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ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?

noname#80116の回答

noname#80116
noname#80116
回答No.76

kobareroさん こういうふうに理解しました。 つまり kobareroさんは 新しい言語学を構想するという主題を持って対処していかれる。わたしは 単純に シニフィアンとシニフィエとの間に何の絆もないという恣意性を論駁するという目的のためにのみ 議論をしている。 ですから 音素=意義素説が――そうはおっしゃっていないのですが―― たとえ一部分で成立していても これを新規に言語学を構築するのには用いられないのだと。 ただ 細かいことをほじくり出すことになりますが 次のような表現には あいまいさが残るとは思います。つまり 《それぞれの言語を使う人々の歴史的背景や文化的背景に応じて、適切に分節することが、第二の恣意性の意味である。》(No.71) というとき 《歴史的背景や文化的背景》は ソシュール学説に立てば 言語の生成のあとのことではないかと考えられるからです。 なるほど 《文化的背景》には 無文字社会と文字を持った社会との段階区分が出来るように 《歴史的背景》にも たとえ言語を持つ以前の段階だとしても 人間は生存していたし 生活をいとなみ しかも 社会的な生活だったのだろうと思われるその限りで 言語能力が潜在的に活動し始めていたと言えるかも知れません。つまり 潜在能力が眠っていた段階と それがうごめき始めた段階とがあって 後者の段階の歴史が 言語発生に力を添えているとは考えられます。 もしこのこと《に応じて、適切に分節する》というのでしたら たしかに 《「絶対的普遍的概念が、まず、有って、それに名前を付けたものが言語だ」ということの全面否定です》とおっしゃるとおりになるかと思うのですが これは《恣意性》とは切り口が別なのではないでしょうか。 《シニフィアンとシニフィエとの間の無根拠による成り立ち あるいは そのシーニュどうしの無縁性》という内容を いまの《恣意性》という概念からは 新規の言語学にあっては 取り除くという意味になるのだと理解したわけです。その当否を問わない。いや その問題の立て方を そもそも しないと。 あと 関連して  《「日本語における、音素=意義素の事例は、日本の歴史的・文化的背景の下に動機付けられて決まってきた」ものであり》(No.71) これにつきましても あいまいな感覚が残ります。一方で 人間の身体自然にかかわる音素の調音の仕方――その自然的な性格――にもとづいて 語が成り立つ〔部分がある〕ということと 他方で 《歴史的・文化的背景》が 語の意味の確定を動機づけるということとは 区別しうる事柄だとは考えます。あるいは その上で 両立します。 細かいことですが つまりなぜなら 意義素が同定相だからといって 語は全部 《同定》という意味になるのではないわけですから。何に同定するか 何と何とを同定・比定するかで 語の意味は 決まるはづですから。 同定相が 発音にかんして働いたあと 語の意味のほうは 社会的に――つまり個々の人間関係においてと共に 社会の総体としての人間関係における取り決めにおいて――決まってきたのだと考えられます。そして おそらく 同定相がああだ否定相がこうだと 意識してはいなかったと推測されます。 こんなふうな感想を持ちました。今回は 感想です。

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >つまり kobareroさんは 新しい言語学を構想するという主題を持って対処していかれる。 なるほど。確かに、ソシュール言語学を、私が勝手に自己流に解釈して捻じ曲げているという意味ではおっしゃる通りですね。私は「自分が理解できるかどうか」が第一義なので、ソシュール言語学の正当な理解者には成れないのだと思います。 「恣意性」については、自己流ではありますが、私なりには納得できましたので、次の課題は、”新しい言語学を構想する”ことなどでは、もちろんなく、「言語は即自的存在ではない。示差的存在だ。」に関する疑問を解くことです。言語は、示差的存在であることは十分理解できるのですが、そのことは「同一性」と表裏の関係にあるのではないかと私は思います。また、「同一性」は「即自性」と同義であるようにも思うのですが、その辺が、まだ、はっきりと見えていません。brageloneさんが#66で述べておられる「関係主義」という話をもう少し突き詰めてみたいと思います。 >《シニフィアンとシニフィエとの間の無根拠による成り立ち あるいは そのシーニュどうしの無縁性》という内容を いまの《恣意性》という概念からは 新規の言語学にあっては 取り除くという意味になるのだと理解したわけです。いや その問題の立て方を そもそも しないと。 端的に言うと、私の自己流ねじ曲げ解釈です。 >これにつきましても あいまいな感覚が残ります。一方で 人間の身体自然にかかわる音素の調音の仕方――その自然的な性格――にもとづいて 語が成り立つ〔部分がある〕ということと 他方で 《歴史的・文化的背景》が 語の意味の確定を動機づけるということとは 区別しうる事柄だとは考えます。あるいは その上で 両立します。 「自然的な性格」とは何かを考えていくと、結局、「言語の起源」に行き着きますね。一番初めに、日本語を使って、「腹減った」(に該当する日本原語)を発した人は、どんな気持ちで、その音素列を選んだのかということは大変興味深い話です。ジャン・ジャック・ルソーの「言語起源論」P30に以下のような文があります。 「自然の声は音節がはっきりしていないのだから、単語には音節のはっきりした発音がほとんどないだろう。そしていくつかの子音が母音の間に入って母音の重複をなくせば、それで音がなめらかになり、発音しやすくなるには十分だろう。その代わり、音色は実に変化に富んでいるだろうし、多様に異なったアクセントは同一の声をさまざまなものとするだろう。そこで音の長さとリズムが新たな組み合わせのもととなるだろう。そんなわけで、自然のものである声、音色、アクセント、諧調は、約束事であるはっきりと区切った発音(調音)に対して、ほとんど働きの余地を残さないだろうから、人々は話す代わりに歌うだろう。そして語源となる語は大部分、情念のアクセントとかまたは感覚で感じられる事物の結果とかを模倣した音(擬音)だろう。そしてそこでたえず擬音語が感じられるだろう。」 <語源となる語は大部分、情念のアクセントとかまたは感覚で感じられる事物の結果とかを模倣した音(擬音)だろう。>という辺りで、brageloneさんの「音素=意義素」説に通じる部分があるように感じました。と言っても、brageloneさんの場合は、オノマトペとは一線を画しているのだとは思いますが。 さて、当初の質問「「もの」が先か「言語」が先か?」を出発点として、brageloneさんからは、様々な視点から大変貴重なご回答をいただき、それをヒントに、この1ヶ月以上もの間、日々、調べたり考えたりの充実した時間を持たせていただきました。本当に良い勉強になり、感謝、感謝です。どうもありがとうございました。当初の質問に対しては、自己流ではありますが、私なりに何とか納得できる回答を得ましたので、そろそろ、この質問をクローズしようかと思っています。 また、機会がありましたら、是非、よろしくお願い致します。

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