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《絶対》の概念をもし導入するとしたら・・・

fishbowl66の回答

回答No.2

絶対とは、一つの概念で、ある意味、時間空間を通して完全性を維持する必要があります。 そうすると、絶対は完成であり、不動という事になります、すると運動もない、永遠に定まったという概念です、これは確かに、創造したり憧れたり、魅力的な概念ですが、逆にいえば、絶対的終焉と同義であり、考えることも、悩むこともできません。 以上が正しいとすると、 今後も、導入は検討されないほうが、宜しいのでは。

noname#80116
質問者

お礼

回答そして不要論をおしえていただきありがとうございます。 抽象的な論理を隅々まで及ぼしておこうとするときの哲学には あまりなじんでいないと告白せざるを得ませんが――すなわち たとえばはじめの一文: 《絶対とは、一つの概念で、ある意味、時間空間を通して完全性を維持する必要があります。》 がよく理解しかねているのですが―― おっしゃっているのは わたしの見かたでは おそらく 絶対の概念をさらに解釈したその表現形式を 問題にされているのではないでしょうか。 つまり 絶対は 片や 《完成・不動・永遠に定まった》として《ある(有神)》という解釈表現と 片や 《絶対的終焉・考えや悩みの無》として《ない(無神・空)》という解釈表現との両側面を 互いに同等に持つという実際を指摘されているのではないか――そのように理解したいように思えてくるのですが。 まだ お応えしきれていないでしょうが もしよろしかったら #1さんへのわたしの応えも参照していただけるとさいわいなのですが。

noname#80116
質問者

補足

この場をお借りして みなさんへ。 わたしの提出した#1での基本原則は かなり 通用するように思われ かと言って いま その具体的な方向・方策を出すと言っても 範囲が広すぎます。 おそらく その原則の中でも触れましたように われわれが いわゆる一神教の人びととお付き合いするときの態度や考え方を いくらか具体的に取り上げておくのもよいかと思われます。 あるいは 日本人のこんなところに いわば絶対の体験や歴史があるのだといった主題でもよいかと考えられます。 ですから 体験集とそれらについての考え方を この場で編んでみるのもよいかと考えました。よろしかったら そういうかたちで さらにあとを続けたいとも思うのですが。 *なお 司馬遼太郎の言う《むろん、絶対などは、この世にありはしません》は この相対の世界には絶対はないという当然のことを言っているのではなく そうではなく 《絶対》を《無》として解釈表現する立ち場であると考えます。いわゆる日本人の立ち場であり 日本人がそんなふうに《無》だとか《立ち場》だとか考えていないとしても そういう見方になると思われます。 言葉はよくないですが わたしたち日本人は 一般にはこの立ち場で その立ち場を クリスチア二スムなどと すりあわせていかねばならないのだと思われます。

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