過ぎませんが、ご本人様次第で良いと思います。 たとえば、浄土真宗のお手次ぎのお寺にお墓があり、自分の親はそのお墓に入れたい、自分はそのお墓を相続したい、自分も将来はそのお墓に入りたい…というのであれば、ある程度、そのお手次ぎのお墓とおつき合いするということはお考えになられてよろしいかと思います。極論したら、納骨するときと、お墓参りするとき程度、そのお手次ぎのお寺にお参りはする。お墓があるから年間いくらというのは払う。けれども、帰敬式は受けない、法座は興味ないからお参りしない(法話は聞かない、聞法しない)、報恩講もお参りしない……というような、つきあい方をしておられる方は、いらっしゃると思います。自宅でも毎朝お内仏にお正信偈のお勤めはしていない…という方はおられると思います。 ご本山(たとえば大谷本廟)への納骨でも同様。 (2)趣味の観音さま寺院巡りは問題ありますか? 私見に過ぎませんが、ご本人様次第で良いと思います。 さすがに阿弥陀如来からの仏罰が下るとかそういう教義はないと思います(^0^;)。おまじないとか呪文とかそういうものを否定しているご宗旨かと。
- kadowaki
- ベストアンサー率41% (854/2034)
一介の真宗門徒です。 >先月はタイにも行きました。 でしたら、ワット・ポーの涅槃仏を参拝したり、河岸に聳える「暁の寺」を見学したりなさったのではないでしょうか。 >その上で、わたしは無宗教と思っていたんですが、祖母の通夜で阿弥陀仏が唱えられ浄土真宗と知りました。 私の場合、わが家が浄土真宗だと知ったのは高校生になってから、しかもその宗旨の基本を少しずつ理解できるようになったのは、大学生になって、ようやく少しは自分のアイデンティティや宗教の何たるかに興味・関心を持ち始めてから以降のことです。 >わたしは門徒とかもよく知りませんが、、住生浄土が約束されるという考えが理解できません。 それで全然構わないと思いますよ。 学生時代の私なんて、親鸞も偉いけど妻帯なんかしやがって、それよりは道元の方がもっと厳格で偉いのではないか?などと入門書の概説を読んだだけで、生意気なことを考え、しかも自分では大真面目に人生上の難問と取り組んでいるつもりでいたものです。 と同時に、遠藤周作にはまって、一時的にカトリックに魅せられたり、でも『沈黙』を読んだ後には、「これって親鸞の悪人正機説じゃないの?」と驚いたりと、きっと彼女選びでもしているような気分で、「一体何が最も正しいのか?」とあれこれ迷ったりしていたのだと思います。 なお、真宗では「阿弥陀さまを信仰さえすれば成仏する」というよりも、阿弥陀さまは、正しく生きる人々は言うに及ばず、むしろ正しく生きようにも意志や克己心が弱く、すぐに誘惑に負けてしまい、それ故に苦しまざるを得ない悪人や愚か者の方を救済するためにこそ、気が遠くなるような修行期間を経て仏になられたのだ、だから阿弥陀さまを信じようが信じまいが、われわれは等しく阿弥陀様の無量(無限)の救済力によって浄土を約束されている、と説かれていると思います。 これは、ちょうどイエスが、天国は100人の集団の中の正しき99人のためというよりも、そこに紛れ込んでいる、1人の救いようのない悪人、罪人のためにこそある、と説いたのと通底していると、私は勝手に思い込んでいます。 自分のような、どうしようもない悪人や罪人でも、阿弥陀仏の無量の救済力の恩恵が約束されていると気付かされるや否や、そこから逆算するようにして、現世での自分の本来的な生き方がどうあるべきかという具体的なイメージが自然と浮かび上がってくるはず、と親鸞聖人は自他に向けて説かれたのではないでしょうか。 >”他力本願寺””門徒もの知らず”なんて聞くし、仏教と門徒は分けて考えるひとがいるという、マイナスな面でしか知りません。 はい、その通りですし、恥ずかしながら、私自身もその例外ではありません。 なお、宗教に限らず、自分自身が心底困ったり、必要を感じたりしない限り、他人のどんなに立派な説教を聞いたところで、本当の意味で自分の心の中に染みこんでくることはないですよね。 でも、今回、質問者さんがこうして質問を立てられたからには、これまでには感じなかった、気に留めたこともなかった何か引っ掛かるモノがあったということですよね。 取り敢えず、「それは何か?」とお考えになるだけでも十分だと思いますよ。 >(1)祖母が門徒ならわたしも門徒でしょうか? >わたしの葬儀の宗派まで引き継がれますか? いいえ、もちろんご自分の意思で「門徒」になるかどうかを決められますが、放っておけば、お寺の方の都合?もあって、いつの間にか「門徒」にさせられている可能性はあります。 でも、質問者さんの場合、早かれ遅かれ、真宗門徒であることが自分の内的必要性とちゃんと照応しているのか?という問題が問われてくるかもしれませんね。 >(2)趣味の観音さま寺院巡りは問題ありますか? いいえ、何ら問題がないどころか、こうしたことが機縁となって、質問者さんが信仰や宗教の問題をより深く考える際にも大きなヒントを提供してくれるはずです。 その結果として、真宗門徒になったにせよ、ならなかったにせよ、それはどうでもいいことでして、それよりは質問者さんご自身の本当の内的必要性の声を聞けるようになり、その声に従って生きられることこそがもっと大切なのではないでしょうか。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
(1)祖母が門徒ならわたしも門徒でしょうか? わたしの葬儀の宗派まで引き継がれますか? ○ あなたの先祖の考え方次第ですね。私の実家も浄土真宗ですが、昔に私の先祖が浄土真宗に帰依し、お寺を招聘し建立しているのですね。100人檀家と読んでいますが、みんなのお布施、土地の寄進、お金の寄進などでお寺を建立し、お坊さんを本願寺から呼び、それ以後数百年,お寺を維持していますね。 単なる葬式仏教ではないわけです。仏教の基本である布施の功徳ですね。 それ故、坊さんにはお経のとても下手な者もいますし、教えたるや小学生なみの者もいますが、先祖の意志をついで、布施の功徳を続けるように私は継いだ兄に日ごろ言っていますね。ちなみに私は仏教の本道に帰依しましたから、浄土真宗ともいえないのですが浄土真宗も仏教の範疇の一部として認めているのですね。つまり、信仰と布施の精神を手放さないためにどのような形式も良しとしているわけですね。 一方、葬式仏教のみの関係であれば、先祖にこだわらず、ご本人の好き嫌いで選ばれるのも良いかと思いますね。 (2)趣味の観音さま寺院巡りは問題ありますか? ○ 仏教には八万四千の法門がありますから、寺院巡りは良い習慣ですね。浄土真宗もその法門の一つということです。 観音さまというのは、観自在菩薩から来ているものですね。観自在菩薩というのは、菩薩の修行が進んでいろいろな霊能力がついた状態の菩薩という意味ですから、救済力もあるわけですね。 救済力があるので、観音さまと呼んで信仰の対象になっているわけですね。観音さまは仏陀の高弟ですから、高弟を通じで仏陀の偉大さを学べば良いですね。
- cowc
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お尋ねについて詳しくお答えをすると、一冊の本どころか膨大なものになりますので、ごくごく簡単にお答えしますが、次に書くことは是非お読み下さい。 お読みいただいたのち、あなたの質問に逐一お答えを書きます。 先ず、仏教とは、仏に成らせていただく仏の教えということを念頭において下さい。 では、仏とは何かというと、いろいろな解説や説明があるでしょうが、単純にいうと、全く迷いのない、完全に平穏な心を持つ存在と心得て下さい。 その仏に成る方法、つまり真理ををお釈迦様が発見され、民衆に説かれたのですが、お釈迦様が亡くなられたのち、年月が経ち、国や土地が異なると民衆の考え方や生活の違いから、その内容を理解するのが難しいものとなりました。 そこで、後の世の坊さん達が、その時代の、その土地の民衆に理解をさせるために、それぞれに解釈をして説いたので、それが宗派の違いとなったのです。 つまり、仏に成らせていただく方法は、本来はお釈迦様の説かれたこと一つであったのですが、 自分の身体を痛めつけるような厳しい修行を強調する考え、 経文を熟読してお釈迦様と同じくらいに知識を習得しようとする考え、 ただひたすらに座禅をして己を無にし、仏に近付こうとする考え などなどです。 しかし、上記の方法は、普通に生活をしている者にはとてもできることではありません。 どうしても、家族を持っていてはできません。出家しなければ仏には成れません。 そこで、日本の平安末期の僧で浄土宗を開かれた法然上人は、数多くの経典を何度も熟読をして、阿弥陀仏が一切の衆生を仏に成らせてやろうと願を立て成就された。これを、根本の願つまり「本願」いいます。 したがって、上記のような修行をしたくてもできない者、自分の力(自力)では仏に成れない者こそ阿弥陀様のお目当てだから、「南無阿弥陀仏」と唱えて阿弥陀様を頼れば、たとえ悪いことをした者でも仏に成らせてくださると説かれたのです。 そのお弟子の親鸞聖人は、阿弥陀様は、生きとし生ける一切の衆生を救うとの本願を成就されたのだから、私たちは既に仏に成らせていただける身である。 ただ、それに気付いているか、気付かないままでいるかの違いで、その人の生き方が異なってくる。 (注) 丁度、普段は空気の存在など気にしていないが、水に溺れたり、息のできない状態に成ったとき、空気の存在に気付き、有りがたさを知るようなものですね。 阿弥陀様のご本願に気付かされた者は、その有りがたさに感謝をし、報恩のお念仏「南無阿弥陀仏」を唱えなさい、と教えられました。 これが、浄土真宗の教えです。 つまり、自分の力=自力で仏に成るのではなく、阿弥陀様のご本願の力=他力で仏に成らせていただくのです。 さて、あなたの質問にお答えします。 問:阿弥陀さまを信仰さえすれば成仏する、住生浄土が約束されるという考えが理解できません。 答:阿弥陀様を信仰しようと自らにはたらき掛けるのは、自力です。 お念仏は仏に成る呪文でも、まじないでもありません。 阿弥陀様のご本願の力=他力に気付かせてもらうのです。 問:他力本願寺なんて聞くし、・・・ 答:「他力本願」の本当の意味は、既にご理解されたとおもいます。人間自身でない他(阿弥陀仏)の力、本願の力です。 問:門徒もの知らず” 答:門徒(浄土真宗の信者)は、親鸞聖人がお釈迦様の教えそのままに、日の良し悪し、方角の吉凶など迷信、俗信の忌みごとを一切排除され、門徒はそれを忠実に今でも守っています。 したがって、俗信や迷信を気にしている人々からは「門徒もの忌み知らず」といわれたのです。 問:祖母が門徒ならわたしも門徒でしょうか? 答:江戸時代はキリスト教が禁止されていたので、どこかのお寺の門徒となる必要があり、そのお寺では現在の市町村役場の戸籍係りのような役割をしていました。 しかし、今日、宗教は個人の信ずるところであり、個人こじんのものです。家の宗教はありません。 ただ、葬儀やお墓のこと、夫は仏教で妻はキリスト教とか、墓守は誰がするなどの問題が起きないともいえないので、慎重な判断と行動が必要でしょう。 問:趣味の観音さま寺院巡りは問題ありますか? 答:全く問題はありません。 いえることは、仏教の教え等を知っていれば、美術的鑑賞に終わらずより深い鑑賞ができるでしょう。
お礼
わかりやすい回答ありがとうございました。 先に回答された方で檀家の話があったので、まずはそこから調べてみようと思います。 寺院巡りもただ癒されていただけなので、もう少し仏教に触れてみると、視野も広がって楽しめるかもしれないですね。 ありがとうございました。
- rurubonpp
- ベストアンサー率26% (128/488)
江戸時代、寺社が現代でいう役所の役割をしていました。だから、特別に改宗したというのが無ければ、江戸時代から日本人であれば、どこかのお寺の檀家であり、神社の氏子であるはずです。 このことは宗教を自分で選ぶのではなく、先祖代々江戸幕府の政治として強制されたものだから、信教の自由に反するという人もいますが、ほとんどの人は何も気にしないでいます。 観音様巡りも別に問題ありません。大いにやれば良いでしょう。 日本の宗教はいろいろややこしいところがありますね。家の宗教は先祖代々のもので良いと思います。個人の信仰は個人の信仰として、好きなものを信仰すれば良いし、無宗教でも良いでしょう。日本人の場合は家と個人との信仰を場合によって使い分けるのが無難でしょう。新宗教団体の人たちはそんな感じでやっているようです。
お礼
江戸時代から日本人かはわかりませんが、お墓に書かれてる名前はひいおじいちゃんから、そこまでは日本人なんだと思います。 両親は宗教を毛嫌いしてるので、お世話になってるお寺さんもなかなか聞き出せません。 檀家についても勉強してみたいと思います。 ありがとうございました。
現実問題として、先祖代々あるお寺の檀家になっているとかでなければ問題は発生しませんし、日本は特に信仰の自由が保障されている国ですからお寺の方もとやかく言わないハズ、だって日本は昔から神社があって中国から仏教が入って、キリスト教が入って、信長がお寺燃やしたり、廃仏貴社があったり軍国主義になったりといろんな信仰の自由のある国ですから、そもそも同じ人間なのに国によって神様が違ったりするのもどうかと思いますし、仏教にしてもお釈迦様は1人ですから、浄土真宗でも真言宗でも日蓮宗でもつまるところ派生した歴史的背景と解釈の違いだと思います、やはり世界の共通はラブ&ピースです、観音様めぐりもあなたの趣味ですので誰にも遠慮することないですよ、神仏に興味の無い無神論者より全然良いと思います。
お礼
ありがとうございました。 ただ寺院巡りをするのではなく、もう少し仏教に触れてみたいと思います。
お礼
ありがとうございます。 お不動さま、観音さまと、意味もなく”さま”をつけています。 単に綺麗だなーとか、お線香の香りに癒されたりもするので、信仰しているつもりはなくても、日頃から救済されているのかもしれませんね。