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仏教の修業で悟れる?

仏教の修業で悟れると言う人がいるんですけど、私の知る限り、この世で悟れたのは仏教の開祖であるお釈迦様だけでしょう? どうも悟りの階段は、想像を絶する程に厳しいようです。そのため、悟ることのできない修業の仏教は小乗と呼ばれるのでしょう?

  • pas26
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質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

>>仏教の修業で悟れると言う人がいるんですけど、私の知る限り、この世で悟れたのは仏教の開祖であるお釈迦様だけでしょう?  そんなことはありません。お釈迦さまもガヤでの成道(悟りを開かれたこと)のあとサルナートに向かい、つい最近まで苦行を共にしていた五比丘を訪れ、初転法輪(初めての説法)によって五人の比丘は釈尊と同じ悟りに入ったとされます。また、釈迦の十代弟子といわれる人のほとんどは、釈尊のお墨付きをもらっています。 有名な話は説法第一といわれる 富楼那という仏弟子がいました。彼は、弁舌巧みな布教者でした。あるとき、気性が荒々しく、粗暴だといわれる地方へ布教に行くことになり、旅立ちにあたり、お釈迦様が質問しました。 「富楼那よ、その地の人々にののしられたり、あざけられたりしたらどうするつもりか?」 「世尊よ、『この国の人たちは、私を手をあげて打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」 「富楼那よ、手をあげてお前を打ったらどうするつもりか?」 「世尊よ、『この国の人たちは、私を棒で打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」 「富楼那よ、その地の人々がお前を殺したら、どうするつもりか?」 「世尊よ、『世の中には自ら命を絶つものもあり、誰か自分を殺してくれないかと願うものさえいる。願わなくとも殺してくれた』と思うことでしょう」  これは、原始仏教聖典である『阿含経』の一部『相応部経典』にある一節です。辺境の地での布教は、これほどの覚悟が必要だったということでしょう。こうした問答の後お釈迦様は、富楼那の悟りを認め旅立つことを許したといわれます。  しかし、釈尊滅後それではだんだんと都合が悪くなってくるようです。お釈迦様を特別な存在にしておきたい人々が現れます。それが大乗仏教のと呼ばれる仏教を提唱する人々です。その時に大乗仏教たちがそれ以前の仏教にたいして「小乗(劣った乗り物)仏教」と呼び始めたに過ぎません。 >>どうも悟りの階段は、想像を絶する程に厳しいようです。 とありますが、そういった大乗仏教教団ができる以前は、確かに厳しいい境地ではあるのでしょうが、お釈迦様以外誰も悟っていなかったということはなかったと思います。だって、お釈迦様がオッケー出してるんだから文句のつけようがありません。  阿羅漢という言葉がありますが、インドの宗教一般で、「尊敬されるべき修行者」をこのように呼んだようです。初期仏教では修行者の到達し得る最高位をこのように呼び、学道を完成しこれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を「無学位」ともいいます。それ以下は、不還果・一来果・預流果を「有学」(うがく)位といいます。  しかし、大乗仏教では声聞を阿羅漢と呼び、批判的に仏と区別した。 しかし、大乗仏教では二乗と呼ばれて、阿羅漢と独覚(どっかく)は「仏」になれないとされ、さらには「地獄」へも堕ちることができず、その位のまま輪廻が繰り返されるとする論書さえあります。 >>そのため、悟ることのできない修業の仏教は小乗と呼ばれるのでしょう? とありますが、その認識は大乗仏教からみた小乗仏教の認識であり、小乗仏教からする認識とは違います。そして、今小乗という言葉は大乗仏教からの差別用語に当たるため「原始仏教」や「上座部仏教」と呼ぶのが適切でしょう。    さて、仏教の修行で悟れるのかというご質問にもどりますが、私は浄土真宗を信仰している身ですからその立場からお話させていただきます。浄土真宗の立場からすれば、修行の仏教では悟りに向うことはできません。そういったことも含めて浄土真宗について説明したいと思います。  まず浄土真宗の根本経典である『浄土三部経』という三つのお経を簡単に説明します。お経というものは昔話ですからそんなに難しいものではありません。 1、『仏説 無量寿経』  昔々あるところに法蔵菩薩(若かりし阿弥陀仏)が仏道修行に励んでおられました。この法蔵菩薩という方は「自分ではなかなか悟れない」そんな人も救う仏になりたいよ48の目標(四十八願)をお立てになります。その中でもっとも大切なのが18番目の目標(第十八願)「私が阿弥陀仏という仏になって、私の創った極楽という世界に心からうまれたいと思って、私の名前を呼ぶ(念仏)人があればどんな者でも救いとります。そして、念仏したにもかかわらずもし救われないものが出れば、私は仏をやめます」そこまでおっしゃってくださっています。  それから気の遠くなるような長い時間修行なさいまして、やっとの思いで目標を達成できる力を得て法蔵菩薩という修行者の姿から、阿弥陀仏という修行の完成者へとポケモンで言えば進化なさいました(笑)  こうして、阿弥陀仏のお名前を呼ぶ「念仏」は、極楽往生の行いとなったのです。 2『仏説 観無量寿経』(一部『涅槃経』)  昔々王舎城にアジャセという王子様が住んでおった。この王子は自分の父ビンバシャラ王を殺し王様になろうとします。その時にアジャセの母イダイケという方は、夫が殺されては大変と王様をかばいます。しかし、その努力もむなしく大様はアジャセに殺されてしまい、イダイケ自身も牢屋に幽閉されてしまいます。  幽閉されたイダイケはもがき苦しみます。そんな時、お釈迦様は霊鷲山(りょうじゅせん)という山で多くの信者にまさに『妙法蓮華経』のお説教の最中でありました。しかし、お釈迦様はそのお説教中断しイダイケのもとへ、アナン尊者という方をお供にテレポーテーションで飛んでいきます。  すると、イダイケは「ちょうどよい所に来てくださいました、どうかお助けください。」とお釈迦様に救いを求めます。するとお釈迦様は「よしわかったイダイケよ。これより心で仏を念ずつ「念仏」という修行を教えよう。」とおっしゃって、イダイケに「念仏」という瞑想を教えます。すると、心の中で阿弥陀仏や極楽浄土を思い浮かべることで心落ち着けてゆき、最後には「心落ち着きましたと」お釈迦様にいうと、 お釈迦様はにっこり微笑んでお帰りになります。  この帰り道お釈迦様は連れて行ったアナン尊者に一言付けさされています。「アナンよ。今私は心で仏を念ずる念仏を教えてきた。しかしお前が後の世まで伝えなくてはならないのは、阿弥陀仏の十八願にある「南無阿弥陀佛」のお念仏ですよ。」と、誰に乞われるでもなく釈尊のご意思で一言アナンに付け足されます。釈尊は後の世のために念仏であると説いておられます。 3、『仏説 阿弥陀経』  このお経は極楽の世界を現し、クライマックスでは東西南北上下(全て)の世界の仏が現れ、べろを見せてくれます。なぜべろを見せるのかというと、その頃のインドにおいては、べろを見せるというのは真実の証明としては最上級だそうです。今でもそういった風習は残っているそうです。では、それだけの仏はどんな真実を証明してくれているのかというと、阿弥陀仏の本願力(救いの力)は本物であることです。このように『阿弥陀経』では、全ての仏様が念仏することをすすめます。 このようなわけで、念仏は阿弥陀仏だけでなくお釈迦様や全ての仏様が勧めてくださる行いなのです。ですから、念仏とはしっかりと仏様が定めてくださった「正定業」なのです。       浄土教と末法思想  まずは時代観についてご説明しましょう。それは「末法思想」というものが関係します。わかりやすくいえば、お釈迦様がなくなってから長く立ちすぎて、教えを聞いていた人間にとっての賞味期限が切れてしまい悟りを得られない時代ということです。この末法という思想は鎌倉新仏教と呼ばれる宗派の祖師たちは影響を受けています。これに関して、法然や親鸞は素直に受け取り、悟れない時代の仏教を求めました。  それが、阿弥陀仏の極楽浄土を目指す。浄土教です。    浄土教の人間観  そして、もう一つ大切なのは、時代背景を踏まえた救われる側の心構えです。それは、「自力」は悟れないことの自覚です。自力で悟れると思っている人であれば、別に念仏という方法を取る必要はありません。他の修行法で悟ればよいのです。だからといって、自力で悟れる人が、念仏してはいけないわけではありません。   しかし、日本浄土教の祖師は自力で悟れる人の念仏ではなく、自力では悟りに到達することができない者が阿弥陀仏の「他力」によって極楽浄土にいかせていただく、悟れない者のための「他力」の念仏を説きます。ですから、「他力本願」の他力は他人という意味ではなく、阿弥陀仏一人に向けて使われる言葉です。          まとめ  短くまとめてきましたが、浄土教に関してはこんなところです。浄土教にとって、悟れない時代に悟るための教えは「ご利益という点では優れているけれども、自分の理解という点ではほとんど理解できない」絵に描いた餅になってしまうことになる。ですから、この娑婆世界(悟れない世界)で悟りをめざす道ではなく、阿弥陀仏のお創りになった極楽浄土という学校に入学して、阿弥陀仏や観音菩薩・勢至菩薩という先生について悟れせていただく道が浄土教です。その極楽浄土への入学願いのようなものが「南無阿弥陀佛」なのです。  ながなが書き連ねましたが、小乗仏教を悟れない仏教とする考えは賛同できません。仏教は「自覚の宗教」と呼ばれたりするそうです。私は自分は悟りの境地に立てないおろかな人間だと自覚しています。そんな私にとってはどんなにすばらしい「悟るための仏教」の経典があろうとも何の意味もないものになってしまいます。自分自身が何を根底に置くかが大切です。しかし、その前にはしっかりと知識をつけることも必要です。お釈迦様も「自燈明(自分に由りなさい)法燈明(その自分は教えに由りなさい)」とおっしゃっています。  的外れな回答かもしれませんが、参考にしていただけると幸いです。

pas26
質問者

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とても詳しい説明によるご回答とアドバイスどうもありがとうございました!

その他の回答 (8)

回答No.9

浄土真宗の門徒です。 親鸞聖人にあっては、悟りという言葉はpas26さんの言われるような「正覚」=「妙覚」という意味で使われていると思います。 悟りへの修行の階位は「瓔珞経」に説かれていると思います。 十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、正覚(仏) 一般には、初地(41段)に至ると不退転ゆえに歓喜地と呼ばれるのも pas26さんの言われるとおりでしょう。 ただ、浄土真宗では成仏(悟り)の修行においては自力無功であり、願行を完成された阿弥陀仏の本願力により成仏が可能と説きます。 「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」 と説かれます。 親鸞聖人も「瓔珞経」について触れておられます。 道綽禅師、善導大師のことばを引いて、 「またいはく(般舟讃)、「『瓔珞経』のなかには漸教を説けり。万劫に功を修して不退を証す。『観経』・『弥陀経』等の説は、すなはちこれ頓教なり、菩提蔵なり」と。」(教行信証・行巻) 「ここをもつて玄中寺の綽和尚(道綽)のいはく(安楽集・下)、「しかるに修道の身、相続して絶えずして、一万劫を経てはじめて不退の位を証す。当今の凡夫は現に信想軽毛と名づく、また仮名といへり、また不定聚と名づく、また外の凡夫と名づく。いまだ火宅を出でず。なにをもつて知ることを得んと。 『菩薩瓔珞経』によりて、つぶさに入道行位を弁ずるに、法爾なるがゆゑに難行道と名づく」と。」(教行信証・化身土巻) 「『讃』(般舟讃)にいはく、「『瓔珞経』のなかには漸教を説く、万劫、功を修して不退を証す、『観経』・『弥陀経』等の説は、すなはちこれ頓教・菩提蔵となり」と。」(愚禿鈔) 親鸞聖人は瓔珞経』に説かれるような修行の階位は、凡夫の身(自分のこと)には意味を持たず、例え立派な教えであっても極端に遅い方法である。(漸教) 浄土三部経に説かれた、阿弥陀仏の本願を信じ、そこに全てを任せる事こそが一挙に51段目(等覚=等正覚)を得る方法である。(頓教) と受け止められたということだと思います。 等覚を得ることを正定聚(正に浄土に生まれ仏になることが定まったなかま)に住するとも言います。 等覚は、正覚(仏)の一歩手前ですので、煩悩と切っても切り離せない生身の肉体が滅すると同時に浄土に生まれ仏になるということです。 これは私の自力で沙汰することではありません。 等覚を得るのも浄土にうまれ仏になるのも阿弥陀仏のひとり働きということです。 そのためか、親鸞聖人は、「等覚」も「不退転」も「歓喜地」もほぼ同義に使われているような気がします。 龍樹菩薩が41段とか達磨が30段とか初耳です。 他人の悟りの状態を詮議するより、親鸞聖人がいつもいわれる「私に於いては・・・・」ということが肝要かと思います。

pas26
質問者

お礼

とても詳しい説明によるご回答とアドバイスどうもありがとうございました!

回答No.8

お釈迦様自身は生前、五十二位の悟りというようなことは一言も言ってませんよね。 それに他の人の41位とか30位とかは誰が認定したのでしょう?自己申告でしょうか? 信仰ですから教義を信じることは必要でしょうが、本気で宗教的な探求を実践しようとするならば、一般向けの方便や、宗祖の権威付けのための後付けの理屈は、ある程度割り切って受け流したほうが良いと思います。 そんなものがなくても、仏教は素晴らしい宗教哲学を持っているように思います。

pas26
質問者

お礼

>お釈迦様自身は生前、五十二位の悟りというようなことは一言も言ってませんよね。 そうなんですか、それは知りませんでした。 そうですね、ご回答どうもありがとうございました!

回答No.7

NO3です。 なるほどなるほど。私などよりよっぽど詳しいですねぇ。  先に長々書いたことは、釈迦に説法だっかかもしれませんね。申し訳ありません。しかし、釈尊在世にはその52位の悟りに達していた方はいるのではないでしょうか。大乗仏教になってくるとそういった位の問題が、小乗との批判的な区別を行うためや、多くの論書が出現するために、ややこしくなっていくのも確かです。原始経典を紐解かなくてはなりませんね。課題をいただけたことを感謝します。私自身も調べてみます。 >>そんな歴史的にもとても厳しい修行で、現代人において悟れるといえるでしょうか? との問いに関しては、私は先に述べたと思います。  ただ、私には質問者の問が「わたし自身はどうであろうか?」という問に聞こえます。  私自身の見解としては、私は今生では悟れぬ身であると思っています。親鸞聖人は「不退(不退転)の位」をふたたび迷いの世界に戻らないことから「不退転」といい、これよりひたすら覚りに向かう位という意味で「正定聚」といいます。これは同じ境地を両面から表現しているので「正定聚不退転の位」呼んで51位ということになっているようですが、私自身はどうだかよくわからないというのが正直なところです。自分自身がそんなに高いところにいるとも思えないですしね。私にとってこの問いの答えがわかるのは、蓮の台にのってからかも知れません。   質問者もそういったことをどう捉えているのかお聞かせ願いたく思います。  あてはずれな回答ですね。というより回答になってませんねぇ。申し訳ないです。   合掌 南無阿弥陀佛

pas26
質問者

お礼

>質問者もそういったことをどう捉えているのかお聞かせ願いたく思います。 私自身は到底悟れないだろうなと思っています。 自分の心を深く見つめれば、まさに煩悩だらけですね。 >あてはずれな回答ですね。というより回答になってませんねぇ。申し訳ないです。 そんなことないですよ、とても参考になりました。 補足に対するご回答と詳しい説明どうもありがとうございました!

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1677)
回答No.6

釈尊の『悟り』というものは、釈尊の『祈り』の中にあります。 如来寿量品の自我偈の中に「毎自作是念」(私は、つねに念じています)とあります。 釈尊は何を祈っていたのでしょう? その後に、「以何令衆生・得入無上道・速成就仏身」とあるように、「衆生の身を持って、仏の生命を開かせる無上の道へと導くかを。」と願っていたのです。 そして、釈尊は末法の世において、衆生を成仏させる法を弘める、上行菩薩の出現を予言されます。 そして、現在にその法は世界中の人間を蘇生させ、民衆の中で存在しています。人はその法に巡り合い、自身の変革をもたらすばかりか、不幸にあえぐ人々に教え、その人も自身の宿命を断ち切り、絶対的幸福の人生を切り開いて生きています。 仏は、特別な人のために法をといたのではなく、また、難行苦行を必要とする修行が必要では、多くの民は救えません。 修行は、日常の中で実践できる、修行なのです。 数多くの人を乗せられる「大型客船」と数人しか乗れない「小型船舶」を例えると解りやすいでしょう。 「大乗」とは、多くの民を救える教えで、「小乗」とは極稀な人にしか救えない教えを指します。 今は、昔と違い、山の中に身を置いて修行をする必要は無いのです。 山の中(お寺)に身を置くと、返って権威的になり、布施を貪り、反社会的に振舞う人間(坊主)へと変貌するようです。 やはり、民衆を救うという民衆仏法であれば、民衆の中で対話の中で弘めるべきでしょう。それが、本当の修行ではないでしょうか。

pas26
質問者

お礼

そうですね、ご回答どうもありがとうございました!

回答No.5

お釈迦様自身は厳しい修行が無意味であることが分かり、瞑想しているうちに悟りを得たそうです。 つまり、厳しい修行によって悟りを得た訳ではありません。 このときのお釈迦様の悟りとは(優れた思想にたどり着いた)というほどの意味だと思います。つまりお釈迦様は宗教者ではなく、優れた思想家なのではないでしょうか? そうしてお釈迦様の死後、弟子達が彼を神聖化して仏教になりました。 つまりお釈迦様と仏教の関係は、菅原道真と大宰府天満宮、武田信玄と武田神社などの関係に近く、厳密な意味での開祖とは少し違うと思います。 仏教の悟りが難しいのは、「簡単だと有り難味が無いから」というのが実際の理由だと思います。

pas26
質問者

お礼

そうですね、ご回答どうもありがとうございました!

pas26
質問者

補足

>私の知る限り、この世で悟れたのは仏教の開祖であるお釈迦様だけでしょう? 私が質問でこのように言っているのには理由があります。 まず釈迦は、52位の仏の悟りを得られました。 しかし、八宗の祖と仰がれるインドの龍樹は、自力では41位の初地まで、他力(阿弥陀仏の力)によって51位(等覚)、インドの無著も41位、中国の南嶽慧思は10位の十信(六根清浄位)、天台宗を開いた天台は9位の九信(五品弟子位)です。面壁9年といって、壁の前に9年間も坐禅したために手足が腐ってしまった達磨は、30位程まで悟ったと言われます。いかにこの道を極めるのが難しいかを如実に表しています。 なお、40位までは退転します。つまり、ちょっと油断するとガラガラと音を立てて悟りが崩れてしまうのです。 そんな歴史的にもとても厳しい修行で、現代人において悟れるといえるでしょうか?

noname#66269
noname#66269
回答No.4

いわゆる「悟り」というものを、難しくお考えではないでしょうか。 釈迦についてもキリストについても後世の人間が神格化したものを、そのまま信じても余り実りはないような気がします。 悟りとは、ちょうどニュートンが万有引力に気が付くようなものではないでしょうか。長い間思索し、万巻の書物を読み、天地自然に身を置いて最後の答えを求める、そして「物質間に引力が働いている」という一事をもって、これまでのすべての謎が解明される。 ただ、テーマが少し異なるだけです。 たとえば、「生老病死は何のためにあるか、そこから抜け出せるか」という問いの答えを求めて、先人の知恵を学び、さまざまな経験をし、あらゆる知恵を振り絞り、どこまでも求め尽くしていく。それが、周囲からみると難行苦行をしているように見えるのかも知れません。 もし、不老不死の秘密のカギを得たら、人間はそこからどの様な行動に走るか。多分、私の考えでは、その時点で、その者は人間界との関わりを捨てると思います。ひょっとすれば、私たち俗世の者が知らないだけで、そのような不老不死になった人間が集まった桃源郷がヒマラヤの奥地に存在するかも知れません。

pas26
質問者

お礼

そうですね、ご回答どうもありがとうございました!

  • Bo_Bo
  • ベストアンサー率65% (97/149)
回答No.2

『私は悟った』と言う人がいれば、その人は悟ったのでしょう。 しかし、『あの人は悟っていない』と言う人がいれば、その人は悟っていないのでしょう。 悟りの境地に達することは出来るとも言えるし、出来ないとも言える。 そう、そんな無形な物の答えを求めることは無意味なのではないでしょうか。 大体、悟りを得るための修行とは何なんでしょう? 森羅万象を受け入れ、己を知り、人を生かすことが出来る。 そのような境地を求めるのが修行ではないでしょうか。 『いや、その境地が悟りじゃないか』と言われるかもしれません。 しかし、考えてみてください。 到達点が定まった悟りなんてあるのか。 厳しい修行と言うけれど、厳しければ厳しいほど早く悟りの境地に達するのか。 【悟り】と言う言葉そのものに大きな意味を持たすことは、それ自体に縛られていることにならないでしょうか。また、お釈迦様が悟ったのか悟っていないのかを考えることに意味はあるのでしょうか。 私は、「森羅万象を受け入れ、己を知り、人を生かすことが出来る」その境地へ誘うことが出来る修行とは何ぞやの答えを持っていません。それなのに長々と講釈をたれてしまいました。申し訳ない。

pas26
質問者

お礼

>それなのに長々と講釈をたれてしまいました。申し訳ない。 そんなことないですよ、とても参考になりました。 アドバイスどうもありがとうございました!

  • amamamam
  • ベストアンサー率2% (2/86)
回答No.1

仏教の教えは800年遅れているといわれています 修行も形式的なものばかりだから悟れないのだと思います

pas26
質問者

お礼

そうですか、ご回答ありがとうございました!

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