解決済み

あそびをマジメに哲学すると(エビローグ)

  • 暇なときにでも
  • 質問No.298172
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前回は、現実問題に目を向けすぎた為、哲学的考察が不発に終わってしまいました。
今回は、現実に目を背けず、哲学的に、あそびをマジメに考察したいと考えています。

1)あそびとは何でしょうか。私は、「楽しみ・あそびの場・あそびのルール」この三つの要素で成立すると考えています。人間とあそびの関係と共に、皆さんのあそびとは何かを聞かせてください。
2)ホイジンガは、あそびと対立するものとして真面目を挙げていますが、あそびのルールの中には真面目な要素があり、大真面目で行うあそびも有ります、「あそびが真面目になるとあそびで無くなる」この点に関して疑問が残ります、あそびと対立するものは何でしょうか?
3)「すべては、あそびである」と言うホイジンガの結語にロマンを感じますが、そうであるなら、仕事もあそびでなくてはならないと考えます、仕事はあそびでしょうか?

さてさて、あそびの哲学は、不発のまま終わるのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • 回答No.6

ベストアンサー率 25% (19/75)

エピローグを拝見すると,プロローグでの自分は質問の趣旨から外れてトンチンカンな回答をしていたと思いました。今回は軌道を修正して、自由意志により何とかあそびの哲学が不発に終わらぬよう努めます。

さてあそびですが、

1)あそびとは何でしょうか。私は、「楽しみ・あそびの場・あそびのルール」この三つの要素で成立 すると考えています。人間と遊びの関係と共に、皆さんのあそびとは何かを聞かせてください。

あそびとは、子供に於いて端的に見られるように、自由意志に基づく自己の精神的欲求を満たすための行為であり、その方向性は基本的には精神の充足・開放へと向かう。
よってあそびとは、戯れるものであって、戯れられたり、戯れざるを得ない場合には、自己にとってその本来性からは離れてゆくと思います。
あそびがあそびとして成立するには、生活や精神のもつゆとりが必須であることを忘れてはならないでしょう。必要最小限のものが充足されていなければ、真のあそびはきっと成り立たないはずです。あそびの概念に広がりと奥行きを与えているのは、個々の立場や精神的欲求の多様性もさることながら、無意識下で行われるゆとりの線引き加減による相違だと考えます。
また、あそびという言葉は、言葉それ自体に、限定されない曖昧さや余裕といったものを含みもっています。

2)ホイジンガは、あそびと対立するものとして真面目を挙げていますが、あそびのルールの中に は真面目な要素があり、大真面目で行うあそびも有ります、「あそびが真面目になるとあそびで 無くなる」この点に関して疑問が残ります、あそびと対立するものは何でしょうか?

あそびに対立するものは、精神活動を含めた行動を他から限定・強要・束縛されることがらであり、今適当な言葉が見当たりませんが、表現を変えると、自由に対しての不自由に当ると思います。
ホモ・ルーデンスのホイジンガはそれを真面目と言ったとされますが、訳語の不備であるのか、真意であって意味する含みが汲めないだけなのか、著書を読んでいない自分には文脈すら不明ながらも、その言葉のもつニュアンスは少し違うように感じています。
なぜなら、真面目に遊ぶというのはむしろ普通のことであり、例えば好きこのんでヒマラヤへ出かけるなどというあそびは、主体的な真面目さがなければ始めから出来ない相談なのです。真面目に対立する不真面目という言葉は、わが国ではあそびというよりもふざけにあたるでしょう。

行動を規制するルールとあそびの関係は、意識のレベルといったようなことで説明できると思います。
つまり、あそびにおいてのルールは、あえてそれを能動的に受け入れるのであり、この姿勢は、あそびに参加する自由意志の中に前提として含まれているからです。あそびながらルールを学ぶ、というのも普通のことです。
ですから、こうしてあそびを真面目に考えている今も、その行為はあそび心のなせる業と自分では捉えています。

3)「すべては、あそびである」と言うホイジンガの結語にロマンを感じますが、そうであるなら、仕事もあそびでなくてはならないと考えます、仕事はあそびでしょうか?

人の世の不合理な側面を見つめて、世の中はとても合理的に説明しきれるものではない、と考えた時に、あそびについてうえのような語句が発せられることは、あり得るでしょう。
またホイジンガはあそびを積極的に評価して、生活に意味を与えるもの、と考えたようです。
このような考えに従うと、必ずしも仕事とあそびは対立する必要もなく、仕事にあそびを持ち込むことは有益な場合が多々ありそうです。
プラトンという人がその昔、「最高の真面目さを持って事を行うべく価値があるのは、ただ神に関する事柄だけである。人間は唯、神のあそびの具となるように創られたのであり、これこそが人間の最良の部分である」などと、人間世界の出来事を見切るようなことを述べています。
ホイジンガの思想には、この言に照らし合わせると良く見えてくる部分がありそうです。

タモリという人が、「僕らの商売はふざけて何ぼのものだ」と言っていました。
個人的には、仕事が即あそびと言い切ることは出来ませんが、あそびの意義の捉えようによっては、そのように考える人がいても、またそんな職業があっても不思議には思いません。むしろ、それで成り立つ生活は羨ましくも思います。
補足コメント
noname#15238

ご回答ありがとうございます。時間の制約で御礼が遅れることをお許しください。
あそびに関する質問はこれで終わる予定ですから、せっかくのご回答を不発に終わらせないように時間を下さい。
投稿日時 - 2002-06-24 19:28:03
お礼コメント
noname#15238

mcqgogoさん、ご回答有難うございます。
mcqgogoさんのご回答を読んでひらめいたのですが、
あそびの本質は、ひょっとすると、私たちの精神・意識の奥にある、「他人と同じでいたい・他人と違っていたい」と言う自己矛盾の止揚の場ではないでしょうか。
同じフィールドで他人と同化しつつ、個々は競い合ったり役割分担をしたりしてあそぶわけです。しかし、一人であそぶことも出来ますから本質とはいえないかもしれませんね。
動物の子供が戯れるのは、自然の中で生きる為の訓練だと聞いたことがあります、人間の子供もあそびで戯れるのではなく、生きる訓練をしているのかもしれません。しかし、そう言ったものを含めてあそびと言うのかもしれません。人間の多様な意志の基、全ての行為の中から、あそびとあそびでないものの明確な区別を求めたことが間違いだったのかもしれません。
あそびと真面目の関係は個人的には異議は無いのですが、不自由をあそびとするc○○さんの意見も無視できませんね、ここでもあそびと言う言葉の広がりが問題なのでしょうか。
赤と紫の間に無限の色があるにも拘らず、私たちは、赤と紫の間を赤紫と名付けています、本当の赤も、本当の紫も知らない者(私)が、赤紫とは何かと悩んでいるのかもしれません。
「すべてはあそびである」この言葉が人の世の不合理ゆえ発せられたと考えることには私は反対です、mcqgogoさんの考える以上にあそびを積極的、肯定的に評価する必要が有ると思っています。「あそびは自分の為の行為、仕事は(無関係な)他人の為の行為」この現状での未来への不安感が最初の質問の動機だったのかもしれません。
私はあそびの事を問いかけながら、心の奥には仕事とは何かを問いかけていたのかもしれません、自分自身気付かなかった事を気付かせて頂いた回答でした。
投稿日時 - 2002-06-25 19:46:18
感謝経済、優待交換9月20日スタート

その他の回答 (全13件)

  • 回答No.14

ベストアンサー率 25% (19/75)

>人は、あそぶ為に生まれたのではなければ、仕事をする為に生まれたのでしょうか、私はあそびを高く評価する方 法を模索しているのかもしれません。

人、生きるために生まれ
オマケとしてあそびがあった
あそび心は、形而上の宝物ですよ
金魚さん
お礼コメント
noname#15238

mcqgogoさん、いつも最高のタイミングでのご回答を頂き感謝いたします。mcqgogoさんへのお礼で、皆様へのお礼をさせていただくことをお許しください。
あそびの哲学もそろそろ終わりを迎えました、「ホモ ルーデンス」と「ホモ ファーベル」の間で迷っていた私は「ホモ サピエンス」と言う使い古された言葉を忘れていたようです、知性や理性を失った「仕事」を斜めから見て「あそび心の欠如」と捉えることは当然の事だったようです。
あそびの哲学が不発に終わったかどうかは、他者の価値光線の光の中に委ねるしかないでしょう。
>あそび心は、形而上の宝物ですよ
美しい結語を頂き感謝に耐えません、皆さん有難うございました。
投稿日時 - 2002-06-29 05:38:29
  • 回答No.13

ベストアンサー率 45% (884/1957)

1)あそびとは何でしょうか。
人生を料理に例えれば、あそびとは調味料であると思惟します。あそびのない人生は味気ないものです。
では、あそびにおける「さしすせそ」とは?
(もちろん別の解釈もあります)

さ・・・三度の飯より好き
し・・・勝負は時の運
す・・・過ぎたるは猶及ばざるが如し
せ・・・急いては事を仕損じる
そ・・・損して得とれ

2)あそびと対立するものは何でしょうか?
あそびが調味料であるなら、真面目は素材の味と言えます。調味料が素材を殺す場合もありますが、旨く素材を引き立てるならば、対立関係ではなくなり、相補関係となります。

3 仕事はあそびでしょうか?
「すべては、あそびである」とは、調味料が素材に染み込み、絶妙のハーモニーを醸し出した状態ですね。仕事の中に存在するあそび心、それは仕事の醍醐味であります。
お礼コメント
noname#15238

nyozegamonさん、ご回答有難うございます。
あそび心を知った大人の回答です。あそびとは正にこの回答ではないでしょうか。
森の中に入って森が見えなくなった私への「調味料・香辛料・気付け薬」のようなあそび心に満ちた回答です。
投稿日時 - 2002-06-27 19:36:47
  • 回答No.12

ベストアンサー率 13% (14/106)

●言葉とは その使われ方により含まれるイメージが自在に変化する性質と
 認識する人により そのイメージが異なっている性質があります。
 まして「あそび」となるといわずもがな です。わたしの式がそのような
 言葉の性質を乗り越えようとした産物であることは ご理解ください。
 
 さて男と女のアソビの考察ですが アソビがいつのまにか本気になっていた
 と形容される状況を考察してみると あそんでいたらいつのまにか恋におちた
 もしくははじめから恋の範疇であそんでいたなど 状況があきらかに質として
 違うことがあることに気付きます。アソビであっても腰を使う男性の作業は本気でしょうし
 ここでも本気という言葉のあいまいさが露呈します。本気という言葉は恋にも
 真剣にも 真面目にも 苦痛にも あかちゃんにも さまざまにあてはめることができます。
 閉経後の女性のSEXがアソビか?と問われて簡単に分析できない自分を
 観察しております。わたしの「事象=本体+あそび」の式を登場させるのも
 控えねばならないほどの「命の叫び」がそこには確かにあります。
 
 あそびもアソビも 実はわたしたちが論ずる感覚よりずっとずっとはるか
 宇宙の摂理に近い部分に その領域が存在しているのかもしれません。
お礼コメント
noname#15238

chihokoさん、ご回答、有り難き事でございます。
ひまネタの筈が、私自身あそび心を忘れてあそびの範囲からはみ出したような気がします、程々にして置くつもりが宇宙の果てまで来てしまったようです。
chihokoさんに誘われて、腰の使い方に考察を向けたいところですが、如何せん腰の無い「金魚」には儚い夢と諦めざるをえません。
それでも何とか、せっせとお礼を書き込むうちに、皆さんのおかげでご回答をいただけたような気がしています。
このひらめきも、ソクラテスのダイモーンの如く次の瞬間に否定されるかもしれませんし、何時までも関わっていられない自我(DNA)の欺瞞かもしれません。
投稿日時 - 2002-06-27 19:31:13
  • 回答No.11

はじめましてfishbowl66さん なかなか難しいですね。
1)あそびとは何でしょうか。
 私は学習(ものまね)と考えます。
2)あそびと対立するものは何でしょうか?
 私は学習に対して休息と考えます。
3)仕事もあそびでなくてはならないと考えます、仕事はあそびでしょうか?
 私は仕事もあそびで仕事の延長と考えます。
 
時間とともに変わりますが現在思い浮かぶ私の答えです。
下町の凡人代表より。よろしくお願いします。
お礼コメント
noname#15238

dangomushiさん、ご回答有難うございます。
簡潔、シンプルなご回答、私も、常々こう在りたいと心がけています。
表情や、声色といった伝達手段が使えない中、誤解を受けやすいですが、これも一つのあそびのルールという事でしょうか。
人生を自己実現とすれば、その為の学習がすべてということでしょうか、あそびと対立するものを休息とするところなど、私以上にあそびを評価されているような気がします。
私は我儘な凡人の代表かもしれません。いやきっとそうです。
投稿日時 - 2002-06-27 19:20:03
  • 回答No.10

ベストアンサー率 25% (19/75)

#6の者です
熱のこもったお礼をありがとうございます

貴方の遊びへの真剣な思いがよく伝わってきました。
僕自身とても興味ある事柄なので、お礼の内容を元にもう少しお付き合いさせて下さい。

>あそびの本質は、… 「他人と同じでいたい・他人と違っていたい」という自己矛盾の止揚の場ではないでしょうか?

fishbowl66さんはあそびを社会捉えようとし、ぼくは個的に捉える傾向があるようです。
この問いは、カッコの中身を「異なる感情の対立」と置き換え、自己矛盾を一般化することにより、一人遊びにも適用される部分が広がると思います。はらはらしながらドラマを見てハッピーエンドでほっとし、さてトイレでも行くか、などという形や、ジェットコースターに乗ってあそぶのは、これに近いかと思います。
一人遊びとは言いませんが、人から驚かされてもそれが冗談とわかることによって、ユーモアに転じてゆくこともあります。これはあそばれていることになりますが、操られる感情の動きはあそびに近いものがあるでしょう。
しかし本質とはいえないでしょう、その理由は次のことに関連しています。

>あそびとそうでないものの区別

これは確かにいろいろな要素が絡み難しいと思います。
そこで、貴方も触れていますが、あそびの原点や本質を子供の戯れに求めてみてはどうでしょう。彼らは興味惹かれる事柄について無心にあそび、やがて飽きます。
ただその結果得られるものを、目的論的に捉えるか、結果としての所産とするかは見解が分かれると思います。そういえば少し大きくなった子供の頃、あそびに対立していた事柄は勉強であったような気がしてきました。
原型を把握すると後は変形ということで、少し整理しやすくなると思います。社会との関わりの中で、あそびに何が加わり、そして何が忘れられてゆくのか?

塀のペンキ塗りを言いつけられたトム・ソーヤが策を練り、面白そうにその仕事をすることによって友達を羨ましがらせ、彼らから代償を貰いながらそれをやらせてしまった。これはトムが仕事をあそびに代えてしまった古典的な良い例ですが、あそびの本質が行為よりも動機の中にあることを伺わせています。
先に僕が「仕事即あそび」と言うことをためらったときに、トムのことは念頭にあったのですが、仕事としての医療に代表される責任の重いものも考えに容れなくてはならなかったため、言い切ることが出来なかったのです。
仕事を(人の場合は程よく経済を含めた)生活に必要なもの、あそびを生活に意味喜びを与えるものと考えるのはどうでしょう?この見方は、他の生物の仕事やあそびにも応用が利きそうです。

>不自由をあそびとするchihokoさんの意見も無視できませんね、 ここでもあそびという言葉の広がり
が問題なのでしょうか?

愛の反対は無視である、とカルカッタのマザー・テレサは言っていました。
無視などできるわけがありません。(^^;
ここで彼女と違っているように見えるのは、あそびという語の捉えかたではなく、場の捉えかたの違いです。それが遊びを成り立たせる前提と言った、ゆとりに対する考え方なのです。
彼女が言っているのは、不自由でもその場に慣れてしまえば、あそぶことはいくらでも可能だということで、また実践してもいると思います。その足跡がここらに見られるスレッド群です。私などは、あそばされていると言っても過言ではありません。
彼女とは切り口が違うだけで、実は同じことを言っているのです。(^^;

>「すべてはあそびである」この言葉が人の世の不合理ゆえ発せられたと考えることに私は反対です。

この意見には自分なりの裏づけもありますが、それを説明して得られるものよりも、あそびを考えようとする貴方への希望の方が重いので、止揚の場での具にして正反合の形で生かせて貰えれば幸いです。

・前言の訂正および宿題について

「あそびに対立するものは、精神活動を含めた行動を他から限定・強要・束縛されることがらであり、今適当な言葉が見当たりませんが、表現を変えると、自由に対しての不自由に当ると思います。」
ここまで考えてみて、前回答のこの部分を次のように変更したく思います

「あそびに対立するものは、本来的に言えば生活に対しての要請でしょう。」


以上参考にして下さい
お礼コメント
noname#15238

mcqgogoさん、ご回答有難うございます。
熱がこもったと言うより、ハイテンションになって、思い付きを無反省に書き込んでしまい、同時に余計な気配りをしてしまったような気がします。
命に関わる仕事がある以上、すべての仕事をあそびと言い切れないmcqgogoさんの指摘は重要なことだと思います。
結局、最初の質問で、あそびの欠如を社会問題の根本と定義し、それを証明する為には、あそびを有益なもの、人間の行動の本質的なものと捉える必要があったのかもしれません。
細かな違いを無視されるmcqgogoさんの態度に敬意を表します。
人は、あそぶ為に生まれたのではなければ、仕事をする為に生まれたのでしょうか、私はあそびを高く評価する方法を模索しているのかもしれません。
投稿日時 - 2002-06-26 19:55:02
  • 回答No.9

ベストアンサー率 46% (71/152)

No.6でmcqgogoさんが「『すべては、あそびである』と言うホイジンガの結語にロマンを感じますが、そうであるなら、仕事もあそびでなくてはならないと考えます、仕事はあそびでしょうか? 」という問題を提起され、仕事ということとあそびということが必ずしも対立しないのではないか、ということを述べておられました。mcqgogoさんのご回答は、はっきり言ってとても刺激的でした。で、僕なんですが、仕事とあそびが対立しないということをもう少し積極的に捉えて、仕事とあそびはかつて地続きであったと考えてみたいと思います。

というのも、昨日、テレビを観ていたら、どこだったか南の方の島(マダガスカルだったかな?)で、大人はカヌーを作り、魚を獲って生活をしているわけですが、子供は、大人のカヌー作りを模倣して遊んでいるんです。大人がカヌーを作って、あまった木っ端で小さなカヌーを作ります。できたら他の子供たちと一緒に海に浮かべてみる。帆が風を上手にはらめば、すーっと浅瀬を走り出す。そうやって帆の作り方や風の捉え方まであそびの中で学んでいく。ここでは、仕事とあそびの差異、真面目とあそびの差異は、限り無く希薄です。

いまあそびと仕事、あそびと真面目は一般的にはどうも相性がよくないみたいです。あそびと仕事の解離した状況が、あそびからリアリティを奪っているような気がしないでもありません。たぶんそれは仕事と生活の間にお金という緩衝材が挟まった産業/社会構造からの要請なんでしょうけど…。つまり仕事が自分たちの生活を直接作るのではなくて、仕事によって手に入れたお金が間接的に生活を作るという資本主義とか社会主義とか関係なしに、多くの国/地域でとられている産業/社会の構造です。仕事と余暇を明確に分断することが、人間にとって果たしてよいことなのかどうか…。

それでも子供たちは「真面目に」あそぶだろうし、大人だって子供はあそぶことが「仕事」だなんていうでしょう。それが希望か、絶望か判断は数世紀を待たなくてはならないでしょう。かつてあそびと仕事は地続きだった、という歴史学的、人類学的な視角からの指摘がいまの僕には精一杯です。
お礼コメント
noname#15238

jumeさん、ご回答有難うございます。
私の考えを、代弁していただいたような回答です、お金に絡む部分は質問に反映させていませんので驚くと共に、同じ様な疑問を持たれる方がいて心強く思っています。
ただ、mcqgogoさんのご回答に反応して、私の質問だけでは投稿に至らなかった原因を自分自身、反省すると共に質問の作り方を研究する必要がありそうです。
意見の違いはただ一点、数世紀後の事ではなく、現在の問題の根本と私が考えている点です。
投稿日時 - 2002-06-26 19:22:22
  • 回答No.8

ベストアンサー率 22% (121/539)

考えていたら、すごく大雑把な結論になってしまいました。
本人があそびと思ってやっていたら、それはなんであれ、あそび。
私はたぶん、今の生活は80パーセント、あそび。
あとは、やらなきゃ死んじゃうとか、やらなきゃ不便とか、そういうことです。
お礼コメント
noname#15238

mimosa2001さん、ご回答有難うございます。
あそびに客観性は必要ないということでしょうか、確かに一般的にはその通りですが、時々自分であそびか仕事か勉強か判らなくなる時が在るような気もするのですが。
この質問を見て、考えていただけたことに感謝します。
投稿日時 - 2002-06-26 19:14:16
  • 回答No.7

ベストアンサー率 13% (14/106)

●fishbowl66さんの苦悩のお礼から わたしなりに何かを嗅ぎ取ると
 たぶんfishbowl66さんは 現代社会にあそび感をもっと浸透させたい 
 ということと 全てをあそびとして捉える境地を獲得したい という二つの願いを
 持ってらっしゃるように 感じました。
 
 まずあそびの感覚は 極めて個人的なもので 共通の概念として具体的に
 客観的に指し示すことは 不可能です。だから わたしの式は 何の役にも
 たたないですよともうしあげているわけです。なぜなら あそびは当の本人が
 一番良くあそびだと知っているわけで それを式にしたところで 新しい
 発見もありません。

 さて現代社会の閉塞感とあそびを考察してみましょう。
 ツボを振る賭博のあった時代 ねずみ講が機能した時代
 遊郭文化が華やいだ時代 おんなが一度の浮気にこころからときめいた時代
 平和が続くということはリセットが出来ないという一面を持っています。
 つまり あらゆることが積算されていくのです。社会自体が知恵を積算して
 字面で賢くなっていきます。だからその積算されたものがわたしたちの
 生きることの本体となってしまって 本体以外のあそびを探すことが
 かなり難しくなってきているわけです。異性と出会うのはテレクラ・チャット
 積算が出会いのドラマのあそびの部分を困難なものにしています。
 見方を変えれば 刺激に慣れてしまって あたらしい刺激を創れないし
 見つけれないという感じでしょうか。

 次にすべてをあそびとして感覚できる境地について考察。
 これは わたしの式にあてはめれば 本体を実生活とは無縁のところに
 置けばいいわけです。たとえば本体は「無」すべては無にかえるという発想です。
 たとえば本体は「DNA」すべてはDNAの存続のためだから もう子供つくったし
 あとは野となれ山となれ やりほうだーーい!って感じかな?
 ただ すべてをあそびだとおもって生きてると お気楽に生きれるでしょうけど
 重職は 回って来ないでしょうね。たぶん・・・。
 ま 重職についたところで 幸せになれるわけでもないし・・・。

 お礼はごゆっくりでいいですから。お仕事おきばりやすfishbowl66さん。
お礼コメント
noname#15238

chihokoさん、ご回答有難うございます。
赤い奇跡のため、テンションが上がっていたようです。韓国が負けてほっとしたと言うと誤解を受けそうですが、例えば、初めてのデートで、見栄を張って不相応な高級レストランに行った時の落ち着きの無さと言うか、必要以上に偉そうに振舞ってしまう、安っぽい感覚に冒されていたようです。負けてほっとしている私の精神は「改革者・英雄」とは程遠い精神で、老いを感じる一瞬でした。
男と女のあそびを考察するのも面白そうですね。
あそびのつもりが、いつのまにか、本気になって… あそびと対立するのは「本気」かもしれませんね、今の若者が「真面(マジスカ)?」と言う言葉を頻繁に使用するのは、「マジ」を「本気」とすれば、若者があそびの世界にいるせいでしょうか。
現在の社会は、あそびが困難になったと言うお考えには大いに賛成しますが、すべてをあそびとすることが、お気楽と言えるかどうかは、意見の分かれるところです。
余談ですが、個人のDNAを再生する為、4人の子供(兄弟)が必要だと聞いたような気がしますが、大丈夫ですか。
投稿日時 - 2002-06-26 19:10:28
  • 回答No.5

ベストアンサー率 13% (14/106)

事象=本体+あそび この式の各項に他の項をそのまま代入することは
              式そのものが変化してしまいます。

●E=MC2 の場合 EにMを代入しては式の意味がなくなるのと
 おなじことです。 式の中においてあそびはかならずあそびであり
 同じ式のなかの事象や本体になることはありません。
 事象や本体を「遊び」としてあそびを考察することはできます。
 その例は前の回答に示しました。

 どうしてこの式にいきついたのか ということを解説します。
 まずあそびということばから連想する感覚を考察します。カッッコ内は個人的な例です。
 それは楽しみ(ゴルフ)癒し(陶芸)苦痛(SM)快楽(SEX)拘束(仕事)など
 ありとあらゆる感覚があてはまることに気が付きます。また そのすべてが
 あそびでなくなる場合も存在していることにも気が付きます。
 では なぜ仕事があそびという感覚になってしまうのかを考察すると。
 事象として生活があり その本体が遊びや退屈で満たされてしまうと
 本来拘束という自由を縛る性質のある仕事でも 逆にあそびという感覚を
 覚えてしまうわけです。←この感覚がわかる方には わたしの提示した
 「事象=本体+あそび」の式は 分りやすいものと思われます。
 このように あそびという感覚はきわめて個人的な性質を持ち
 しかも ちゃんと社会のなかで特定の概念として機能している必要性があります。
 これから先 人々の生活が多様化するにつれて あそびの定義も多様化し
 結局は わたしの明示した式に寄らざるおえなくなると思われます。
 fishbowl66さんが考察されたように あそびに対比される概念を考え
 全ての事象からあそびを 差し引いたものを考察して 本体という考え方を
 得て さらにあそびと本体以外に事象を構成する要素がないか検証してみた結果
 事象=本体+あそび という式に至っているわけです。

 ただ この式の弱点は なんの役にも立たないというところでしょう・・・。(自笑)
お礼コメント
noname#15238

cihokoさん、ご回答ありがとうございます。
個人的な条件により全ての事象があそびと成りえる訳ですね、私も賛成です、しかし、chihokoさんも仰るように、社会的にあそびとして成立する為には、客観的に社会にあそびと承認される必要も有りそうで、この辺りが難しいですね。
例えば、デザインを考えてみましょう。
プロのデザイナーが、自分の創造意欲を掻き立てるスポンサーに出会い、アイデアが泉の如く沸きあがり、次々とポスターやカンプを仕上げます。本人は楽しい遊びと感じても周りはすばらしい仕事人と認識するのではないでしょうか。
同じデザイナーが、アイデアが枯渇し、必死に知恵を絞っていながら、見た目は、ただ部屋の中をうろうろしたり、ぼんやり天井を見つめていれば、周りの人々は、あそんでいると認識するかもしれません。
或いは、偶然、オープンコンペ等で、プロとアマが同じヘッドコピーを作った場合、同じ行為と結果が、プロは仕事であり、アマはあそびと成ります。(ちょっと違うかな)
ともかく、事象と言う複雑な統一体を持ち出さなくても、個々の行為そのものがあそびの本質では無なく、あそびの本質は行為の奥の意識中にあるのかもしれませんし、外部の客観的価値判断の中にあるのかもしれない。(どうやって締め括ろう、混乱してしまった)
主観と客観が食い違った行為(又は事象)をひとつの言葉で定義することに問題があるのでしょうか。混乱する自分を楽しむのもあそびだと思いますが、今日は時間が無くなってしまいました。
投稿日時 - 2002-06-24 19:26:55
  • 回答No.4

ベストアンサー率 13% (14/106)

●補足いたします。

 事象が遊びだった場合(トランプ)
 トランプの本体はGAMEとすれば たとえばトランプしながらの「おしゃべり」は
 トランプのあそびになります。

 事象が遊び(トランプ)で あそびも本体だった場合
 理論的には「あそび」は存在しないことになります。この状況が社会に対して
 fishbowl66さんが閉塞感を抱かれてらっしゃることのヒントになるかも
 しれません。ただこの場合でも「スーパーあそび」として 意識や概念の外に
 あそびの存在を定義することはできるかもしれません。
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