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仏教徒が修行するのはもう生まれてきたくないから?

仏教に興味がある初心者です。 仏教やヨガの修行をしている人は輪廻を脱するために修業するそうですが、 やはり悟りを目指している方はもう生まれてきたくないとかんがえているのでしょうか? 一切皆苦という有名な言葉がありますが、これが仏教の根本となっているのでしょうか? 仏教徒が妻帯を禁止されているのはこのあたりの理由もある気がします。 つまり、新しく生まれてくる子供のことを考えると生むべきではないと考えての事なのかもしれないということです。 ちなみに私個人としては人生は辛いことが殆どで、もう生まれてきたくないと思っていますが、 世間の人はそう考えているようには思えません。 すくなくとも大多数のひとは生まれてくることが素晴らしいことのように捉えていると感じています。 長くなりましたが、仏教やインドの思想に詳しい方の回答をお待ちしております。

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.12

matho様、こんばんは。 >「原始仏教とするべきだったのかもしれません。」 「他人の芝は、青く見える」とか。 >「健康で健全であれば人生は楽しめるものだと思います。」 「健康で文化的な最低限度の生活を、営む権利を有する」ですね。

noname#257333
質問者

お礼

回答有難うございます。

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.11

生きることは苦しいこと、ということ。だから仏教で、「人生は修行」と言います。 「苦楽」は繰り返しやってくる。そのことに慣れてくると、生きることも楽しくなってきます。 何度も何度も繰り返し生まれて、働き、休み、遊び、ということを繰り返すのではなく、この世の法則や、人、地球のことを知っていきましょうという。 人の体は、「小宇宙だ」と言います。つまり、人は初めから、宇宙の法則を知ることができる、ということ。「仏道を習うというは、自己を習うなり」、つまり、自分の体や、自分に起こったことを研究する、という心。宇宙には、こうなれば、次はこうなる、という道理があります。それを一つずつ知っていくことです。

noname#257333
質問者

お礼

失礼しました。 回答に気づきませんでした。 苦になれるなんて出来るのでしょうか。 回答者さんがおっしゃっているテーマ、 つまり自分を知るということは私の最も関心のあるテーマですが、 それでもやはり現実は辛いです。 精神疾患多数の家系ですので、あと何年あるやらというかんじです。 回答有り難うございました。

回答No.10

「生まれかわる」と一言で言っても、人に生まれかわるとは限りません。 輪廻を信じ、殺生を禁じているブータンの職場で、うっかりハエを叩き潰した瞬間、部屋の空気が凍りつき、部下がこっそり近寄って来て、「ハエを殺すと百回ハエに生まれかわります」と教えてくれました。 つまり、この世に生まれるという事は、前世の罪を償うため、労苦に耐えるためなのです。

noname#257333
質問者

お礼

日本では想像もつかない職場ですね。 ただそこまで熱心な人が多いと、優しい人が多そうですね。 「誰も見ていないからやってしまえ」なんてことにはならなさそう。 ハエに生まれ変わるのって一見きつそうだけど、そうでもないかもしれませんね。 ハエって苦悩しなさそうですから。 実際はしているのかもしれませんが笑。 私は人生は労苦に耐えること、という価値観には共感してしまいます。 回答有難うございました。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.9

matho様、こんばんは。 >「仏教やヨガの修行をしている人は輪廻を脱するために修業するそうですが、」 そうなんですか。 >「一切皆苦という有名な言葉がありますが、これが仏教の根本となっているのでしょうか?」 「仏教も、いろいろ」と思います。 >「仏教徒が妻帯を禁止されているのはこのあたりの理由もある気がします。 つまり、新しく生まれてくる子供のことを考えると生むべきではないと考えての事なのかもしれないということです。」 妻帯を禁止するといっても、理由は、あくまで本人の(煩悩の)ことであって、 子どものためとかではないように思います。 >「ちなみに私個人としては人生は辛いことが殆どで、もう生まれてきたくないと思っていますが、」 ほほう。 そうですね。 「永劫、生まれ変わる」とか。「迷いこそ人生」という場合には、どうなんでしょうね。 >「世間の人はそう考えているようには思えません。 すくなくとも大多数のひとは生まれてくることが素晴らしいことのように捉えていると感じています。」 なるほど。 「そもそも、生まれて来なければ良かった」みたいなことは、少数派なんでしょうか。

noname#257333
質問者

お礼

>そうなんですか。 私の見聞きした範囲でです。 >「仏教も、いろいろ」と思います。 そうですね。時を経て様々な宗派がある中で仏教とひとくくりにするのは無理があったと思います。原始仏教とするべきだったのかもしれません。 >妻帯を禁止するといっても、理由は、あくまで本人の(煩悩の)ことであって、 子どものためとかではないように思います。 修業の妨げにならないように、ということですね。 >なるほど。 「そもそも、生まれて来なければ良かった」みたいなことは、少数派なんでしょうか。 おそらくはそうだと思います。 日本だけで自殺者3万人の世の中ですから、実際のところどうかはわかりません。 実行しないだけで願うひとがかなりいたりするのかもしれません。 私個人としては、遺伝的な病気が原因でこのように考えておりますが、 健康で健全であれば人生は楽しめるものだと思います。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.8

仏教には神はいません。 だから仏教徒は神様に頼ることが出来ません。 助かる為には自分がステップアップしなければ 他に方法がないのです。 だから修行をすることになるのであって 産まれてくるのがイヤダから、という 様なことは無いと思います。

noname#257333
質問者

お礼

言葉は軽いですが、自己啓発という意味合いがあるようですね。 回答有難うございました。

noname#224207
noname#224207
回答No.7

No.5です 愚答にわざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 「とても楽しく読ませていただきました。」とおだてられますと、豚もおだてりゃ木に登るで、追加の書きこみをさせて下さい。 >超越しすぎていて、とても目指せそうにないというか。 お釈迦様も地位を捨て妻子と分かれて難行苦行されて、やっとここの境地にたどりつきました。 大乗仏教とかいわれる日本の仏教も、このお釈迦様と同じ境地になろうというのですから大変です。 比叡山では千日回峰とか言って来る日も来る日も山の中をテクテク歩き周ります。 一番怖いのがマムシだそうです。 これを、永平寺や妙心寺の禅の坊さんは、山を歩き回って仏になれるなら猿はみんな仏だ、とか雑言を吐いています。 親鸞さんもいろいろ修行をしたけれどもダメだったと諦めていたところに、法然が、お経のなかで阿弥陀様が都合のいいことを言っている、コレコレ、これを信じなさいとやりました。 法然坊主にに騙されて地獄へ落ちてもかまわないから信じることにしようといってナミアミダブツとやってサッサと奥さんをもらったのが浄土真宗の始まりです。 仏教には、人間生まれたときから差がある、という考え方もあります。 人それぞれだ、ということです。 羅漢さんというのがこの一つのグループで、如来になれなくてもこれで充分立派だという考え方です。 五百羅漢などと言って、ニコニコ笑った石像が沢山おいてあるお寺があります。 平安時代に最澄と会津の徳一という人が、この考えが合っているのいないのと大喧嘩しています。 なにせ、お経の数が五千以上ありますので、どれを選ぶかで違ってきます。 >仏教などを真剣に修行している方の目指しているものは、 生まれてこないことではなく、 何事にも執着しない状態、という理解でよろしいでしょうか? こればっかりはご本人に聞いてみないと解りません。 永平寺などでも修行の期間はとくに決まっていないようです。 本人がこれでイイヤと思えばアーそうですかで無罪放免になるようです。 「悟り」などと言うのは本人次第ということのようです。 お寺さんの跡取りの中には箔付けに三年も居ればいいだろうと心得ている輩もいるようです。 最近外国人の方が沢山日本のお寺へこられているようですが、宗教というよりも哲学として勉強されておられる方もおられるようです。 「空」とか「無」とか「阿頼耶識」などというのはどうみても哲学と呼んだほうが早いようです。 以前、山口百恵が「秋桜」で♪苦労はしても笑い話に時がかえる、心配いらいないと笑った♪と歌っていました。 これも聞きように考えようよっては大変な境地です。 目じりを吊り上げて突き詰めて考えても心穏やかに考えても落ち着くところは一つのようです。 仏教も大上段に構えずに世の中にはこんな考え方もあるのだ、と気楽に眺めて下さい。

noname#257333
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 時がたつにしたがってだんだんストイックさが抜けてきたような感じですね。 お経は五千以上ですか・・・ 仏さんはかなり饒舌だったんでしょうね笑 >最近外国人の方が沢山日本のお寺へこられているようですが、宗教というよりも哲学として勉強されておられる方もおられるようです。 私も同じような経緯で興味を持ちました。 正直、宗教には抵抗があります。 ただ、仏教は日常を生きやすくするために最適な知識ではないかと考えて、 学ぼうかと言う感じです。 >仏教も大上段に構えずに世の中にはこんな考え方もあるのだ、と気楽に眺めて下さい。 はい。 回答どうもありがとうございました。 勉強になりました。

  • 177019
  • ベストアンサー率30% (1039/3444)
回答No.6

小乗仏教ではこの混迷な世の中を生きてはいけません。我々も大乗仏教で釈尊の教えが根本です。時の流れ、その通りです。これからの仏教は「法華経」が中心です。「般若心教」なんていくら唱えても貴方が倖せを得る事は出来ません。肝心なのは貴方がなぜ、「生まれて来たくないのか」今一理由が分かりません。人生は辛い事が殆どだから?それはお念仏のあきらめ、逃避の考え方が貴方の中に占めているからです。今は末法の時代です。「法華経」しかないです。

noname#257333
質問者

お礼

法華経なんて初めて目にしました。 変換にも苦労しました。 うぐいすの鳴き声のようです笑 法華経について知らべてみます。 回答有り難うございました。

noname#224207
noname#224207
回答No.5

>もう生まれてきたくないとかんがえているのでしょうか という訳でもありません。 >一切皆苦という有名な言葉がありますが、これが仏教の根本となっているのでしょうか? 根本という訳でもありません。 >新しく生まれてくる子供のことを考えると生むべきではないと考えての事なのかもしれないということです。 このような考え方はしません。 仏教をご理解頂くには、般若心経という最も短いお経を読むのが良いとされています。 日本のみならず世界中の仏教で読まれています。 ご覧頂ければ無、とか不、苦、皆空とか否定的な言葉が沢山でてきますが、決して否定の宗教ではありません。 独特な言葉の使い方をします。 古代インド語であるバーリー語やサンスクリット語を中国語に翻訳つまり漢字表記されたことから誤解が生じています。 特に現在の日常的に使われる日本語とはやや意味が異なっています。 ご指摘の一切皆苦の「苦」も苦しみなどと使われる日常語の苦とはやや違った意味を持っています。 苦と訳されたパーリー語のdukkhaも不満という意味を持つ言葉とされています。 ただし、仏典の前後関係からしますと不満というよりも「悩みの基」や「思うようにならないこと」みたいなイメージです。 言葉の講釈は別としまして、ご質問にあります「ちなみに私個人としては人生は辛いことが殆どで、もう生まれてきたくないと思っています」というのが一番のヒントとなります。 なぜ、人生は辛いことが殆だ、と受け取られますでしょうか。 仏教では、物事に執着するから、このような気持ちになる、と考えられています。 この執着もおそろしく広い心の動きを意味しています。 日常的には「愛」は素晴らしいとか肯定的な意味合いのある心の動きとされていますが、仏教では愛惜(あいじゃく)として執着心の一つとされています。 ことほど左様に物事に拘らないのが良いというのが仏教の考え方です。 物事に拘るから、辛いとか、苦しいとか、悲しいとか、愛しいとか、という気持ちが生じてくる、とされています。 この世の中の物事は全てそのまま見つめて拘るな、というようなイメージです。 この結果「災難に会うときは会うのがよろしい、死ぬときは死ぬのがよろしい」ということも言う人もいます。 災難を災難だと思うのも、死ぬのが嫌だ思うのも執着心があるからだ、という論法です。 もう生まれてきたくないと思うのも、生まれてきたことに執着するからだ、ということになります。 ならば、死ねばいいか、と言えば、それは死ぬということに執着しているだけだ、と言います。 死ぬのも生きるのも全部受け入れなさい、そしてそれに拘ってはいけません、といいます さらに、拘らないと考えるのも拘らないということに執着しているから止めなさいといいます。 ここまで来ますと、一体何をどう考えろというのか、ということになりますが、考えるなどということにこだわるな、と言います。 つまりこれが無念無想ということです。 更に無念無想の状態などに拘るのは無念無想の状態になっている自分にこだわることだからこれもダメと言っています。 自分などというものをふっ飛ばしてしまえば、辛いも生まれてきたくない、などということも無くなってしまいます、というのが仏教の考え方です。 このような境地になるのことを悟りとか涅槃と言っています。 悟ったなどというのは悟りに拘っているからダメ、としています。 結果として悟っても悟った前と後ではなにも変わらないとされています。 じゃぁ修行などという面倒なことをして悟る必要などないじゃないか、というと「バカもん!」と叱られます。 まぁ~わけのわからないことを書きましたが、執着心から離れる修行の一つが座禅でありお念仏やお題目の唱和です。 いずれも一心不乱にやれといいます。 執着心を無くそうと思うのではなく、執着心があることを認めてそれから離れろ、ということですので誤解なきように願います。 座禅などにもこだわるな、ということで行住坐臥すなわち日常の立居振舞全てが修行だ、というのが禅寺などでは言われます。 四国八十八箇所めぐりも托鉢行脚も無念無想で一心に歩きなさいということです。 早い話が何をやっていても構いません心掛け一つです、という極めて単純な話に落ち着きます。 出家しろ妻帯するな、というのも執着心が働いて修行の邪魔になるからだ、ということです。 こんなことは凡人にはとうていできないので阿弥陀様にお願いして全部まかせよう、というのが浄土真宗です。 浄土真宗のお坊さんは奥さんもおられれば髪も普通に伸ばしています。 最近はどこの宗派も奥さんがおられますが、髪を伸ばしているのは浄土真宗だけです。 御期待された回答にはならず、失礼しました。

noname#257333
質問者

お礼

苦の原語の意味と日本語の意味の相違からくるイメージによって、 私は「一切皆苦」の意味を取り違えていたということですね。 つまり、お釈迦様の説いたのは「人生は思い通りにいかない」 ということであり、「人生はしんどいことばかり」ではなかったのですね。 そして、思い通りにいかないからしんどいなー、 という場合の「思い」がなければ思い通りにいかないことがあり得ない、 ということなんですね。 なんだか禅問答というか、なんというかですね笑。 すっきりしたのかしないのかすらわかりません。 とにかく仏教の説いた理想状態というのは、 起こる出来事すべてを受け入れている状態だということのようですね。 なんだか植物のようなものを目指しているようにも思えます。 超越しすぎていて、とても目指せそうにないというか。 仏教などを真剣に修行している方の目指しているものは、 生まれてこないことではなく、 何事にも執着しない状態、 という理解でよろしいでしょうか? >御期待された回答にはならず、失礼しました。 いえ、本当に勉強になって、とても楽しく読ませていただきました。 ありがとうございました。

noname#215318
noname#215318
回答No.2

まず・・ 「輪廻転生」が本当にあるのか・・・が 基本になります・・ では 「命の尊さ」を学ぶのは何故?・・ 輪廻転生が実際にあるのなら 命の尊さなんて不要では無いのかな?

noname#257333
質問者

お礼

輪廻転生が実際にあるのかは現時点の科学では不明でしょう。 ただ、今回の私での投稿ではそれは問題ではなく、 「今後、生まれてきたくないがために必死で努力をする人が存在するかどうか」 ということが重要です。 具体的な数は知りませんが、仏教全盛期のころは修行者数は相当いたようですし、 現代でも一定数存在することと思います。 そういう人たちが修業をしているのはなんでかな? やはり生まれてきたくないというのが動機なのかな? というのが今回の投稿です。 あと命の尊さを学ぶというのはどこから出てきましたか? 仏教では命の尊さがベースになっているのですか? (すいません。本当に初心者です) 私個人としては、この世に生まれてきた命にはできるだけ幸せになってほしい と感じますので、生きている限りは命は尊重されるべきであり、尊重したいと思っています。 輪廻転生があるから命の尊さはふようである、とつながる意味がわからないです。 数が減らないならぞんざいに扱っても良いという理屈でしょうか? 命が尊重されない世の中に何度も何度も生まれてくるほうが地獄ですので、 むしろその図式は逆であると、私は思います。

  • 177019
  • ベストアンサー率30% (1039/3444)
回答No.1

仏教徒ですが、私の解る事だけ書きます。貴方が特定の仏教に興味を持つことは悪い事ではありません。ただ仏教でも沢山の宗派、教えがある事は御存じの通りです、私の宗派においては「一切苦」等という言葉はありません。ある程度の苦を知らなければ人々を教化出来ないからです。仏教の根本は「拝む対象物」です。何を拝んでいるのか?阿弥陀や観音様なのか、白い蛇を拝む宗派もあります。「仏教徒が妻帯を禁止?」これは過去にそのような宗派もありました。禁欲で僧侶が稚児を愛した事から日本での同性愛が始まったとも言われていますが、今は僧侶、信徒共にこの時代に即した考え方で子孫を残すという観点に変わってきたと思います。確かに貴方が仰る通り修行の無い宗教はありませんし、信教の自由ですから貴方が選ぶ事は正しいと思いますが、仏教にも正邪がある事を忘れてはなりません。

noname#257333
質問者

お礼

回答有難うございます。 失礼しました。 ブッダの思想という意味での仏教ばかりを念頭においていました。 私の理解では、大まかに言えば禁欲的な上座部となんでもありの大乗というイメージです。大乗にいたっては妻帯も肉食もありという場合が多いようですね。 日本での仏教は大乗が多いのでしょうか。 時代の流れによって教えもやはり変化していくものなのでしょうね。 あと、一切苦というのもあまり歓迎されていないのでしょうか。 般若心経の言葉なので、仏教と名のつくところでは大半がそれを基にしているのかと考えていました。 今回の投稿はインドやチベットでの仏教と限定しておくべきだったのかもしれません。 ちなみに私は特定の宗派に惹かれたりはしていませんし、所属するつもりも今のところありません。 ただ、悟った人が一切皆苦だと言い、地域限定ではあるにせよ生まれてこないために努力をしている人たちがかなりいるということは、やはりこの生きるというのは辛いものなのかな、と考えています。

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