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お釈迦様は阿羅漢に含まれますか?

お釈迦様を阿羅漢に含めるのを小乗仏教、阿羅漢に含めないのを大乗仏教、という私の理解はこれであっていますか?

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回答No.2

>>お釈迦様を阿羅漢に含めるのを小乗仏教、阿羅漢に含めないのを大乗仏教、という私の理解はこれであっていますか? 私も大まかなところでは、その意見に賛成です。  だた、これは大乗仏教的な意見かもしれませんが、お釈迦様は「仏」であって「阿羅漢」という表現とは分けるべきであるという考えもあります。  お釈迦様は菩提樹の下で成道されました。そして、この悟りを誰にも説かずに悟りの境地を楽しみながら、入滅してしまおうとお考えになっていました。そこへ、梵天という神様が現れお釈迦様にその悟りの境地を皆に説いてくださいと頼まれます。そうした梵天の頼みによって、お釈迦様は五比丘の元へ向い初転法輪(初めての説教)となるわけです。  これをお釈迦様の心の中の葛藤としてしまえばそれまでですが、出来上がった説話だけ見てみると、お釈迦様としては成道してすぐには悟りの境地を人に説くという事は考えてにはいっていません。ということは釈迦様の悟りの境地には、他者に教えを説く、もしくは他者を救済するという要素は含まれていないことになります。ここの段階では、お釈迦様が「阿羅漢」であるという説は正しいと思います。  しかし、梵天勧請によってお釈迦様の中に悟りとはまた違った要素が与えられます。それは、他者に教えを説き、他者を救済するという要素です。それを仏教的に言えば「慈悲」や「大悲」と表現するものといえるでしょう。梵天勧請以後のお釈迦様の中には「悟り」と「慈悲」という二つの要素が付加生まれています。そうなると、お釈迦様を「阿羅漢」ということに納めてしまうより、「仏」という表現のほうがしっくりくる気がします。  ですから私の意見ではありますが現在「阿羅漢」とよばれる人たちの中にも「仏」と呼ぶべき人々が含まれていたのではないかということです。悟りを求め悟ったことを基礎に慈悲の心をもって人々に教えを説くものを仏と呼ぶならば、十大弟子といわれる阿羅漢の方々もそうであったはずです。ならば、お釈迦様は阿羅漢であるというよりも、阿羅漢たちは仏であるといったほうがいいようにも思います。  大乗仏教になってくると、修行中に「悟り」「慈悲」の両立を目指し、そういったものを「菩薩」と呼びます。私はそのほうがややこしいように思います。お釈迦様でさえ成道以前は自身のことで手一杯であったのに、修行中であるのに他者の悟りに踏み込んで救うというのは合理的でないようにも思います。だからといって、大乗仏教の菩薩を否定しているわけではなく、それも貴い仏教者の姿であり、観世音菩薩や勢至菩薩たちの導きなくば私のような愚か者が仏教を勉強しようという気にもならなかったでしょうに。  また、大乗仏教からの先祖がえりとも言うべき事例も存在します。それは二本浄土教の思想で、特に親鸞聖人に顕著に見られます。 『歎異抄』第五条に 「親鸞は父母の孝養ためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず」(わたしは父母の追善供養のために念仏したことは一度もない) というのです。その理由を「そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と説いています。私たちは自分の作り出した業によって苦しみの世界から逃れられず生まれ変わり死に変わりしているという、輪廻思想は古代インドの思想から受け継がれた仏教の生命観ですが、親鸞聖人は『歎異抄』のなかでしか輪廻の思想については語っておられない。しかし輪廻があるとすれば、あらゆる生物はいつの世にか父母兄弟であった身であったはずです。親鸞聖人は自分の力で仏事を行った善をもって父母を助けようなどという自力の心を捨てて、まずは極楽往生をし阿弥陀仏の指導を受け自分自身が悟りを開きてのちに、父母を救うべきであると説かれています。  小乗仏教とは形は違いますが、他者を救済するよりまずは自分自身の悟りを目指すべきであると説かれています。この極楽浄土に往生し成道して(往相廻向)、後に慈悲を持って衆生を救済する(還相回向)という、悟りと慈悲をはっきり分割したスタイルは小乗への先祖がえりといってもいいかもしれません。    余談が長くなってしまいましたが、まとまらぬ稚文文意を読み取っていただきたく思います。  合掌 南無阿弥陀佛

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  • les-min
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回答No.1

こんばんは。  合っていると思います。最も簡便な仏教辞典である岩波の仏教辞典で各項を寄せ集めると  原始の仏教においては仏の称号であった「応供」(アルハン・阿羅漢・羅漢のこと)であるが、後に区別されるようになり、とくに大乗仏教では批判的に声聞(大乗仏教的には「自己の悟りのみを目指し、利他行を欠いた者」)を阿羅漢とした。  という感じになるので、ご質問者さんの理解で基本的な線は間違っていないのではないかと思います。

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