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《絶対》の概念をもし導入するとしたら・・・

どのような考え方で どのような方向・方策が考えられるでしょうか。 どのように動機付けしていけばよいと思われるでしょうか。 むろん 導入の不要論や反対論も受け付けてまいります。 たとえば 司馬遼太郎の言うには:―― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・ むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞) http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ちなみに わたしは 日本人のあいだでも 身分制のきびしき折り 愛し合った男女が 身分の違いで引き裂かれるというとき 道行きにみづからを追い込んでいったとき かれらは 絶対を見ようとしていたかも知れないと思います。死を覚悟の譴責を家来としておこなったりする場合も見られるように思います。 上の事例と同じように おこないとして どうかとも思うのですが 忠臣蔵も 絶対を見ようとしたのかも知れません。 とにかく 多岐にわたるでしょうが たとえばクリスチア二スムやイスラームとの付き合いでは わきまえておいたほうがよいと思ったりします。そして よかったら そのあたりでなりとも お考えを述べていただければさいわいです。 なおわたし自身は 絶対の概念について自分の見解を持っております。そして その導入ということについては いままでに特に考えたことはありません。

noname#80116
noname#80116

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  • kigurumi
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回答No.3

No.1です。 >(A)絶対をただ概念として 数学の論理のごとく 認識することを基本とすること。 まず、人が決めたことは絶対変わらないとはいえませんよね。 何故なら人は変わるから。 法律と法則。 法律は変わる属性を持つものが作るので、作った人が変われば、法律も変わる。 従って、法律は絶対じゃあない。 だけど、気まぐれでコロコロ変えるわけにはいかないから、「今まではこういう世の中だったけど、世の中はこう変わったから、この法律は今の世の中にあわせて。。。」って変わったりするわけです。 でも、法則は変わらないですよね。 (B)にしても、移り変わる人間が「これが絶対だ」って言うわけで、その人、世の中を構成する人が変われば、過去には絶対だったものが、後の時代は絶対じゃあなくなる。 >《きみたちも 絶対を持て》――《いやだ 諸君のほうこそ 絶対を棄てろ。 宗教にしろ「絶対だ」って誓った人たちが改宗しますよね。 何故かというと、変わる属性を持っているのに「絶対」という言葉を仕えるから。 ある時点では絶対でしょう。 情報が入ってこなければ、あるいは思考しなければ、あるいは疑うということをしなければ、長続き あるいは 死ぬまでその絶対かもしれない。 だからといって、それば全人類にとって絶対ではなく、その人にとってみれば絶対なわけで。 人の個性を無視すれば、絶対は絶対にもなるかもしれません。 人それぞれ個性というものが無い、とすれば可能かもしれません。 でも、それ 恐ろしいものを引き起こす可能性をはらんでいる。 だって、実際は人それぞれ個性があるというのが事実だから。 それを認めず、「いや 絶対はこっちだ」となったとき、自分が思う絶対を確固たる絶対にどうしてもしたいという欲望、全人類がそれを求めないと気が治まらないという欲望が芽生えたとき、、、、 あとは歴史の通り。 1)<不案内だと思いますが いかがでしょうか> そんなに深く考えなかったのですが、、、、 日本って神の国で絶対に負けるわけがない って思想がありましたよね。 想像するに、本当に負けるわけがないと、全国民が信じていたんじゃないかと思います。 2)<法則も この絶対に関係する / その絶対の力の現われだという解釈もあるでしょうが。> 絶対の力の表れなのかどうか答えられませんが、現実条件が同じであれば、出力結果は同じになる。 でも、人間は出力結果が曖昧なんです。 というのも、人間はそのものを捕らえることはできません。 それをそっくり記憶する機能は持っていません。 出力もしかり。 ここが大きく違うところ。 > <(3)絶対は証明するものではなく ただ想定するものだと思いますが。> ええ、法律がそうですよね。 法律に抵触すれば、裁かれます。 「犯罪を犯したけど、今回は無かったってことにします」ってそう簡単になりませんよね。 そうなると あれも これも それも 無かったことになってしまい、法律の存在価値が無くなり、犯罪が急増してしまう。 ただ、犯罪を犯した経緯、原因次第では判決が異なります。 罪状は一緒でも、判決が違う。 で、一応 法律の存在価値は高く評価できるので、法律を絶対に近いものと想定した社会でOKだと思います。 でも、社会が変われば、法律も変わる。 アホみたいな法律もあるようですが、適用されないでお蔵入りの法律もあると思います。 審議されてもめない限り、法律は変わらない。 5)<異論・異端すべて 同等であると同時に 明らかに妥当でないものは 捨てられていくでしょう> ただ、ある宗教を見てみると、妥当ではないものの方が力で他をねじ伏せたんですね。 人はもろい。 絶対と人はいえるが、そのいえる人すらもろいもの。 結局 数でいくしかないのかも。 例えば「イラクは核兵器を持っている かも しれない危険な国だ」で戦争が始まった。 かも でですよ。 そして かも と言った人を、再選するんです。 自分にとってお得だったから選んだわけです。  もろい・・・・。 6)そうですね。 それが適切な表現かも。 8) 絶対を想定したのか、自分の考えは絶対とはいえないが、まだマシ、 とっても あれよりマシ、と思ったのか。 人はある地点を限界だと思うかもしれないが、もっと先にも自分の可能性、人間の可能性があることを否定できないし、実際 限界だと思ったものでどうしても乗り越えられない行き止まりだと思ったことも、その先に行ったら、過去においては、とかあの時点の限界点 とか振り返ることができるわけで。 そうなると 宇宙みたいに限界点が広がって、外へ移動していっているのでしょうか。 時間によって限界地点が違うのかもしれない。 10) 集団においての掟であって、その集団外では通用しないってこともあるわけで。 だから ある宗教にとっては絶対で、それを絶対とする人が集まってくることになる。 だから その集団ではそれが絶対になっているだけ。 だって 同じ価値観の人が集まっているのだから。 価値観が違えば入信しないし、人は変わるという属性をもっているので、命を懸けて誓います って言ったところで、脱会する人がいて それはあたりまえ。 11) だから哲学って結構 人にとって必要な学問だと思うんですね。 当然とされていることすら疑う。 このことによって、世の中がもっと楽になれば、その疑いが限界突破へといざなったことになるわけで。 っていうと、ほら限界があるじゃないか って言われそうですが、ある時間においては限界だと 思えた だけ。 12) でもですね。私 魔法とか怪奇現象とか大好きなんですよ 笑 もう ウキウキして話しますし、そういう本読むの大好きなんです。 ただ、やはり変化しまして、そういう話を聞くと、その現象が起こった原因はなんだろう?? どうすればそういう現象が起こるのだろう?って方に、出力が向くようになったんですね。 そういう話が好きだから、謎解きが好きになったわけで。 で、やっぱり 不思議な話を聞くと 耳をそばだててしまいます。 「ほーー おもしろい!」って。 で、「それ 幽霊だよ 幽霊いるんだよ」とか言うと「あんた バカじゃない」って言われます。笑 でも「絶対幽霊だよ 」って私が言った意味は「おもしろい 愉快~」って意味で、本当に幽霊がいるって確信をもって 友人も説き伏せたいからじゃないんですね。 その楽しさの雰囲気を味わいたいだけ。 こういう世界、私にとって娯楽ですもん。 その後 推理働かせ「これは病気によって引き起こるのか。自然現象か」 って調べだすんです。 で、これと思えるものが見つかると、出力係数が下がって「なんだ つまんない」って。笑 だから私も絶対って言葉使うときは、強調するためであって、騒いで楽しんだりする時に使うか、強く拒否するときに使うか。 絶対にイヤ って言ったにもかかわらず、「やらないならご飯抜き」とか言われると、しぶしぶやるんです・・・・。 ただ、私も頑固な時は頑固で、ご飯抜きでも本当はやってもいいなかって思うものも ムキになって意地張ってやらないときもある。 でも次の時は言われる前に、皿洗いを率先してやったりなど・・・。 こういうのに絶対って使うべきじゃないが、可能(言葉として人に発せられる)なんですもの。使っちゃいます。

参考URL:
。法則も この絶対に関係する / その絶対の力の現われだという解釈もあるでしょうが。
noname#80116
質問者

お礼

(た)絶対についての自分たちの代理表現を 力でねじ伏せて 信じさせるという行為――すなわち おっしゃるように《ある宗教を見てみると、妥当ではないものの方が力で他をねじ伏せたんですね》―― これについて批判することは  これについて批判することは 他方で 或る種の共同心理によって(その背後には 王化の徳があって さらにそれを擁護しつつ代弁するという軍事力があって)信じさせるということ これをも批判しているはづだと思うのですが。 つまり 軍の明示的な命令がなくとも ねじ伏せた場合があったかと疑われます。――つまり 《当然とされていることすら疑う。 / このことによって、世の中がもっと楽になれば、その疑いが限界突破へといざなったことになるわけで。》 (れ)死を覚悟の家臣の諫言については 留意にとどめます。 (そ)《絶対という魔法の言葉に人は操られることもあり、それにより悲劇が起こることもある》そのことが 少なくなっていきますように。

noname#80116
質問者

補足

(い)日本語では 相対の世界を超えたところの領域を 絶対という言葉で表わします。これが 想定です。そして この想定が 絶対であるかどうか(永遠に正しいかどうか)は 問題になっていません。都合が悪いとわかったら その時点で 想定を変えればいいという想定です。現在の想定に基づき 妥当であれば 迎え入れられます。もっとも―― (ろ)もっとも 仮りに 相対を超えた絶対をもさらに超えた領域があるとなった場合 そのときには その新たな領域が絶対のことだとなるのでしょうが その内容は すでに想定されているはづなのです。 (は)そのことを kigurumiさんは――総じて言って―― 曖昧にして話を進めておられる部分があります。一方では 同意し 他方では 違った見方を交えている部分です。 (に)既述の番号(3)における法律は 相対の世界――たとえば 盗みがあるかないか どちらかの世界です――を共同自治する目的で取り決められます。そして運用されます。また相対の問題として 何をもって盗みとするかなどで 修正変化があります。それだけの事態です。 (ほ)ただし 書きましたように 律法(法律)として 《殺すなかれ / 盗むなかれ(すなわち 絶対のもとに絶対と一致して生活している〔――つまり 主観の問題なのですが その――〕あなたは 殺す / 盗むことから自由であるでしょう)》という表現で言おうとしている内容は ひょっとしたら 表現しうべからざる絶対を その人間の言葉であらわそうとしたものかも知れない こういうふうに捉えられていると思います。〔(10)と関連します〕。 (へ)ですから (a)絶対の世界の想定と (b)相対の世界のその時間的な経験行為や現象であることから来る有限性・可変性とを ともに 認識するならば 次の場合に役立つと言っていいでしょう。すなわち 《きみたちは 絶対を受け容れなさい。》――《いやいや 諸君こそ 絶対などというものは棄てなさい。 / あるいは いや そうではない。そうではなく はじめの諸君の絶対も 絶対はないという諸君も まちがっている。われらの絶対こそが 絶対だ。これを崇めなさい。》と言い合うときです。 (と)絶対は――想定じょう―― 唯一であり その代理表現は 多様です。 (ち)そうであれば 《個性があるという事実》を尊重しているというよりは それだけに留まらず むしろ初めに 個性ある個人が何にも増して大事であるという地点から出発しています。 (り)個人の信仰と集団の宗教とを峻別しています。集団の宗教とその慣習には 人間の習性(あるいは慣性)としての生活部分がからむ領域では――しかも 文明になりうる経験事態の中においてさえも―― ろくなものはないようです。よね?(ただちに葬り去れということではないものに留意しなければならないとしても)。 (ぬ)ということは 繰り返しになりますが ヤハウェーもデウスもアッラーも すべては絶対ということの代理表現であり あるいは八百万の神々も 神木も石座(いはくら)も神な霊(び)山も そのものが 絶対なのではないということが明らかになります。 (る)それでも 十字架だとかロザリオだとか 榊だとか瑞垣の聖域だとか 依り代が想定されて 人間と絶対との交信があるとも わたしたちは 自己表現してきた歴史があります。これは 無下に否定することは出来ないという消極的な原則が持たれますねと 言っていたわけです。 (を)つまりそれには 上の(ほ)のような律法の事例もあるでしょうし あるいは (ち)のように 個人とその信教・良心の自由 また 表現の自由等々に 根ざすように基づきますから 主観の表現内容を――経験合理性で批判するのも自由であると同時に―― 否定し去ることは無理です。要らないものは 捨て去られていくでしょう。 (わ)《日本って神の国で絶対に負けるわけがない って思想がありましたよね》――《神》という言葉も代理表現であり 《神の国》とその《思想》も同じくです。《絶対に負けるわけがない》という《絶対》は あくまでもこのままならぬ相対の世界の中での 強調表現です。 (か)このとき 絶対の領域とのつながりがあって欲しい(つまり 神風が吹いて欲しい)という願いとしての主観の要素はありますが 経験事実のかかわる相対の世界のことですので 十分にわれわれ人間がその理性で 妥当かどうかを判断する余地がある問題になります。――おっしゃるとおり 《だから哲学って結構 人にとって必要な学問だと思うんですね。》 (よ)また これも重要だと考えますが 人とその命を つまりは 個人とその個性・自由を 犠牲にして 絶対の加護を願うのは――昔はあったかも知れませんが―― 歴史を通じて 基本的に無理です。

その他の回答 (3)

回答No.4

(ん)絶対と寛容が両立できるのか? 「絶対」と「寛容」で検索すると、一杯出てきます。 例えば http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/tolerance/tolerance_abstract5-2.html 法哲学では「カウフマン」を加えると沢山の資料があります。 おそらく、絶対と寛容は両立しないでしょうが、 読むだけでも一苦労します。それではまた次回。

noname#80116
質問者

お礼

場をあらためます。

noname#80116
質問者

補足

ANo.2に対するわたしの応答について そしてまた それ以後のわたしの叙述について 一応認めた上での今回のご投稿と理解してよろしいでしょうか。 ひととおり認めたが 一つの結論として捉えられるであろう《絶対と寛容〔の〕両立》については 疑問が残る――こういう物言いであると理解してよろしいでしょうか。 《読むだけでも一苦労》するようでしたら わたしも暇を持て余しているわけではないので まとまった言論として承ったときに お応えしてまいりたいと存じます。 村上春樹論としての《絶対 / 相対をめぐっての寛容のありかた また 無関心の問題がそこにからめて論じられている》小論を 参考資料に上げられていますので これについて 簡単にお応えします。(村上春樹は たまたま読んでいたのでよかったという運命)。 《ねじまき鳥クロニクル》で 村上春樹の人間学は終わったと見なしております。あとは 娯楽だという理解です。 それまでは 《デタッチメント》に見えようとも 人間関係にコミットしていたという理解です。論者も次のように指摘しています。―― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私的世界にとどまること(デタッチメント)は、社会的世界における人間関係の葛藤を避けるという消極的な理由からのみ選択されているのではなく、不確定な世界のなかで、恣意的に因果関係を設定して責任を誰かに押しつけるよりも、複雑な因果の絡まりを掘りさげ、解きほぐしてゆくという積極的な理由からも選択されている〔そういう意味でのコミットメントな〕のである。 (括弧の中は 引用者) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これが ねじまき鳥の第三巻の結末で 主人公と失踪した妻との失踪後はじめての言葉のやり取りにおいて 作者は 考えることを放棄したと捉えました。(ここがいけないという形では 破綻の跡を残していませんが その経過・結果には 何ら必然性がないと判断したものです)。 ですから 村上春樹論によって《絶対と寛容との両立》をうんぬんすることは わたしにとっては 無用です。(くわしい議論にも応じます)。 そして論者は――作家に賛成の意を表しているわけではないので 取り上げますが でも―― 《問われなければならないのは、寛容の社会的条件である》と締めくくっていることに明らかなように 議論の緒(いとぐち)にあると思われます。(ですから 今後になります)。 わたしの感覚では 《寛容》をわざわざ持ち出してくる必要はないように思います。一方の側面では 《和を以って貴しと為す》を持ち出さなくとも わがくにでは いわゆる情感の共同性が まだ なんらかの形で生きています。そして他方の側面では わざわざ《和を以ってうんぬん》と言わなければならないような情況では たいしたことはないのです。それを言うのは むしろ統治者が自分たちに都合よい文句だから用いるに過ぎません。 といったふうにして 寛容を絶対に対置して考える方法は わたしの見方では――論文になるかも知れませんが―― いまの導入の当否にかんしては 別の議論になるように感じています。 絶対についてのわたしの説明を 失礼ながら まだよく飲みこめておられないのではないでしょうか。絶対は唯一 その解釈表現は多様などなどの命題です。 カウフマンは未読ですが 見解をお示しになれば 出来る限り その内容とご議論についてまいります。  それではまた次回ということで。

回答No.2

絶対とは、一つの概念で、ある意味、時間空間を通して完全性を維持する必要があります。 そうすると、絶対は完成であり、不動という事になります、すると運動もない、永遠に定まったという概念です、これは確かに、創造したり憧れたり、魅力的な概念ですが、逆にいえば、絶対的終焉と同義であり、考えることも、悩むこともできません。 以上が正しいとすると、 今後も、導入は検討されないほうが、宜しいのでは。

noname#80116
質問者

お礼

回答そして不要論をおしえていただきありがとうございます。 抽象的な論理を隅々まで及ぼしておこうとするときの哲学には あまりなじんでいないと告白せざるを得ませんが――すなわち たとえばはじめの一文: 《絶対とは、一つの概念で、ある意味、時間空間を通して完全性を維持する必要があります。》 がよく理解しかねているのですが―― おっしゃっているのは わたしの見かたでは おそらく 絶対の概念をさらに解釈したその表現形式を 問題にされているのではないでしょうか。 つまり 絶対は 片や 《完成・不動・永遠に定まった》として《ある(有神)》という解釈表現と 片や 《絶対的終焉・考えや悩みの無》として《ない(無神・空)》という解釈表現との両側面を 互いに同等に持つという実際を指摘されているのではないか――そのように理解したいように思えてくるのですが。 まだ お応えしきれていないでしょうが もしよろしかったら #1さんへのわたしの応えも参照していただけるとさいわいなのですが。

noname#80116
質問者

補足

この場をお借りして みなさんへ。 わたしの提出した#1での基本原則は かなり 通用するように思われ かと言って いま その具体的な方向・方策を出すと言っても 範囲が広すぎます。 おそらく その原則の中でも触れましたように われわれが いわゆる一神教の人びととお付き合いするときの態度や考え方を いくらか具体的に取り上げておくのもよいかと思われます。 あるいは 日本人のこんなところに いわば絶対の体験や歴史があるのだといった主題でもよいかと考えられます。 ですから 体験集とそれらについての考え方を この場で編んでみるのもよいかと考えました。よろしかったら そういうかたちで さらにあとを続けたいとも思うのですが。 *なお 司馬遼太郎の言う《むろん、絶対などは、この世にありはしません》は この相対の世界には絶対はないという当然のことを言っているのではなく そうではなく 《絶対》を《無》として解釈表現する立ち場であると考えます。いわゆる日本人の立ち場であり 日本人がそんなふうに《無》だとか《立ち場》だとか考えていないとしても そういう見方になると思われます。 言葉はよくないですが わたしたち日本人は 一般にはこの立ち場で その立ち場を クリスチア二スムなどと すりあわせていかねばならないのだと思われます。

  • kigurumi
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回答No.1

質問の中の引用を使って考えてみます。 >ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・ あったとは思いますが、戦争で負けてから絶対が揺らいだとは思います。 >むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 いや あると思います。 例えば、同じ条件下では水は100度以上にはなりません。 万物の法則の一つだと思います。 富士山の頂上では100度以下でも蒸発する? だから、それは条件が違うからですよね。 同じ条件では結果は1つしかない。 だから、万物の法則は絶対。 条件が同じでも結果がバラバラならそれは法則じゃあない。 >絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。 デカルトだったと思いますが、絶対について照明しようとしました。 彼の絶対の存在を証明するには、神の存在を証明しなければ照明できないものでした。 そして、彼は神の存在を証明できませんでした。 ということは、彼の説は仮説であってその仮説を立証するのに不可欠なアイテムの存在をまず証明できていないので、その上になりたつものは、絶対とは証明できていないわけです。 嘘じゃないと説き続けるのは簡単です。 証明を必要とせず「こうだ」と言うのは誰にでもできます。 「私はこう思う」← 簡単ですよね。 なにも珍しいことじゃない。 しかも「そうじゃない こうだ」って同じ宗教なのにいろんな食い違う主張が出て派閥がでて、どっちかの派閥が我慢ならないと暴力を行使し、別の派閥を絶滅させ、異論を唱えるものがいなくなったので、お山の大将 となり、「これで他の論を出すものがいないので唯一だ 絶対だ」ってしたりして。 唯一だから絶対となるってわけじゃないのにね。 唯一が正しいって証明になっていない。 異論を言うものがいないから、真理だって思い込んでいるにしか過ぎない。 暴力で勝ったところで、異論をいう人がいないから異論が無いので、唯一かといえば、異論を言わないだけで、心の中にとどめておく人もいるわけで。 つまり表面上は消えたとしか思えなくても、現実存在しにとは言えない。 確かに恐怖で縛ってきたので、異論があっても言えないほどの恐怖社会だったようです。 異論を唱えればたちまち異端審問により殺すと決まっている人に拷問をして、とことん痛めつけたあげくに殺したりする恐怖社会だったので。 このような恐怖集団が日本に対して「お前らは絶対を持ってない」など、ちゃんちゃらおかしいですよね。 裸の王様。 そもそもその絶対とする神は人工じゃないか 人が作ったんじゃないか。とうっかり口を滑らせ言おうものなら、たちまち「神を愚弄した」として処刑される時代ではなくてよかった。 神を愚弄した じゃなくて 自分が愚弄されたことに腹を立てたわけですよね。 神を作った創造主である自分が愚弄された。 つまり神というハリボテを操っていたのは その人本人。 だからハリボテをつつくと、操作していた人間が出てきて怒る という。 >ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。 いやいや 西洋の稚拙さでしょう。 >身分制のきびしき折り 愛し合った男女が 身分の違いで引き裂かれるというとき 道行きにみづからを追い込んでいったとき かれらは 絶対を見ようとしていたかも知れないと思います。 人間界に差別は無い、人間界にあるカーストは人間というもののみ。 ということに気づきだしたのかもしれないですね。 >死を覚悟の譴責を家来としておこなったりする場合も見られるように思います。 既存の概念に疑いを持つと、その既存の社会では生存が危うくなるってことですね。 だったら、刷り込まれたものを信奉し、眠りこけるのが賢いのか。 それでは眠れないから目がさえて「おかしい」って思うわけですよね。 で、改革が起こる、と。 >たとえばクリスチア二スムやイスラームとの付き合いでは わきまえておいたほうがよいと思ったりします。 ユダヤ教の場合は、神が選んだ民特定の規定が存在します。 バラバラだったものを律法により個としてまとめたわけです。 律法は日本人にはなじめないものですが、彼らを個として識別することが容易になり、またその律法により彼らは守られていたりします。 一日1000くらいの決まりごとがあるらしいですが、その中に身を清めるという決まりごとがあった。 イスラムもそうだそうですが、この身を常に清めるという習慣、ペストの流行の時に際立った効果を発揮した。 ユダヤ人だけ常に身を清めていたのでかからなかった。 ところがキリスト教徒たちは、かからないユダヤ人を悪く疑ったわけです。 彼らが広めたと。 悪魔だ と。 それで、神の律法を否定したキリスト教が、神の律法を重視し守ったユダヤ教徒を迫害した。 ここにユダヤ教徒とキリスト教の神に違いがあることが明確にわかります。 明らかに違う。 過ぎ越しの祭りと同じ風習は日本にもあります。 神が伝染病をはやらせ悪しき人々を打った。 その時、神の民であるという証をもっていたものの家だけがその災害を免れた。 ユダヤ教の神が悪しき人々を殺したというのが、ペストの流行なのかどうかはわかりませんが、、、、、 まあ ともかく掟を守っていたので、ユダヤ人は死なずに済んだわけです。 で、幼稚園では「食べる前に手を洗いなさい」としつこく言いますが、言われないとついそのまま食べてしまう子もいると思います。 大人でもそうでしょう。 でも「神の民の掟だ」と集団でなっていたら、必死で守るのではないでしょうか。 これが絶対としたとき有効に作用する一例。 で、10戒も絶対です。 でもイスラエルは徴兵制度があり軍隊があります。 殺してはならないと10戒で決まっているのに、戦っています。 おかしいですよね。 いえ、おかしくないです。 何故なら10戒律は神の民にのみ適用されるものだから。 神の民どうして殺しをしてはならない として共同体の治安を統率しているわけです。 だから神の民ではないものが侵略し奪いにやってきたら殺しても構わないわけです。 というわけで、イラクはキリスト教が攻めてきたとき、テロを起こして異教徒を殺して自分達から奪おうとする異教徒を追い出そうとしたわけです。 でも、多勢に無勢 士気が落ちます。 それで、絶対のシンボルであるアッラーを持ち出した。 この絶対はユダヤ教の歴史においても、多勢に無勢の時に効果を発揮しました。 また コンスタンティヌスの場合も、今まで異教のリーダーが使ってきたXPのシンボルを絶対のシンボルとして、軍の士気を高め勝ちました。 ということで、人は絶対を知ることは無くても、心を高揚させ普通以上の力を出せるわけですね。 絶対という概念は、人間の自己防衛、生存の本能という留め金(リミッター)をも外す。 支配者にこれを操られ、支配者の目的の方向に目線を向けられ、リミッターを外されると、、、、、 支配者は人間ですから絶対じゃない。 支配者の目線は絶対じゃない。 でも 絶対という魔法の言葉に人は操られることもあり、それにより悲劇が起こることもある。 で、操られた人は リミッターが解除されたあと言う。 「私は貝になりたい」と。 絶対の届かない深い深い海に住む貝になりたい と。

noname#80116
質問者

補足

回答をありがとうございます。 初回から申し訳ないですが――みなさんにも申し上げたいのですが―― 導入にあたっての基本的な考え方が わかりました。論理と実際の二側面があります。 (A)絶対をただ概念として 数学の論理のごとく 認識することを基本とすること。 (B)ただし この絶対が実際の生活に 何らかの人為的な原因によって 社会の側から 否応無く 入ってくる場合がある。このときには 《絶対がある》と言うのと《絶対はない》と言うのと 両方とも 対等にして同等な《絶対》の解釈であるということ。 《絶対》を 神と言おうと その神の名を何と言おうと 物質(これは 第一質料として 抽象的な概念である)と言おうと 原理・法(ダルマ)・空・無と言おうと すべては 解釈として 互いに対等であるということ。 《きみたちも 絶対を持て》――《いやだ 諸君のほうこそ 絶対を棄てろ。 / あるいは そちらのではなく こちらの絶対が絶対だ。これを頭に抱け》の応酬があるとき 役立つと思われる。 この見解はすでに持っていたものですが 今回 導入を考え この最初の回答を読んで わたしの内で明確になりました。(うそみたいですが。謀ったみたいですが)。    *** (1)《〈日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分が・・・〉あったとは思いますが、戦争で負けてから絶対が揺らいだとは思います》と述べられたのは 不案内だと思いますが いかがでしょうか。 (2)水の沸騰を例とした《万物の法則》――これは 自然科学の経験領域にかんする法則(普遍性)だと思います。絶対は この経験合理的な普遍性の領域を超えた普遍性〔の想定〕だと思うのですが。法則も この絶対に関係する / その絶対の力の現われだという解釈もあるでしょうが。 (3)絶対は証明するものではなく ただ想定するものだと思いますが。――神の存在の証明は 触れません。長くなるし あまり実り多いとは思えません。 (4)絶対もしくは神について《嘘じゃないと説き続ける》問題は 上に触れました。個人の信仰の問題と 社会の宗教慣習の問題との区別として。宗教教義が 個人の信仰の内容を どういう目的からにせよ 利用する。内容が一致する(もしくは 一致させられる)なら なかなか逆らえない。(もともとは 結社も素朴な集まりだったのでしょうが)。 (5)ここに想定された《絶対》は 《唯一》です。その呼び名としての中味は それぞれですが。その意味では 異論・異端すべて 同等であると同時に 明らかに妥当でないものは 捨てられていくでしょう。《恐怖で縛る》のも論外でしょう。――とは言っても 主観の問題であるからには 人びとの心は 案外 げてものを好むと言わざるを得ないところもあるというのでしょうか。(わかりません)。 (6)《そもそもその絶対とする神は人工じゃないか 人が作ったんじゃないか。》――冒頭に述べた基本原則からすると (a)絶対は想定である。(b)神は 主観による表現の一形式である。こう確認しておきたいと思います。――《ヨーロッパの荘厳・・・いやいや 西洋の稚拙さでしょう》も いまの原則のもとにおさめたいと思いますが。 (7)《人間界に差別は無い》は 絶対の想定によって わかりやすく 捉えられるのだと思います。 (8)家臣が藩主に叱責をなすのは 《改革が起こる》こととつながりますが そのとき家臣は 絶対の概念を頭に(あるいは心に)描いたのではないかというところに焦点があります。 (9)ユダヤ教徒とのお付き合いも視野に入れなければいけませんね。細則については いま割愛(といいますか よくなじんでいませんので)させていただきます。 (10)十戒によって《殺すなかれ・貪るなかれ・盗むなかれ・・・》と表現されたから その内容が絶対もしくは公理であるというわけではないということ――これが わたしたちの基本原則でした。 (11)《絶対という概念は、人間の自己防衛、生存の本能という留め金(リミッター)をも外す。》――おそらく そのあと《支配者にこれを操られ、支配者の目的の方向に目線を向けられ、・・・》と書いておられるように 社会的なのだが 外から強制されるようにして 絶対を持たせられる事態 すなわち わたしたちの基本原則の問題として捉えました。 (12)《絶対という魔法の言葉に人は操られることもあり、それにより悲劇が起こることもある》そのことが 少なくなっていきますように。 ありがとうございました。

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     一般論です。つまり 一般論として提出することができるほどだという観察があります。  すでに一度 問うたことがあります。   Q:《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか    http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3061598.html  たとえば 仏教では 人間を初めとして有情には 仏性があると言います。例外がなければ この事態は 絶対なのではないですか。  八百万の神々は 絶対でしょうか。そうでないでしょうか。あるいは わざと あいまいにしておくのでしょうか。もしそうだとすれば それは なぜでしょう?   曖昧にするということは 絶対と相対との区別を知らないわけではない。知っていて 最後の結論を言わないという事態であるはづです。    司馬遼太郎が 短い文章として 《絶対》の概念と日本人という主題で語っています。参考にどうぞ。   http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html (第一段落の《(開高健への弔辞)》のみで いいと思います)。  このように効用もあるはづですが もし理解したという姿勢を見せないのだとすれば それは なぜでしょう? おしえてください。

  • 《絶対》という概念を使いこなすようにならねばと

     ・・・思います。そのことをめぐって 問います。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。  すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。  たたき台です。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の二重構造:   ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠   ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果       関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に       すら用いられることがある。        たとえとして都合がよいのだと思われる。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • 《絶対》という概念でなぜ共通の理解が得られ難いのか

     ふたたびの問いです。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。  たたき台を示します。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造:   ○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭:      : これは 無根拠である。      : これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。      : そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか      についての疑問すらが起きる。      : 《神》とも《無い神》とも言える。         ○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:      : すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の      原野)》に移行している。      : 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに      する場合にすら用いられることがある。《真理》として。      : それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり      《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に    《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》  を成らせていると想定され そして    《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》  が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • 日本人は・・・

     小説家の文章をふたつかかげます。  これらにわれわれが寄ってたかってツッコミを入れることをとおして 日本人論の深みを互いに問い求めることが出来れば さいわいです。  自由にご見解を述べてください。例によって質問者は自由に(つまり 互いに対等の立ち場で) 批判をも交じえて コメントを書き込みます。むろんそれに対して反論してください。  なお 次の遠藤周作における《黄色い人》は 特には われわれ日本人を指して言っているはずです。  ▲ (遠藤周作:黄色い人) ~~~~~~~~  神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竈(かまど)で焼かれました。  あまり待ちどおしいので 五分もたたぬうちに竈をおあけになりました。もちろんできあがったのは まだ生やけの真白な人間です。《仕方がない。わしはこれを白人とよぶことにしよう》と神さまはつぶやかれました。  こんどは失敗にこりて うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると 真黒に焼けすぎた人間ができているではありませんか。《しまった。でも これは黒人とすることにしよう》。  最後に神さまはいい加減なところで竈をひらかれました。黄色くやけた人間が作られていました。《なにごとも中庸がよろしい》。神さまはうなずかれました。《これを黄色人とよぼう》。(童話より)    我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非   らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか)   れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は   汝を口より吐き出さんとす。(黙示録)    (遠藤周作:『黄色い人』 冒頭)  ▼ (司馬遼太郎:《絶対》なる概念と日本人)~~~~~  http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html   近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。  日本に存在しつづけてきたのは、すみずみまで相対的世界でした。  神道、山々や谷々の神々、あるいは仏教という相対的世界を最初から是認した思想。  山々や谷々の神々が神遊びをするように、神遊びとしての日本特有の私小説がうまれても、絶対という大うそを、つまり絶対という「神」---これは聖書の「神」のことですが---という思想、又は文学的思考----大文字のGodと同じ次元での大文字のFiction---を中心にすえるという習慣は、日本においてはカケラもありませんでした。  いうまでもありませんが、"あの部分はフィクションです〃という意味の虚構ではありません。神が絶対なる、ごとく、同じ意味における絶対の虚構のことであります。  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。  (開高健への弔辞)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 《絶対》と日本人

     どう扱っているか? 早くうまく扱うようになって欲しいと思うのですが どうなのでしょう?  《相対・有限・可変性の経験世界》とそれを超える《絶対・無限・不可変性・非経験・非思考の場》とです。  ○ 司馬遼太郎が短い文章として 《絶対》の概念と日本人という主題で語っています。参考にどうぞ。    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  (第一段落の《(開高健への弔辞)》のみで いいと思います)。  ○ すでに同じ趣旨で問うたことがあります。  【Q:《絶対》の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3738300.html

  • 男性言葉、女性言葉、年恰好や身分までの判断

     日本語を勉強中の中国人です。金田一春彦の「日本語」を読んでおります。そのなかに次のような一節があります。 『尾崎紅葉の名作「金色夜叉」の巻頭、カルタ会の場面、富豪富山唯継の指に燦然と輝くダイヤモンドを見て、一座の子女がドヨめくところが、こういうふうに写されている。 「金剛石(ダイアモンド)!」 「うむ、金剛石だ」 「金剛石??」 「なるほど金剛石!」 「まあ、金剛石よ」 「あれが金剛石?」 「見たまえ、金剛石」 「あら、まあ金剛石??」 「すばらしい金剛石」 われわれ日本人はこれを読んで、どれが男のことばで、どれが女のことばだということが大体わかる。年恰好や身分まで想像がつく。そうして、それが当たり前のことだと思っている。が、こういうことは、西洋の小説ではできないのだそうだ。つまり、西洋では、男のことばと女のことばとは、文字で書くと区別がわからなくなってしまうからだ。』  文中の九つの短い会話の文はどれが男性の言葉で、どれが女性の言葉なのか、教えていただけないでしょうか。それから、年恰好や身分までも想像がつくのでしょうか。皆様の判断の根拠も教えていただければ大変助かります。  また質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 終身刑導入した場合の疑問

    死刑存廃論で、死刑の代替などで終身刑の導入がよく出ます。 既に 『“相対的“終身刑(無期懲役が相当)』 はあるので、仮釈放をの可能性ない 『“絶対的”終身刑』 を指しています。 私は死刑存置派なのですが、絶対的終身刑にも興味があります。(死刑と無期の差が大きいため) 絶対的終身刑存置国は、アメリカ、オーストラリア、イギリス、中国の4ヶ国。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E8%BA%AB%E5%88%91#.E4.BB.AE.E9.87.88.E6.94.BE.E3.81.AE.E5.8F.AF.E8.83.BD.E6.80.A7.E3.81.AE.E3.81.AA.E3.81.84.E7.B5.82.E8.BA.AB.E5.88.91 ただし、服役態度や恩赦で減刑もありえるので、厳密な終身刑存置国は懲役○百年があるアメリカのみです。 日本で 「死刑を廃して」 導入した場合、社会からの隔離というより、罰としての意味合いで採用が認められるはずです。 当然、娯楽が殆ど許されない、終身刑囚同士の会話さえも制限される、非常に厳しい環境になると思います。 簡単に調べてみましたが、疑問が出てきました。 質問: 終身刑囚は毎日どういった日々を過ごす事になるでしょうか? 終身刑囚は自暴自棄になったりしないでしょうか? 刑務官は終身刑囚らにどう接するべきでしょうか? 終身刑存置の4ヶ国は、どういった対応をしているのでしょうか?

  • 絶対値という概念の効用について

    絶対値という概念がないと理解できないことというものはあるのでしょうか。必ずしも実用的な意味だけではなく絶対値という概念なしには構築不可能な理論体系にはどのようなものがあるのでしょうか。

  • 《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか。

    なかなか理解できないのでしょうか。そんなことはないでしょうか。 できないとすれば なぜでしょうか。どうすれば よいとお考えになるでしょう。

  • 文明の概念を導入した思想家は?

    ――文明という考え方は、18世紀フランスの思想家によって「未開状態」の対極にあるものとして展開された。―― こういう記述に出合いました。 ここでいう思想家とは誰ですか。何という著作物で論じられていますか。 よろしくお願いします。 なお、断るまでもないのでしょうが原文は読めません。