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あそびをマジメに哲学すると(エビローグ)

chihokoの回答

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.7

●fishbowl66さんの苦悩のお礼から わたしなりに何かを嗅ぎ取ると  たぶんfishbowl66さんは 現代社会にあそび感をもっと浸透させたい   ということと 全てをあそびとして捉える境地を獲得したい という二つの願いを  持ってらっしゃるように 感じました。    まずあそびの感覚は 極めて個人的なもので 共通の概念として具体的に  客観的に指し示すことは 不可能です。だから わたしの式は 何の役にも  たたないですよともうしあげているわけです。なぜなら あそびは当の本人が  一番良くあそびだと知っているわけで それを式にしたところで 新しい  発見もありません。  さて現代社会の閉塞感とあそびを考察してみましょう。  ツボを振る賭博のあった時代 ねずみ講が機能した時代  遊郭文化が華やいだ時代 おんなが一度の浮気にこころからときめいた時代  平和が続くということはリセットが出来ないという一面を持っています。  つまり あらゆることが積算されていくのです。社会自体が知恵を積算して  字面で賢くなっていきます。だからその積算されたものがわたしたちの  生きることの本体となってしまって 本体以外のあそびを探すことが  かなり難しくなってきているわけです。異性と出会うのはテレクラ・チャット  積算が出会いのドラマのあそびの部分を困難なものにしています。  見方を変えれば 刺激に慣れてしまって あたらしい刺激を創れないし  見つけれないという感じでしょうか。  次にすべてをあそびとして感覚できる境地について考察。  これは わたしの式にあてはめれば 本体を実生活とは無縁のところに  置けばいいわけです。たとえば本体は「無」すべては無にかえるという発想です。  たとえば本体は「DNA」すべてはDNAの存続のためだから もう子供つくったし  あとは野となれ山となれ やりほうだーーい!って感じかな?  ただ すべてをあそびだとおもって生きてると お気楽に生きれるでしょうけど  重職は 回って来ないでしょうね。たぶん・・・。  ま 重職についたところで 幸せになれるわけでもないし・・・。  お礼はごゆっくりでいいですから。お仕事おきばりやすfishbowl66さん。

noname#15238
質問者

お礼

chihokoさん、ご回答有難うございます。 赤い奇跡のため、テンションが上がっていたようです。韓国が負けてほっとしたと言うと誤解を受けそうですが、例えば、初めてのデートで、見栄を張って不相応な高級レストランに行った時の落ち着きの無さと言うか、必要以上に偉そうに振舞ってしまう、安っぽい感覚に冒されていたようです。負けてほっとしている私の精神は「改革者・英雄」とは程遠い精神で、老いを感じる一瞬でした。 男と女のあそびを考察するのも面白そうですね。 あそびのつもりが、いつのまにか、本気になって… あそびと対立するのは「本気」かもしれませんね、今の若者が「真面(マジスカ)?」と言う言葉を頻繁に使用するのは、「マジ」を「本気」とすれば、若者があそびの世界にいるせいでしょうか。 現在の社会は、あそびが困難になったと言うお考えには大いに賛成しますが、すべてをあそびとすることが、お気楽と言えるかどうかは、意見の分かれるところです。 余談ですが、個人のDNAを再生する為、4人の子供(兄弟)が必要だと聞いたような気がしますが、大丈夫ですか。

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