• 締切済み

「言語学」のオススメ入門書

現在「言語学」に興味があるのですが。 自律的と社会的両方の分野から研究したいです。 ソシュール、バンヴェニスト、イェルムスレウ、 チョムスキー、フンボルト、サパー、ウォーフ、 バフチン、ハリデイ、ヤーコブソン、ブレンデル、 等に興味があり。 今は手始めに 「ソシュール」の「恣意的」 「シニフィアン」「シニフィエ」に付いて研究中です。 今考えてるのは 「メルロ=ポンティ入門」(ちくま新書) 「一般言語学講義」(岩波書店) 「マルクス主義と言語哲学・言語学における社会学的方法の基本問題」(未来社) 「言葉の国のアリス・あなたにもわかる言語学」(夏目書房) 「科学と言語学」「言語思考現実」(講談社学術文庫) 等を思案に入れてます。 他にもオススメの本とかありますか。 宜しくお願い致します。

みんなの回答

  • o_tooru
  • ベストアンサー率37% (891/2355)
回答No.1

こんにちは、がんばっていらっしゃいますね。 さてご質問の件ですが、言語学は全くの門外漢なのですが、学生時代に少しソシュールを勉強したことがあります。 私は下記の本が良かったです

参考URL:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000048724/ref=pd_sxp_elt_l1/249-0236028-8872315

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  • ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

     ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。  まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。   / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。  すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ   すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。   ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。   / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  さらに語例を伸ばします。  (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。  郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。    日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまり   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。  (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。  あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。  そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。  さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。  * おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV /なる音韻(シニフィアン)     =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。    * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。  【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

  • ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

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  • 《言語記号の恣意性》は 神話である。

     これは 構造主義の基礎に横たわる仮説である《歴史は 無主体の過程である》という見方をくつがえしたいという目的のもとに問うものです。  これについて結論づけるところまで行ければよいと考えます。  《恣意性》説は じんるいの歴史において《自然》と《人為(その意味で 文化)》とが切り離されたと見るものです。  この見方がくつがえれば 人為と自然とがつながっているということ。たとえ本能がほとんど壊れてしまっていてもなお 自然の痕跡は残っていて ひとは 生物としての存在性そのものである《自然人》でありうると見ることになります。  構造主義は この自然人であることから切り離された文化人(その意味での社会人)として〔のみ〕生きる生物種たる人間は もはや一人ひとりが互いに 社会的な行為関係とその構造の中であたかも無主体として生きるほかないと言おうとしていると考えます。  (あたかも 主体無き《縁起》の過程をあゆむと言っているとも見られます。そう言えば 通俗的にはブディズムも さとりを説いていてもけっきょく 《ひとり》としての人間は無力であり社会の縁起過程に従うのみだと言っているかにも聞こえます)。  すでにこの議論は 二度おこなっています。最初のはわたし(= noname#80116 )の質問で 次のには 或る質問に寄せたわたしの議論があります。  【Q:言語記号の恣意性は正しいか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa2944701.html  【Q:ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3187871.html  議論の中身としてかなりの程度まですすんでいるかとも思います。結論を出したいという思いで改めて設問します。  きっかけ(たたき台)は 次のごとく最初の問いと同じものを用います。      *  / nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアン(≒音素)が同じなら シニフィエ(≒意味)も同じく《障害の除去》だという例です。  (1) / nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・   心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・   これが消滅する というシニフィエとなっている)  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  (3) 《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  こうして 自然(ヒトの出す声音)と文化(音素の持つ意味)とがつながっているとするなら 両者は絆を持つと考えられます。人間は《自然人かつ社会人》であると言えると思われます。  《自然人》としてかたちづくる――つまり 感性にもとづく――《好き嫌い⇒ くせ⇒ 価値観 ∽ それにかかわった意志行為》が 人間をして経験有限相対的な存在であるかぎりでの《主体》たらしめる。《無主体の過程》というのは この個人としての自由な意志行為のあとの相互に作用して錯綜する構造つまり縁起の過程総体のことを言うと見られます。  どうでしょう?

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    大学(学部)を出て4月から社会人になりました。国際協力の仕事をしています。昔から外国語(特に英語)を学ぶのが好きで、大学時代の専攻は社会科学でしたが、独学で英検1級、TOEIC満点を取得しました。外国語しかできない人と思われたく無く、大学の専攻も現在の仕事も「語学そのもの」を目的にはしてきませんでした。 しかし実際に働き始めて、今までやってきたことや今やっていることは、自分の興味よりも、社会からどう見られるかや見栄による所が大きいのではないかと考えました(就職に受けそうな学部を選んだりするなど)。そして、このままのキャリアを重ねていっていいのか迷うようになりました。というのも、自分が一番やっていて楽しいと思ってきたことは、法律の勉強でもなく、仕事の手段として外国語を使っている時でもないからです(とはいうものの、今与えられている仕事は手段として外国語を使うことすら殆どありません)。 私にとっては、言葉そのものの意味や仕組みを考えている時が一番楽しいです。 もちろん単に語学の資格を取ることと学者としての研究能力は別物ですが、今からでも大学院で言語学(まだ具体的には決まってないですが、自分の経験と重なるという意味で、応用言語学や第2言語習得に関心がある)を学び、その分野の専門家として働きたいという思いがあります。 そこで質問なのですが、学部で全く関係の無いことを学びすでに社会人として働いている人間が、その分野の研究者や学会との縁も無くいきなり大学院で言語学を学ぶことについてどう思われるかお聞きしたいです。そして、大学院に行くにしても、社会人を何年か続けるべきなのか、続けるにしても何年くらい続けるのかということ、そして、当初から学者を目指して専門を深めている人にとって、私のように一度就職をした人間はどのように捉えられるか、などについてお答えをいただければ幸いです。あわせて、(厳しいことは重々承知ですが)私のようなキャリアで、希望する、英語・言語に関わるアカデミックポストに付ける可能性がどの程度のものなのかをお聞きしたいです。ちなみに私は(大学のレポートを除いた)論文と呼べるようなものは、言語学はもちろんのこと、学部の専攻でも書いたことはありません・・・。

  • 立命館大学

    立命館大学大学院、言語教育情報研究科の日本語教育プログラムについて、詳しい情報が知りたいです。どなたかご存知ではないですか? 私は、進路として、この研究科を考えていますが、取り寄せたパンフレット、シラバス等で、なかなか、教授の指導可能領域、研究活動等がよく分かりません。修士論文ではなく、リサーチペーパーの提出が求められると言うことですが、言語研究はできるのでしょうか?日本語教育を学びながら、言語研究がしたいのです。まだ漠然としていますが、学習者の敬語使用の難点を、その言語の使われている社会から分析すると言ったことに興味がありますが、それを克服する教材の作成なども求められるのでしょうか?問い合わせのメールアドレスに送っても、返信が来ず、先生方のメールアドレスも掲載されていないので、どうすればよいか困っています。 この研究家についてご存知の方、大学院進学の際の情報収集の仕方など、アドバイスをいただけると嬉しいです。

  • 言語学の入門書

    言語学の入門書を探しています。 # 日本語で書かれたもののみ。(新書以上専門書未満) 講評・書評・感想など,経験者の方のご自由な評価も併せて希望します。 # いきなり,ソシュール『一般言語学講義』を推薦するのは,   私の咀嚼力を鑑みて,ご遠慮ください。<(_ _)>