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《絶対》の概念をもし導入するとしたら・・・
fishbowl66の回答
- fishbowl66
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絶対とは、一つの概念で、ある意味、時間空間を通して完全性を維持する必要があります。 そうすると、絶対は完成であり、不動という事になります、すると運動もない、永遠に定まったという概念です、これは確かに、創造したり憧れたり、魅力的な概念ですが、逆にいえば、絶対的終焉と同義であり、考えることも、悩むこともできません。 以上が正しいとすると、 今後も、導入は検討されないほうが、宜しいのでは。
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ふたたびの問いです。 おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。 たたき台を示します。 1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。 1-1. その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。 2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。 2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。 3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。 3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。 4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。 4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。 5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。 5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。 5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。 6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。 6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造: ○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭: : これは 無根拠である。 : これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。 : そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか についての疑問すらが起きる。 : 《神》とも《無い神》とも言える。 ○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》: : すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の 原野)》に移行している。 : 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに する場合にすら用いられることがある。《真理》として。 : それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり 《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。 6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》 を成らせていると想定され そして 《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》 が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。 以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。 なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。 ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~ 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。 ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・ むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。 絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。 ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞) http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html ~~~~~~~~~~~~~~
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- 日本人は・・・
小説家の文章をふたつかかげます。 これらにわれわれが寄ってたかってツッコミを入れることをとおして 日本人論の深みを互いに問い求めることが出来れば さいわいです。 自由にご見解を述べてください。例によって質問者は自由に(つまり 互いに対等の立ち場で) 批判をも交じえて コメントを書き込みます。むろんそれに対して反論してください。 なお 次の遠藤周作における《黄色い人》は 特には われわれ日本人を指して言っているはずです。 ▲ (遠藤周作:黄色い人) ~~~~~~~~ 神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竈(かまど)で焼かれました。 あまり待ちどおしいので 五分もたたぬうちに竈をおあけになりました。もちろんできあがったのは まだ生やけの真白な人間です。《仕方がない。わしはこれを白人とよぶことにしよう》と神さまはつぶやかれました。 こんどは失敗にこりて うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると 真黒に焼けすぎた人間ができているではありませんか。《しまった。でも これは黒人とすることにしよう》。 最後に神さまはいい加減なところで竈をひらかれました。黄色くやけた人間が作られていました。《なにごとも中庸がよろしい》。神さまはうなずかれました。《これを黄色人とよぼう》。(童話より) 我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非 らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか) れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は 汝を口より吐き出さんとす。(黙示録) (遠藤周作:『黄色い人』 冒頭) ▼ (司馬遼太郎:《絶対》なる概念と日本人)~~~~~ http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。 ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。 日本に存在しつづけてきたのは、すみずみまで相対的世界でした。 神道、山々や谷々の神々、あるいは仏教という相対的世界を最初から是認した思想。 山々や谷々の神々が神遊びをするように、神遊びとしての日本特有の私小説がうまれても、絶対という大うそを、つまり絶対という「神」---これは聖書の「神」のことですが---という思想、又は文学的思考----大文字のGodと同じ次元での大文字のFiction---を中心にすえるという習慣は、日本においてはカケラもありませんでした。 いうまでもありませんが、"あの部分はフィクションです〃という意味の虚構ではありません。神が絶対なる、ごとく、同じ意味における絶対の虚構のことであります。 むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。 絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。 ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。 (開高健への弔辞) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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どう扱っているか? 早くうまく扱うようになって欲しいと思うのですが どうなのでしょう? 《相対・有限・可変性の経験世界》とそれを超える《絶対・無限・不可変性・非経験・非思考の場》とです。 ○ 司馬遼太郎が短い文章として 《絶対》の概念と日本人という主題で語っています。参考にどうぞ。 http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html (第一段落の《(開高健への弔辞)》のみで いいと思います)。 ○ すでに同じ趣旨で問うたことがあります。 【Q:《絶対》の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3738300.html
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日本語を勉強中の中国人です。金田一春彦の「日本語」を読んでおります。そのなかに次のような一節があります。 『尾崎紅葉の名作「金色夜叉」の巻頭、カルタ会の場面、富豪富山唯継の指に燦然と輝くダイヤモンドを見て、一座の子女がドヨめくところが、こういうふうに写されている。 「金剛石(ダイアモンド)!」 「うむ、金剛石だ」 「金剛石??」 「なるほど金剛石!」 「まあ、金剛石よ」 「あれが金剛石?」 「見たまえ、金剛石」 「あら、まあ金剛石??」 「すばらしい金剛石」 われわれ日本人はこれを読んで、どれが男のことばで、どれが女のことばだということが大体わかる。年恰好や身分まで想像がつく。そうして、それが当たり前のことだと思っている。が、こういうことは、西洋の小説ではできないのだそうだ。つまり、西洋では、男のことばと女のことばとは、文字で書くと区別がわからなくなってしまうからだ。』 文中の九つの短い会話の文はどれが男性の言葉で、どれが女性の言葉なのか、教えていただけないでしょうか。それから、年恰好や身分までも想像がつくのでしょうか。皆様の判断の根拠も教えていただければ大変助かります。 また質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
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補足
この場をお借りして みなさんへ。 わたしの提出した#1での基本原則は かなり 通用するように思われ かと言って いま その具体的な方向・方策を出すと言っても 範囲が広すぎます。 おそらく その原則の中でも触れましたように われわれが いわゆる一神教の人びととお付き合いするときの態度や考え方を いくらか具体的に取り上げておくのもよいかと思われます。 あるいは 日本人のこんなところに いわば絶対の体験や歴史があるのだといった主題でもよいかと考えられます。 ですから 体験集とそれらについての考え方を この場で編んでみるのもよいかと考えました。よろしかったら そういうかたちで さらにあとを続けたいとも思うのですが。 *なお 司馬遼太郎の言う《むろん、絶対などは、この世にありはしません》は この相対の世界には絶対はないという当然のことを言っているのではなく そうではなく 《絶対》を《無》として解釈表現する立ち場であると考えます。いわゆる日本人の立ち場であり 日本人がそんなふうに《無》だとか《立ち場》だとか考えていないとしても そういう見方になると思われます。 言葉はよくないですが わたしたち日本人は 一般にはこの立ち場で その立ち場を クリスチア二スムなどと すりあわせていかねばならないのだと思われます。