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疑心暗鬼が止まらない
長文です。 私は中学生の始めの頃までは友達ととても楽しく過ごしていました。 毎日四人ほどの友人と部活を楽しんでいました。 そして別の部活の子がこの部に入ってきましたが、それは四人の 小学からの親友らしく、他の人とも仲良く話していました。 私には少しちいさいいじめらしき物がありましたが、慣れてその子と 二年生になってようやく仲良くできるようになりました。 しかし二年生の冬の頃、突然その子を他の人が迫害するようになりました。 なぜか理由は今だ分かりませんがとても驚きました。 最初の頃は別に気にせず私は話していましたが、 友人からの脅迫に近い行動で、どうしようもなくなりました。 少しの間だけだったのになぜこんな事が起こったのか私にはわかりません また、三年生になって迫害された子を除いた人たちと 昔から仲の良い人たちと楽しく過ごしていました。 しかし、また突然一人が迫害されるようになりました。 その子と幼稚園から幼馴染だった子までが軽くあしらうほどになっていました。 その子は完全に迫害され、塾だけに通い、今はいい高校に通っているらしいです。 私はやはり止められず流されるままでした。 なんでこんなに人間という生物は身勝手で汚くて残酷で なんでこんなふうなものにならなければいけないのか よくわかりません。 今は高校で今にもいじめられそうで怖くてたまらない 毎日を送っています。 話す相手がいても信じられず疑う事しかできません。 最近はよく眠れず、悩み続ける毎日です。 私は俗に言うマイナス思考なのでしょうか。 それとも私はただ単に取り越し苦労をしてるのでしょうか。 明日も起きて学校に行くのが怖いです
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#2です。レスありがとうございます。下記に参考論文を載せます。ご参照下さい。 ◆本音と建前 人は、俗に言う「建前」と「本音」があります。建前とは、頭の中で考える考えであり、本音とは腹底の心での考えであります。つまり、人というのは特殊な例を除き、二つの心を常に持ち合わせているわけなので、一つであるという勘違いをしないように注意したいところです。 さて、建前がやたら多いという人が世の中にいますが、一緒にいてどうでしょうか?何を言いたいのか分からない、何を考えているのか分からない、本心隠してええ格好しようとしている、キレイごとばかりでつまらない、と思われると思います。 逆に、本音がやたら多いという人も世の中にはいますが、一緒にいてどうでしょうか?ジコチューだな、とか、本能でのみしゃべってるな、とか、周りの事などおかまいなしだな、とか思われると思います。 建前の多い人、本音の多い人、両方とも困った人であると言えるのではないでしょうか。結論から言うと、相手や状況、話の流れ具合等をしっかり勘案した上で、「建前」と「本音」を自分で選別して、行動、発言していくことが大事であると考えます。当然、会話では、いちいち考えて選別して、では間に合いませんので、瞬間的な判断が要求されます。何を話すべきか、何を伝えるべきか、今伝えるべきなのか、等々を瞬間的に判断するのです。これは、少なからず、経験も必要です。経験も必要という事は、当然、失敗もある訳ですが、この失敗を怖れず、チャレンジすることが重要になります。本音を言うべきところを、建前を言って失敗すること、建前を言うべきところを、本音を言って失敗すること、これは、ある種、場の空気を読んでいかに適切に判断するかが問われてくるわけで、あとは場数という経験を積み重ねることで、こういった失敗を減らすことは可能になるかと思います。簡単ではありませんが、これを意識して行っていけば、建前と本音の使い分けというものが、淀みなく行えるようになっていけると思います。 建前と本音をうまく使い分ける為には、経験も、必要と述べました。それでは、他に何が要素として必要なのでしょうか。それは、まず、自分を知ること、そして、周囲に興味、関心を持ち観察すること、この2点が挙げられます。 自分をもし知らない人であれば、今自分が何を考え、何を思い、何を伝えたいのか、すら分からないので、仮に言葉として伝えたにしても、それが建前であったのか、本音であったのかさえ、怪しくなってしまい、結果として、うまく表現できなかった、失敗した、という結果に陥る可能性が大となります。また、自分を知らない、という人は、自分に対して自信もないので、周囲への興味、関心というよりは、自分が周囲にどう見られているか、どう評価されているのか、に執着してしまい、結局、場の空気を読めない、という結果になってしまうと想像され、周囲への観察は疎かになります。 自分を知るには、善いことをすること、と、失敗したらしっかり反省すること、が必要になります。 善いこととは、人に席を譲るとか、大きな声で挨拶をするとか、困っている人を助けるとか、であります。そして、どんどんやっていくうちに、あることに気がつくと思います。それは、人に対して善いことをすると必ずと言っていいほど、見返りを求めている自分がいることに気づくということです。何か親切をして、普通に御礼の挨拶を貰えればいいのですが、逆に挨拶なしで立ち去られると、怒りに似た感情が吹き上がり、さらには、相手を罵るまでになってしまう事があります。善いことをしておきながら、腹底の心で悪い感情を造り上げているとは、善をしているのか、悪を造っているのか、分からなくなってきます。人は、善いことをしますが、純粋な善はできない、というのが真実です。真実な善ができない中で、それでも善を続けていく事で、見返りを求めている、悪たらしい心が見え、自分の本性、つまりは自分を知ることができるようになります。この嫌らしいかもしれない本性を積極的に受け入れていく事で、自分を明確に知っていくことができます。 自分を知るには、もう一つ重要な要素として、失敗したらしっかり反省すること、というのがあります。人は、失敗する時に、得てして、利己的で悪たらしい心が作用する場合が多いものです。そういった醜い心で犯してしまったが為に、割と責任を認めたらず、結果としてしっかりした反省に至らないケースが多いのです。ですから、反省に至らない人というのは、自分の醜い心を見逃す場合が多く、自分を知るチャンスを逃すことになるのです。これは、非常に勿体ないことです。ここは、勇気を持って、積極的に失敗の責任を認め、失敗を受け入れることで、反省をし、自分の利己的で悪たらしい心を嫌というほど見つめて貰いたいものです。そうすれば、確実に、自分と向き合え、自分の本心、本性を知ることができるのです。 善いことをすること、反省をすること、は一日、二日程度で良いわけではありません。永遠に努力していく事が大事であるし、し続けなければ全く意味も、成果も得られません。日々、続け、自分の本性を知らされていく中で、当然自信もつき、人と接していても臆することなく渡り合えるようになっていくものと推察されます。そうなれば、あとは経験のみ。建前と本音をどういう雰囲気の時に、どういうタイミングで、どちらを出していくべきか、が感覚的に分かっていき、いつのまにか建前・本音を選別しきる達人になっていることでしょう。 ◆他人の所為 人とは、どういうものでしょうか。物事をミスなく完全に遂行する能力を、常に持っている存在でしょうか。人間は、不完全な存在です。どんなに偉大だ、と言われた人でも過去に必ず失敗を犯してきています。人が生きる、という事は、「失敗」を重ねていく、という事だと思います。何から何まで、完璧にこなし、「失敗」をしない人が、もしいたならば、その人は人間でないか、大嘘つきか、のどちらかでしょう。 人は、失敗した時に、すぐに言い訳を言うか、他人のせいにするか、をする事で、自分のせいである事を回避しようとします。意識的にする場合と無意識にする場合とがありますが、いずれにせよ、人間の醜悪の極みの部分・一面と言えると思います。相手の人からすれば、その人の醜態たる態度は、嫌らしくしか映らないのにもかかわらず、その張本人は当たり前のように、言い訳や他人のせい、を主張します。 なぜ、人は、明らかに自分の失敗であるにもかかわらず、自分の失敗を認められないのでしょうか?幼稚園・小学生時分は、恐らく、大人である今よりは、失敗に対して真摯に向き合い、素直に、「ごめんなさい」ができたのではないかと思います。ところが、大人になるにつれて、失敗したら自分の責任と認め謝る、という、当たり前の事が容易にできなくなっているのです。様々な要因は考えられますが、自分の失敗と認めるのが、「恥ずかしい」、「怖い」、「苦しい」、「嫌だ」、「プライドが許さない」、「評価が落ちる」などが挙げられると思います。 他人のせいにし、自分のせいと認めなかった場合は、一瞬、自分の責任を回避できたので、楽な気持ちになれたと思いますが、実は、これは錯覚です。実は、自分の責任を他人に転嫁する事で、自分の心の中に記憶として残り、何かのきっかけで、他人のせいにしてしまったその記憶が再び現れたりして、自分を苦しめ、一生引きずったりします。自分のせいなのに、他人のせいにした行為は、当然、不条理な行為です。ですから、その不条理を自分の記憶として、残す事は、自分の中で解決された事にはならず、未消化状態にある、と言ってもいいかもしれません。 他人のせいにして、人生を歩んできた方は、頭の中が結構モヤモヤしていて、大事な問題に直面した時に、しっかりした判断ができない人なのではないかと思います。これは、何事も他人のせいにしてきた為に、物事の善悪が分からなくなってきていて、判断一つにも対応できない、のだと思います。一つ一つの問題に責任をとってこなかった、という人生の蓄積から、判断できない、とも言えるでしょう。 他人のせいにする事で、もし一生苦しむのであるなら、これは大変なことです。それでは、どうしたらいいのでしょうか?答えは簡単です。自分のせい、にすればいいのです。つまり、何か失敗したり、自分に災難が降り懸かってきた時は、自分の至らなかったせいで、こういう結果が自分に起きた、と受け止め、受け入れればよい、という事です。人というものは、不思議なもので、積極的に自分の失敗を認め、受け入れる、と、後に残る事はなく、スッキリするものなのです。(スッキリとは解決している、という事です)「な~んだ、私が悪かったのか。それでは仕方ないよね。自分が馬鹿だったんだから。自分に怒ってもしょうがない。」という感じになります。表面上、失敗を認めつつ、内心、あいつの責任も少しはあるよな、と思っていたなら、スッキリすることはありません。全面的に責任を認めることが、重要なのです。 人間というものは、存在しているだけで、周りに影響を与えていて、時に悪い影響も与えています。本人が、悪い影響を与えようとしていなくても、相手がどう捉えるかは相手に判断が委ねられているので、時に相手を怒らせる場合があります。この場合、相手が勝手に怒ったと捉えるのか、私が気に障るふるまいをしてしまったと捉えるのか、の二つが考えられますが、自分の責任と捉えるのが正しい、わけですから、後者の私が気に障るふるまいをしてしまった、になるわけです。 絶対に、私は悪くない、と思っても、まずは自分に落ち度はなかったか、をしっかり検証して下さい。1%でも落ち度があれば、それは自分のせいにすべきことです。もし、相手にも落ち度があれば、自分の落ち度の反省の弁を述べつつ、指摘してあげればいい事です。他人のせいにする前に、自分のせいではないのか、の謙虚な姿勢が必要であり、これが真実の生き方というものなのです。 ◆自分のせいにしても、少しも辛くない 他人のせいではなく、自分のせいにすると、人は、とても生きやすい人生を歩めます。これは、紛れもない真実であり、これに反する事ほど愚かなことはなく、しかし、人は、故意のいかんにかかわらず、得てして、他人のせいにしてしまう傾向にあります。 自分に災難が降り懸かります、そして嫌な感情になったりします。こういった場合、人はどう対処しようとするのでしょうか?こういう状況に置かれた、あるいはこういう状況に陥ったのは、自分のせいではなく、他の誰かのせい、周りの環境のせい、社会のせい、生い立ちのせい、等々、なんでもいいから責任転嫁し、自分の負担を少しでも軽減しようとします。これが正しい、正しいに違いない、仕方ない、という思いにしがみつき、自分の思いや行動を肯定しようとします。そんな中、もし、「お前のせいだ!」と直言されたなら、どうな思いになるのでしょうか? 「え~、私は悪くないのに、どうしてぇ~! でも、私が悪いの?!」 ここで、自分のせいであると認め、受け入れていない人は、とてつもない苦しみの中に落ちていきます。とても辛い状態です。災難の責任は、自分ではない、と思っているので、他人から責任の所在を指名された事は、青天の霹靂であるし、認めたくない事実です。しかし、これが現実。なぜ、私が責任を負い、苦しまなければならないのぉ~!、という蟻地獄に引きずり込まれていきます。 ここで、何が起きているのか。この人は、実は、自分を美化し、自分は災難の責任を負わなければならないほど、惨めで情けなく能力がない人間ではない、という間違った妄念にかられて、現実の自分を受け入れられなく、そして、必要以上に現実の自分を責め立て、攻撃し、一人上手のように、消耗していっているだけなのです。美化した自分と、現実の自分のギャップに苦しみ、なおかつ、その現実の自分を認めたくないために、自分を責め立て、追い込んでいる、愚か者にしか過ぎない、という事です。 では、どうすれば苦しみから回避できるのでしょうか? それは、まず、必要以上に自分を美化しない事、そして、災難が起きたら、自分にも責任がある、と引き受ける、あるいは認める事、が大事です。そして、災難を引き起こした等身大の自分を、事実として認め、受け入れ、必要以上に責め立てない、ことです。自分が災難を引き起こしてしまう位に元々、愚かしい人間である、という事が分かっている人は、「な~んだ、今回の1件は馬鹿な私のミスから起きたものなのか。ハハハ、しょうがない自分だなぁ。ま、しかし、仕方ないよね、飾っても意味ないし。周りには迷惑をかけたから謝っておかなきゃ。」という感じで、素直に事実を事実として受け止められます。こういう姿勢で人生を歩んでいる人は、なにか災難が起きても、苦しんだり、辛い思いをしたり、引きずったりすることは、極力少ないと推察できます。 人は、浄い存在ではなく、不浄な存在です。その不浄な自分を事実としてしっかり受け止め、受け入れてあげる事がなによりも大切なことです。そうなれば、何かハプニングが起きたとしても、一喜一憂することなく、現実の自分と向き合い、一つ一つの問題をクリアできる逞しい生き方ができるようになることでしょう。 ◆反省ができない人間 「反省」とは、どういう意味であろうか。 『自分のした言動を省みて、悪い点を認め、改めようと考えること』 概ね、上記のような意味であろうと思います。ところが、人間というものはなかなか反省できないものであります。表面上、とか、口先だけでは、「反省してます」と、殊勝な態度はとるものの、内実は裏腹である場合が多いものです。 日常において、反省しなければならない機会は数多(あまた)存在します。例えば、人と会話していて、ついつい失言をしたり、お酒が入って暴言を吐いたりすることなどです。明らかに、自分が悪く、相手に謝らなければならない、のにもかかわらず、自分の責任として相手に謝るのが嫌な為だけに、その事実を無かった事にしたり、無視したり、あるいは、相手が悪かったんだ、とねじ曲げたりして、反省をしない場合があります。これは、単に自分が悪かったんだ、という自分の責任(罪)を認めたくない、受け入れたくない、という自己中心的な考えに基づくものと考えられます。 自分の責任と認められない人は、苦しみの人生が待っているので、この苦しみから脱却するには、まずは、自分の責任と認めることが肝要です。次に、自分の責任であると認められると、その事象について振り返り(回想)をします。振り返りをしていると、「あの時、あ~いう事を言ってしまったのは良くなかったなぁ。相手を傷つける言葉だったかもしれないなぁ。」と、自分の言動の悪い点が見えてきます。悪い点が見えてくると、これからは、そういった軽率な言動は慎まねば、との考えに至ります。この一連の行動を、「反省する」と言えると思います。 人というものは、縁が来れば、悪い行動をしたり、悪い発言をしたりする所があります。反省して、自分の悪い部分をしっかり知っていく事は、その悪い部分を認識しながら、その悪い部分が発動しないように注意しながら、生活することができるようになる、という事です。自分が悪さをする人間であるという事を知っている人が、極力悪さをしないように注意するのは、実は、こういった人は、反省がしっかりできるタイプだからです。逆に、反省ができないタイプは、自分の悪さ加減を知らないので、何度も悪い言動をしたりして、失敗を繰り返す、愚か者であったりします。 表面上の反省は、何も意味を持ちません。次回に繋がる反省だけが反省と言えます。ここで、注意しておきたいのが、自分の中だけで完結させる反省です。心の中で、十分反省したのだからいいのではないか、というものです。これでは、反省したことにはなり得ません。では、何が欠けているのでしょうか?それは、相手への謝り(謝罪)です。相手の前に行き、声を出して謝る、これが必要不可欠です。この行為をした事ではじめて反省が完了したと言えるでしょう。謝った時点で、自分の責任である事を自分に知らしめた訳ですから、謝る行為を外すことはできません。 反省し謝罪する、という行為は、現代において、非常に軽視されていて、どちらかと言うと嫌われていると思います。しかし、この行為の素晴らしい所は、それをする事を積み重ねていく事で、自信がついていくことです。もし、自信がないという方は、謙虚に反省することから始められるといいと思います。 ◆他人の評価は気になるものか 自分は、周りにどう見られているのだろう? 人は、人と接する中で生活を送っています。ですから、人からどう見られているだろう、とか、どう評価されているだろう、とかが気になったります。時には、それが気になり過ぎて、人前でカチコチになったり、だんまりを決め込んだり、人が怖くなったりもします。こうなってしまうと、人間関係がどうだ、という問題以前に、自分をどうにかしなくては、になってしまいます。 さて、ここで問題にしたいのは、他人の評価をそれほどまでに気にする必要があるのか、他人の評価が当てになるものなのか、という点です。ある部下が、出世街道まっしぐらの上司に対して、「私は、あなたについていきます。」と賞賛したとします。ところが、その上司がある失態を犯し、降格させられました。その部下は、翌日から手のひらを返したように、その上司に対して冷たい態度をとるようになりました。これは、その上司が出世街道にある時は、部下にとって都合が良かったので賞賛、つまり良い評価をしていた訳です。しかし、その上司が降格となり出世街道から外されたと分かるや否や、冷遇、つまりは悪い評価を下した訳です。この部下の評価基準は、自分に利益があるか否かの「ご都合主義」で行われているわけで、彼の評価は全くと言ってよいほど、当てにはなりません。 お酒を飲んでいる時は褒めちぎるのに、普段は何かとけなす人もいます。人の評価というものは、気分一つ、状況一つでも変わるものなのです。逆に、自分が他人を評価する場合はどうでしょうか?自分の利益になるかどうか、損得勘定でどうか、自分がその人を好ましいと思っているか、というように、自分の都合で決めている場合が大半だと思います。欲目を入れないで、絶対的な評価をすることなど、人間にはできないのにもかかわらず、人は、他人の評価に戦々恐々となり、気にしてしまうものなのです。 他人の評価は当てにならない、という事をしっかり認識していないと、その評価に一喜一憂してしまい、振り回される結果に陥ります。これは、正直、愚かしい事です。当てにならないものを、当てにして、勝手に落ち込んでいるわけですから、まさに一人上手です。所詮、人の評価にしか過ぎない、当てにならないものだ、と分かっていれば、いちいちくだらない他人の評価など気にならず、堂々と自分の人生が歩めるはずなのです。(他人の評価は聞かなくてよい、という意味ではありません。人間関係を壊せ、という意味でもありません。他人の評価は当てにならないので、振り回されるのは馬鹿らしい、という真実、を知って欲しい、という意味です) ここで、最後に注意したいのは、他人の評価の中に、良い指摘が入っている場合もあるので、そういった内容にはしっかり耳を傾けなければならない、という事です。他人の評価も、一参考意見としては、自分の為にはなるので、無下にするわけにはいかなく、自分の成長の為には、大切にするべきです。 ここで述べたかったことは、偏に、他人の評価に振り回され過ぎて、自分を見失い、相手に合わせる事でしか、自分の存在を認められない、という状況に陥るのは、愚かしい事ですよ、という事です。
- SATETU
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世の中には眼もくらむような善人も居れば、腹の底から腐りきった悪人もいます、他人の幸せを心から喜ぶ人も、妬みから殺人に至る人も居ます。 片方ばかり注目してはいけません。 そして友達は良く選びましょう、そして類は友を呼ぶ。 良い人間になって良い人間とだけ付きあうのが一番楽ですよ。 それからイルカも気に入らない奴を虐め殺す奴が居たり、育児放棄する猿も居たりと、動物にも善い動物と悪い動物が居ます、動物をあまり美化すると人間蔑視に繋がるので良くありませんよ。
- true-1
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#2です。レスありがとうございます。質問者さんの感性は、私と通ずるところがあるように感じました。 >私は昔から何故人間は他の動物と違って残酷な事をするのが楽しいのか分かりませんでした。 人間には煩悩というものがあり、その中に、財産欲、名誉欲、色欲、食欲、財産欲というのがあります。この欲に負けて生きるという事は、本能に隷属して、私利私欲で活動するという事です。これは、客観的に見ることができるならば、とても汚い光景です。しかし、欲まみれで生きる事に対して、過去の歴史において強く批判を立てた事実が希薄であったがために、現代においては、「お金儲けって、悪いことですか?」と、村上ファンドの村上氏がのうのうと発言するような、最悪の風潮になってしまっている、のが現状なのかな、と思ってます。 名誉欲は、言い換えれば、優越欲ですが、周囲より優れていたい、他の生物より優位でいたい、自分さえ優位であればいい、というこの煩悩が、恐らく、残酷行動を行わせているのではないかと思います。 >なぜ必要最低限の欲求以外で別の生き物を殺すのか。 欲、つまり欲望の上限がどこまでで、それ以上について追求したら、人として恥ずかしいですよ、という教えが、過去の歴史を紐解いても、かなり希薄であった、という原因から、現代においても、欲まみれ人間が横行し、闊歩しているのではないでしょうか。 >なぜ他の生物の事も考えないで無駄に自分の種を後先考えずに必要以上に繁栄させ、今滅びようとしているのか。 これは、同感です。自分達さえ良ければいい、という浅い考えしか持たぬ人間が、政治に携わっている事により、どうしても次世代、次次世代以降の人間のため、そして、他の生物のため、地球のために、考えることが、全人類的に想起されることがないのでしょう。インディアンの方々は、7世代先の子孫達の事を考えて、今を生きている、と言われています。 >他の生き物達は確かに自然の移り変わりなどで絶滅していった者達もいます。 >しかし人間は、その生き物が自分に害を加えるわけでもなく、自分の食べ生きるための衝動でなくて、たわいのない遊びやプライド、単なる服装の為だけに大量の命を奪い、そして満足している。 >気味が悪いです。 私利私欲、自己中心的、欲まみれの活動、これらが悪であるという認識、に至らねば、このどうしようもない無軌道の人間社会を変革することは不可能であろうと思います。正直、現代に生きる人間は、特に先進国に生きる人間は、不気味、であり、気持ち悪い存在です。 >人間みたいに見た目を気にして必死に見栄えだけを良くしようとしているほうがよっぽど汚らしくて残酷です。 人は、生まれたら、必ず一度は死にます。ですから、生きている間に、どれだけ見栄を張り、名誉や権力を得、財産を所有しても、死ぬ時には、一つも持っていく事はできません。私利私欲で、得たものは、死ぬ時には、全て手放さなければならないのに、気持ち悪いぐらいに、欲に任せて活動してしまうのが、愚かなる人間、という事だと思います。 >昔から人間が嫌いでした。 >だれもが汚らしくて、自分も汚くて、いっそのこと他の生き物に迷惑かけずに絶滅してしまえば言いと思う事が良くあります。 「不都合な真実」という本が出版されてますが、人間は、どれだけ最悪の状態を見せられれば、本気で反省できるのか、と、思います。今のままで、環境破壊を続ければ、北極や南極の氷は全て溶けてしまい、地球上の平野部は海の底になりかねません。しかし、アメリカという国は、京都議定書にすら批准する気はなく、産業優先主義を貫いています。 もし、人類として、生き残る、そして、他の生物と共存しようと考えるなら、世界にある会社という会社、の大半を潰し、非産業社会に変革して、技術や便利さ、豊富さ、を捨てなければならない、と考えます。会社が存在する、という事は、確実に環境によくない活動を日々行っている事であり、環境優先で考えるのであるならば、会社そのものを排他するしかないでしょう。ただ、私利私欲の権化が、まさに会社、ですから、まずは、私利私欲を制限して生きる事を啓蒙する等が先決なのだろう、と思います。 欲を制限して生きる、という意味では、仏教の思想がまさにそうであるので、質問者さんは、釈迦の教えや親鸞聖人の教えを読まれると、人としての生き方、が見えてくるかな、と思うので、ご参照下さい。
お礼
なんだか少し、楽になりました。 同じ考えの人もいると思えれば嬉しいんですね わざわざありがとうございました
- true-1
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>なんでこんなに人間という生物は身勝手で汚くて残酷でなんでこんなふうなものにならなければいけないのかよくわかりません。 質問者さんは、上記の表現から、人間不信に近い状態にあると推察します。人というものは、世間で喧伝されているような、キレイな存在ではなく、実は不浄極まりない存在、キタナイ存在、なのです。トレンディードラマに出てくるような人物は、所詮理想化、美化されたものであり、現実の人間が表現されているわけではありません。しかし、メディア等で、日々美化された情報ばかり浴びて生活してしまうと、知らず知らずのうちに刷り込みを受け、キタナイ人間を見ると、ショックを受ける、という結果に陥る、ということです。 下記に、私の回答例と、過去にテーマ立てして書いた文章を載せます。質問者さんの物事の見方、捉え方と比較して、何が真実で、何がデタラメなのか、を、しっかり考えてみて下さい。己で考えることが大事です。 いじめの構造について http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2943129.html (#25) ---------------------------------------------------------------- ◆人は裏切るものか? 人は、ご立派な存在でしょうか? シンプルに答えますと、愚かしい存在です。約束をしていても、相手を軽視して破ってみたり、出来もしない約束を、自分の見栄の為だけにしてみたり、します。約束を破り、謝るのならいざ知らず、言い訳を並び立てる始末ですから、どこからどう見ても、愚かしい、としか言いようがない、それが人間です。 「信用していたのに、裏切られた!」という話はよく聞きますが、これは、人というものは裏切らない、という考えが、その人の中に少なからず存在していたから、起きたという事です。友達と雑談している時は、「人って、裏切ることもあるよね。」と分かったように発言したりしますが、実際に、その人の心の奥底を訪ねていくと、裏切らない人もこの世の中にはいるはずだ、という甘い考えがあったりします。「この人だけは特別。絶対に裏切らない。」という、美化した考えです。 人の真実の姿は、ご立派ではなく、愚かしい存在であるので、”裏切るという行為”をする事ができます。親子、夫婦、友達、会社の同僚、等々、様々な場面で裏切り行為は行われています。では、なぜ裏切るのか?それは、最初から裏切ろうと思っていたからか、自分に都合が悪くなったからか、のどちらかであると思います。例えば、ある友人にお金を200万円貸したとします。10年来の友人なので、必ず返してくれるという信頼を持っていたとします。ところが、ある日、その友人は忽然と姿を消してしまいました。信頼していたのに~、裏切られた、と思う訳ですが、その友人はお金を返すことより、とんずらを選択する方が都合が良かった、と言えると思います。都合次第で、いくらでも裏切れるのが、人というものです。 人を信用してはいけない、人を信頼してはいけない、という事を言っているわけではありません。もし、少しも信用・信頼をしないならば、社会生活を送ることはできません。ここで、述べたいのは、「人は、都合一つで裏切ることができる存在である」という認識を持つ必要があるという事です。あの人だけは、裏切らないという固定観念を持って、仮に裏切られてしまうと、そのショックは計り知れないものになるでしょう。そうならない為にも、事前に真実を知っておくことが大事です。人を美化し、理想化するのは勝手ですが、理想と真実(事実)とのギャップが大きければ大きいほど、人はそのギャップに苦しみます。ですから、自分で創りあげた理想を打ち壊し、真実を知っていく事が重要です。 ◆人の本性は? 人は、本音と建前を持って生活しております。本音だけ、建前だけ、では、当然人生はうまく渡ってはいけません。本音と建前をうまい具合に使い分けしないといけないのですが、相手次第で受け取り方が違う事情から、トラブルになる事も多いかと思います。さて、ここでスポットにあてたいことは、人間の本音とは一体どういったものなのか、という事です。 人の本音とは、本心、本当の心、腹底の心、と言えると思います。この本心というものは、普段気をつけて見ているものではありませんが、キレイなものなのでしょうか?それともキタナイものなのでしょうか? 例えば友人がいきなり、「彼氏ができたの!」、と喜び勇んで報告してきたとします。目の前では、私が世界中の幸せを独り占めしているかのように笑っている友人がいるわけです。「へぇ~、良かったね!」と、あたかも一緒になって喜んでいる表情を見せつつ、内心は、というと、「どんな奴がこんな娘を好きになったんだろう」という悪たらしい事を平気で考えていたりします。これが実は何を隠そう、人間の本心です。決して、キレイなものではなく、キタナイ心と断言しえる醜悪な心なのです。思ってはいけない、いけない、と思いつつも、悪い心が蠢動してしまい、言動や行動に時として露呈し、大失敗を犯したりします。 人を裏切ってしまう心、人に嘘をつく心、人を蹴落とす心、人を罵る心、人を妬む心、人を謗る心、人を卑下する心、人を軽んずる心、自分だけが得しようとする心、等々、数え上げたらキリがない位、人は、本心では悪い事を考えています。浄い心ではなく、真実は、汚い心なのです。自分の心くらいはキレイであって欲しい、という妄想で、汚い、という真実を拒否しがちですが、これが私の本心なのだ、というように、真摯に受け止め、受け入れ、認めることが肝心なことなのです。 ここで注意が必要なのは、本心が悪ならば、悪事を働いてもいいだろう、と短絡的に考えてしまう事です。これは、間違いです。本心が悪である事が認識できれば、その悪を発動させないように注意しながら、日々の生活をしていくのが必要です。もし、自分にとって悪い縁であると分かったならば、その悪縁を遠ざけ、自分の悪性を発動させないように行動する事が大切なのです。 人はよく妄念によって、何事に対しても美化したがります。自分の心は浄い、あの人の心は浄い、というように、心に対しても、間違った美化をしてしまいます。それでいて、自分の本心が汚いという事に気づくと、美化した本心とのギャップに苦しみ、最終的には汚いという事実を押し隠す事をしてしまいます。事実に背いて生きていくという事、これは自分に対して嘘をついて生きていく事になり、精神的なストレスを多く抱える結果となります。 人の本性とは何なのか、その真実をしっかり見極めて、認めていく事が大切です。自分の本性を知ると、少しずつですが、自信がつき、人生に対しての不安も軽減するので、悪性たる自分の心から逃げずに受け入れるよう努力して頂きたいと思います。
補足
私は昔から何故人間は他の動物と違って残酷な事をするのが楽しいのか分かりませんでした。 なぜ必要最低限の欲求以外で別の生き物を殺すのか。 なぜ他の生物の事も考えないで無駄に自分の種を後先考えずに必要以上に繁栄させ、今滅びようとしているのか。 他の生き物達は確かに自然の移り変わりなどで絶滅していった者達もいます。 しかし人間は、その生き物が自分に害を加えるわけでもなく、自分の食べ生きるための衝動でなくて、たわいのない遊びやプライド、単なる服装の為だけに大量の命を奪い、そして満足している。 気味が悪いです。 それなら獣のほうがよっぽど素晴らしく生きていると思います。 よく欲に溺れた象徴とされますが、それは生きるために必要な事だからこそ 時に残酷で時に汚らしく見えるだけです。 人間みたいに見た目を気にして必死に見栄えだけを良くしようとしているほうがよっぽど汚らしくて残酷です。 昔から人間が嫌いでした。 だれもが汚らしくて、自分も汚くて、いっそのこと他の生き物に迷惑かけずに絶滅してしまえば言いと思う事が良くあります。 話がずれてすみません
- qwert21
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いじめというのは、本当に残酷です。 いじめられた方も、いじめた方も、それを見ていた人の心にも、時間が経ってもこんなにも深い傷を残すのです。 本当に、吐き気がする思いです。 イジメは、いじめる方が100%悪いのです。 いじめられている人は、何も原因はありません。いじめる方が、自分の弱い心に負けてしまっただけです。 いじめられた人はどんなに辛かったことでしょう。 いじめという行為は、いじめている人はその時、心が死んでいるんです。 自分で、自分の心を破壊しているのです。 あなたはそれを見て何も出来なかった。自然なことです。現実は、そんなに簡単なものではないからです。 しかしその時、少しでも勇気があったら、何か方法はあったかも知れません。その時、勇気を出せていたら、今の悩みは変わっていたかも知れません。 見て見ぬふりをしていた時、あなたの心は死んでいたんです。その傷は、はかり知れません。人を信じられなくなって当然です。自分も信じられなくなっているのです。 楽しいはずの高校生活が、そんな事で疑心暗鬼になって、苦しく暗い毎日になっているとしたら、あなたがあまりに可哀想です。 イジメなんか、人間として最低の行為です。恐れないで下さい。勇気を出して下さい。 あなたの周りに、必ず味方になってくれる人はいます。ご両親だって、先生だって、誰でもいいんです。 友人だって、少なからず、あなたと同じように感じている人はいるはずですよ。恐がって表面だけ付き合っていたら、できる友人もできなくなります。 もったいないことです。 中学時代に出せなかった勇気を少しでも出して、友人を作っていってみませんか? 高校時代は、人格の土台を作る大切な時です。イジメを絶対に許さない!という強い自分自身を築くために、しっかり勉強して力を付けるのです。 目標を持って下さい。学んで学んで、学びぬいていただきたいです。 脳も、身体も、心も、しっかり鍛えて、「がんばって良かった」と心から思える高校生活を送ってください。
お礼
美化と言われましても… そこは熟知してるつもりです でも結局本当に良い人間がいるのかと言われれば正直いないとおもいます 分かりますか?人間は少しでも弱みを見せればどんなに心が広かろうと 皆に優しい人であろうと本人が気に入らなければ所詮嫌うしかありません 上辺だけそんな優しくされても困るだけですしね。 事実私がそうですから。 凄く優しくしててもだれかに大きい矛先を向けるだけで 自然とその人徳はだれかを追い詰めてるんですよ。 幸せな人は少し価値観が狂うんですね。 まぁ信じなくても上辺だけ取り繕えばだれもわからずに 仲良くしてくれるんでしょうね 自分の感情を表に出さないよう努力します でも人間蔑視は治らないかもしれません。 わたしのような特異な”類”はいないでしょうから。 良い友達を選んだとしてもその人から見てまた嫌われている相手のほうが よっぽど綺麗で”良い友達”に見えるはずですよね。 私もそんな物になってみたいです。 ありがとうございました