• ベストアンサー

ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?

noname#80116の回答

noname#80116
noname#80116
回答No.74

No.72・73です。 kobareroさんは 恣意性説を否定する見解に立たれたのでしょうか。 《・・・シニフィアンとシニフィエの関係は、「全く、いかなる根拠もなく、デタラメ」に決まっているというのも、むしろ、有り得ないことではないかと思うのです。》=No.73 また 《弁別規準のはっきりしている例を読ませていただきました。確かに、この場合、/sVg-/や/sVk-/などが、一定の意味と深く関連しているように感じられました。》=No.72 ――《感じ》では まだ 曖昧ですが この事例を否定されていないということは / nVkV ・ nVgV /の場合を合わせて これらのシニフィアンとシニフィエとの間には 論理的な絆があると認められたのでしょうか。 もしそうでしたら あとは――この段階では (1)この弁別基準の明確な形態素での全言語における実証と(2)言語の構造上の・あるいは類型論としてのやはり全言語に通じる論理的な絆についての実証とを提案・模索されるということですが―― あとは それほど むつかしくはないと思います。 シニフィアンとシニフィエとの間の《論理的な絆》のほかに 《自然的な絆》が見つかればよいはづです。論理的な絆だけでは 即自的な存在だとは言い難いからです。なぜ/ nVk(g)V /=《障害の消滅》の相だと言えるのか つまり なぜ/ n ・k(g) /でなければいけないのか ほかの/ m ・s(z) ・t(d) / などでもよかったではないか これに答え難いからです。 ところで すでに音素=意義素説をお示ししました。シニフィアンをさらに原子にまで分析したものですが 《すなわち 子音/ n /=同定相の根拠として _______________________ 上歯茎の裏あたりにかなり粘っこく舌を当てて調音する子音/ n /は その粘着性という自然によって シニフィアン/ na /の要素として用いられたとき――つまり この例では 一般対象に同定したと捉えることができるように シーニュ:《na =名》として――たしかに同定相を 《自然のかたちで》無意識の内に帯びたという想定も出来ます。(#65・73) ________________________ すなわち 調音は 人の身体自然とその能力の発揮にかかわっており この自然性を基にして 同定相を帯びる・しかも この同定相が 意味を確定していると考えられる。 ですから 《たとえばsoeur(姉妹)という概念は いかなる性格 いかなる内的関係によっても これに対応する聴覚映像を形成する一連の s + oe + r という音とは結ばれてはいない。》(SM115;《ソシュールを読む》p.196)という説は 成立していないことを立証している。 以上のようにお考えにならないでしょうか。《ギヴアップ》という表現は よく分かりません。 *** No.72で / mVk(g)V /の例に触れておられたので 参考になればと思います。たとえば    / m /=認定相(自体にかかわる);推定相 について いま得ている結果は 次のように例示することができると思います。 ――moe 身(= mo モ/ mu ム)の帯びる相認識 (≒意味)――   (A) 身体・自身   (B) 自体の充実性・集合性   (C) 対極として 欠落性(これは / m /=推定相というのが デタラメの推測で 根拠がないという相を持つと思われることより。) ――《moe 身(=モ / ム)》からの語の形成〔上のA・B・Cの用例の区別あり〕 ――   moe-i > mui > mi 身(み)〔概念相(末尾母音-i)で確定させた形〕   mu-ki 向(む)キ :(A)=(身+移行 k )     →muka-hi 向カヒ;muka-he 迎へ   mu-ki 剥(む)キ :(C)   mo-gi 捥(手偏に宛)(も)ギ :(C)   mo-si 若(も)シ :(A)(《それ自身(moe)である(si)〔とせよ〕》)   mu-si 生(む)シ :(B)(=身+起動 s :《自体の充実性の動態》)      →musu-ko / musu-me 息ス‐子・息ス‐女   mo-to 本・元(もと) :(A)(/ t /は不定指示相・隔定相)      →moto-me 求(もと)メ   mo-no 物(もの):(A)(/ n /=客体の同定相)   mo-hara ( > moppara ) 専(もは)ラ :(A)   mo-mi 揉(も)ミ :(A)   mo-ro 諸(もろ):(B)(《両方の・多くの》)   mo-ro-si 脆(もろ)シ:(C)   mu-re 群(む)レ :(B)(/ r /は自然想定相・自生相)     →mu-ra 村(むら)     →mu-ra ムラ(=不揃い) :(C)( 《曖昧に推定された身》として)   mo-ri 盛(も)リ :(B)→mori 杜・森   mo-ri 漏(も)リ :(C)   mo-ri 守(も)リ :(A)(あるいはつまり mo が ma・me 目・mi 見と共通相であろう)

kobarero
質問者

お礼

率直に言うと、この文章の意味は、私にはよく理解できないということです。何故、理解できないかを考えたのですが、#73の補足に書かせていただきましたように、これは、音楽的センスと同様に、言語に対する特殊な感性、あるいは、臭覚とでもいいましょうか、そういうレベルの話ではないかと思うのです。別な例で言うと、作曲家なら、川の水の流れを見て、あたかも、その川から特定のメロディーが沸きあがってくるかのように感じるかも知れません。しかし、作曲家でない人からみると、「その川の流れ」と「特定のメロディー」がどうして結びつくのかわかりません。同様に、言語に対する特殊な感性がある人なら、/n/と「同定」の間に自然な結びつきを感じ取れるのに、言語に対する特殊な感性がない人にとっては、/n/と「同定」の間にあるという自然な結びつきを感じ取れないということではないかと思います。 そのような意味で、私には、言語に対する特殊な感性がないように思います。ということで、ギブアップです。 以上、私の説明が下手で申し訳ないのですが、ご理解いただけましたでしょうか?

kobarero
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >kobareroさんは 恣意性説を否定する見解に立たれたのでしょうか。 恣意性説は、「恣意性」という言葉を私なりに解釈することによって、私としては納得できましたので、否定しているわけではありません。「恣意性」についての私の解釈というのは、最も短く表現すれば(詳しくは、#71補足)、「恣意性とは、歴史・文化的背景から生まれる様々な要因で決められること」です。従って、brageloneさんの「音素=意義素」論は、私の解釈では、「恣意性」の範囲に入ることになります。これは、あくまで、私個人が納得できる解釈という意味ですので、ソシュール論者が納得されるかどうかはわかりません。 また、「全く、いかなる根拠もなく、デタラメ」云々については、私の説明不足でした。私が考えていたのは、結局、言語レベルの話ではないようです。多分、メタ言語レベルの話ではないかと考え直しました。 >――《感じ》では まだ 曖昧ですが この事例を否定されていないということは / nVkV ・ nVgV /の場合を合わせて これらのシニフィアンとシニフィエとの間には 論理的な絆があると認められたのでしょうか。 そうではなくて、<「リンゴ」というシニフィアンが、「リンゴ」の概念と結びついている>のと同じ意味で</sVg-/や/sVk-/などが、一定の意味と結びついている>と言う意味です。何だ当たり前ではないかと思われるかも知れませんが、私にとっては、正確にはシニフィアンではない/sVg-/や/sVk-/などが、一定の意味と結びついているという事例が新鮮に感じられたのです。 >もしそうでしたら あとは――この段階では (1)この弁別基準の明確な形態素での全言語における実証と(2)言語の構造上の・あるいは類型論としてのやはり全言語に通じる論理的な絆についての実証とを提案・模索されるということですが―― この部分については、私としては、これまで、何度か議論したつもりでしたが、何故か、問題意識が共有できていないように思います。私の問題意識は、「語幹(/nVkv/など)=意味素」の話と「音素(/n/など)=意義素」の話は、「別の問題として完全に分けて考えないと意味がないのではないか」ということです。なぜならば、「語幹(/nVkv/など)=意味素」は、「単語=意味」と基本的には同じことであり、brageloneさんがおっしゃっているような「シニフィアンとシニフィエの動機付け」を示唆するものではないからです。もし、この部分がピント来ないということであれば、/nVgv/を/mVrv/に置き換えたとしても、その結果、言語として成り立たなくなるということはないことを考えればわかるのではないでしょうか? 例えば、「投げる」の発音を、生まれたときから/mareru/と聞かされていたとすれば、それはそれで言語として成り立つのではないでしょうか? 一方、「音素(/n/など)=意義素」の問題は、これとは全く別で、/n/そのものが「絶対的音(他の音と置き換え不可能な音)」として、人間に(あるいは、日本人に)何らかの意味なり意義なりを与えるかどうかの話だと思います。 そこで、私がギブアップと言ったのは、brageloneさんの以下の文についてです。 _______________________ 上歯茎の裏あたりにかなり粘っこく舌を当てて調音する子音/ n /は その粘着性という自然によって シニフィアン/ na /の要素として用いられたとき―― つまり この例では 一般対象に同定したと捉えることができるように シーニュ:《na =名》として――たしかに同定相を 《自然のかたちで》無意識の 内に帯びたという想定も出来ます。(#65・73) ________________________ <以下、お礼に続く>

関連するQ&A

  • ソシュールの思想を勉強したいのですが

    最近、ソシュールの思想に興味を持ち、彼の言語哲学について勉強したいと思うですが、初心者にわかりやすく解説した本があれば紹介してください。 また、彼の著書「一般言語学講義」は初めて読む人にとってわかりやすいでしょうか? いきなり「一般言語学講義」を読んで理解できるでしょうか? あるいはそれを読む前に読んでおいた方がわかりやすい、というような入門書があれば教えてください。

  • ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

     ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。  まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。   / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。  すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ   すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。   ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。   / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  さらに語例を伸ばします。  (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。  郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。    日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまり   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。  (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。  あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。  そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。  さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。  * おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV /なる音韻(シニフィアン)     =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。    * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。  【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

  • ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

     ソシュールの《言語記号の恣意性》説については まだ或る程度の《定説性》が残っています。これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。  まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。   / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じ語であるなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。  すなわち この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ   すなわち    《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。   ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール・といより丸山圭三郎の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。   / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説です。  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。  けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュール≒丸山の説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  さらに語例を伸ばします。  (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。  郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。    日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまり   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。  (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。  あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。  そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。  さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。  * おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV /なる音韻(シニフィアン)     =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。それは 恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。  * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。

  • 「言語学」のオススメ入門書

    現在「言語学」に興味があるのですが。 自律的と社会的両方の分野から研究したいです。 ソシュール、バンヴェニスト、イェルムスレウ、 チョムスキー、フンボルト、サパー、ウォーフ、 バフチン、ハリデイ、ヤーコブソン、ブレンデル、 等に興味があり。 今は手始めに 「ソシュール」の「恣意的」 「シニフィアン」「シニフィエ」に付いて研究中です。 今考えてるのは 「メルロ=ポンティ入門」(ちくま新書) 「一般言語学講義」(岩波書店) 「マルクス主義と言語哲学・言語学における社会学的方法の基本問題」(未来社) 「言葉の国のアリス・あなたにもわかる言語学」(夏目書房) 「科学と言語学」「言語思考現実」(講談社学術文庫) 等を思案に入れてます。 他にもオススメの本とかありますか。 宜しくお願い致します。

  • いろんな言語での言い方を教えてください

    現在、これから設立を予定しているNPO団体の名前を思案中です。 名前を付けるにあたって大切にしていることは意味と響きです。 つきまして、以下の単語、またはそこから連想出来るもので、 どんな言語でも結構ですので、同様の意味で響きが良い言葉(単語)があれば教えてください。 ・扉 ・見る ・人生 ・応援 ・want ・出発 ・世界 ・楽しむ 以下のような形式でいただける嬉しいです。 単語/言語の種類/スペル/読み方 ※例 世界/英語/world/ワールド 宜しくお願い申し上げます。

  • 「言語(言葉)」とは、抽象的なものか、具体的なものか

    「言語(言葉)」とは、抽象的なものか、具体的なものか、どちらなのでしょうか?それとも、一概には言えないものなのでしょうか。 目に見えるような形を持っていない、という意味では抽象的なもののように思えます。 ある対象に対して、言語化を図る(言葉、名称を与える)ことで、輪郭を持った存在を与えることができる、という意味では、具体的なもののように思えます。 はて、一般的に「言語(言葉)」とは、どちらに分類されるものなのでしょうか。

  • プログラミング言語ってたくさんあるけど 結局できることは同じ?

    世界では言葉は違うけど最終的に意味は同じなように プログラミング言語ってたくさんあるけど 結局できることは同じなのでしょうか? それともこの言語はここに強い!などはあるのでしょうか? これからVBかC++を勉強しようと思うのですが もしメリットなどがあれば教えてください。 よろしくお願いします。

  • 日本語は本当に優れている言語なのか?

    日本語は本当に優れている言語なのか? 言葉の揺れが大きく優れている言語に疑問がある。 うさぎ、ウサギ、兎、兔 うさぎだけでも4つの重複した言葉が存在している。 パソコンで言葉を検索するときの揺れ幅は大きい。 もしかして日本語って世界的に見てクソすぎる言語なのでは?

  • 「言葉は物の名前である」は何故間違いか?

    「言葉は物の名前である」は何故間違いなのでしょうか? 現実世界における物は、言語以前の段階で、既に(非言語の)意識によって区別されていると思います。その区別され切り取られた意識対象に対して、名前を付けたのが言葉ではないかと思います。従って、「言葉は物の名前である」は、正しいのではないかと私には思えます。しいて厳密に言えば、「言葉は、現実世界から、非言語の意識によって切り取られたイメージ(もの)に対して付けられた名前である」ということになると思います。 ところが、ソシュールの解説書などを読むと、それは、間違いだと書かれています。言語記号(シーニュ)は、現実世界に基づく区切りではなく、シーニュ同士の相互関係によって恣意的決まると言っているように思えます。 そんなことが本当にあるのでしょうか? 何故、「言葉は物の名前である」は間違いなのでしょうか?

  • なぜ「知りたい」と思うことが可能なのか?そもそも「知りたい」とはどういうことか?

    以前別のカテゴリで私が拙い回答を試みたときに 20世紀の言語観について聞きかじったことをつなげてみたら 次のような疑問が浮かんできました. 1.言語と概念は,別々に存在していたものでその間に対応がついている   のではなく,名前をつけることによってはじめて概念が存在する.   (ソシュール?構造主義?) 2.したがって「人間が世界を認識すること」とは   「世界を言語で記述すること」と同値である. 3.なので,人間が記述に成功したものが世界のすべてである.   なぜなら記述されてないものは,存在しない,としか言いようがないから. 4.ところが人間には「分からないからもっと知りたい」という気持ちがある.   知らないことなのに(=存在していないのに),どうして知りたい   (そこに何かがある)と思えるのか? 私がぼんやり考えてみたところ,知らないことは言語になってないから 他人と話す限りは存在しないのだが,自分の中では (言語になってないから他人には通じないけど)存在する, ということかな,と想像してみました. どなたか4.に現れた疑問を解消していただきたくお尋ねいたします. 私の理解は非常にあやふやだと思いますので, 「この部分がぜんぜん違うんだよ!」とかこてんぱに指摘してください. ただし,私は哲学や思想史などについては素人ですので 勝手なお願いですがなるべく分かりやすい言葉でご説明ください. ちなみに私が回答を試みた質問は http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=281646 です.