解決済み

あそびをマジメに哲学すると(エビローグ)

  • 暇なときにでも
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前回は、現実問題に目を向けすぎた為、哲学的考察が不発に終わってしまいました。
今回は、現実に目を背けず、哲学的に、あそびをマジメに考察したいと考えています。

1)あそびとは何でしょうか。私は、「楽しみ・あそびの場・あそびのルール」この三つの要素で成立すると考えています。人間とあそびの関係と共に、皆さんのあそびとは何かを聞かせてください。
2)ホイジンガは、あそびと対立するものとして真面目を挙げていますが、あそびのルールの中には真面目な要素があり、大真面目で行うあそびも有ります、「あそびが真面目になるとあそびで無くなる」この点に関して疑問が残ります、あそびと対立するものは何でしょうか?
3)「すべては、あそびである」と言うホイジンガの結語にロマンを感じますが、そうであるなら、仕事もあそびでなくてはならないと考えます、仕事はあそびでしょうか?

さてさて、あそびの哲学は、不発のまま終わるのでしょうか。
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質問者が選んだベストアンサー

  • 回答No.6
レベル10

ベストアンサー率 25% (19/75)

エピローグを拝見すると,プロローグでの自分は質問の趣旨から外れてトンチンカンな回答をしていたと思いました。今回は軌道を修正して、自由意志により何とかあそびの哲学が不発に終わらぬよう努めます。

さてあそびですが、

1)あそびとは何でしょうか。私は、「楽しみ・あそびの場・あそびのルール」この三つの要素で成立 すると考えています。人間と遊びの関係と共に、皆さんのあそびとは何かを聞かせてください。

あそびとは、子供に於いて端的に見られるように、自由意志に基づく自己の精神的欲求を満たすための行為であり、その方向性は基本的には精神の充足・開放へと向かう。
よってあそびとは、戯れるものであって、戯れられたり、戯れざるを得ない場合には、自己にとってその本来性からは離れてゆくと思います。
あそびがあそびとして成立するには、生活や精神のもつゆとりが必須であることを忘れてはならないでしょう。必要最小限のものが充足されていなければ、真のあそびはきっと成り立たないはずです。あそびの概念に広がりと奥行きを与えているのは、個々の立場や精神的欲求の多様性もさることながら、無意識下で行われるゆとりの線引き加減による相違だと考えます。
また、あそびという言葉は、言葉それ自体に、限定されない曖昧さや余裕といったものを含みもっています。

2)ホイジンガは、あそびと対立するものとして真面目を挙げていますが、あそびのルールの中に は真面目な要素があり、大真面目で行うあそびも有ります、「あそびが真面目になるとあそびで 無くなる」この点に関して疑問が残ります、あそびと対立するものは何でしょうか?

あそびに対立するものは、精神活動を含めた行動を他から限定・強要・束縛されることがらであり、今適当な言葉が見当たりませんが、表現を変えると、自由に対しての不自由に当ると思います。
ホモ・ルーデンスのホイジンガはそれを真面目と言ったとされますが、訳語の不備であるのか、真意であって意味する含みが汲めないだけなのか、著書を読んでいない自分には文脈すら不明ながらも、その言葉のもつニュアンスは少し違うように感じています。
なぜなら、真面目に遊ぶというのはむしろ普通のことであり、例えば好きこのんでヒマラヤへ出かけるなどというあそびは、主体的な真面目さがなければ始めから出来ない相談なのです。真面目に対立する不真面目という言葉は、わが国ではあそびというよりもふざけにあたるでしょう。

行動を規制するルールとあそびの関係は、意識のレベルといったようなことで説明できると思います。
つまり、あそびにおいてのルールは、あえてそれを能動的に受け入れるのであり、この姿勢は、あそびに参加する自由意志の中に前提として含まれているからです。あそびながらルールを学ぶ、というのも普通のことです。
ですから、こうしてあそびを真面目に考えている今も、その行為はあそび心のなせる業と自分では捉えています。

3)「すべては、あそびである」と言うホイジンガの結語にロマンを感じますが、そうであるなら、仕事もあそびでなくてはならないと考えます、仕事はあそびでしょうか?

人の世の不合理な側面を見つめて、世の中はとても合理的に説明しきれるものではない、と考えた時に、あそびについてうえのような語句が発せられることは、あり得るでしょう。
またホイジンガはあそびを積極的に評価して、生活に意味を与えるもの、と考えたようです。
このような考えに従うと、必ずしも仕事とあそびは対立する必要もなく、仕事にあそびを持ち込むことは有益な場合が多々ありそうです。
プラトンという人がその昔、「最高の真面目さを持って事を行うべく価値があるのは、ただ神に関する事柄だけである。人間は唯、神のあそびの具となるように創られたのであり、これこそが人間の最良の部分である」などと、人間世界の出来事を見切るようなことを述べています。
ホイジンガの思想には、この言に照らし合わせると良く見えてくる部分がありそうです。

タモリという人が、「僕らの商売はふざけて何ぼのものだ」と言っていました。
個人的には、仕事が即あそびと言い切ることは出来ませんが、あそびの意義の捉えようによっては、そのように考える人がいても、またそんな職業があっても不思議には思いません。むしろ、それで成り立つ生活は羨ましくも思います。
補足コメント
noname#15238

ご回答ありがとうございます。時間の制約で御礼が遅れることをお許しください。
あそびに関する質問はこれで終わる予定ですから、せっかくのご回答を不発に終わらせないように時間を下さい。
投稿日時 - 2002-06-24 19:28:03
お礼コメント
noname#15238

mcqgogoさん、ご回答有難うございます。
mcqgogoさんのご回答を読んでひらめいたのですが、
あそびの本質は、ひょっとすると、私たちの精神・意識の奥にある、「他人と同じでいたい・他人と違っていたい」と言う自己矛盾の止揚の場ではないでしょうか。
同じフィールドで他人と同化しつつ、個々は競い合ったり役割分担をしたりしてあそぶわけです。しかし、一人であそぶことも出来ますから本質とはいえないかもしれませんね。
動物の子供が戯れるのは、自然の中で生きる為の訓練だと聞いたことがあります、人間の子供もあそびで戯れるのではなく、生きる訓練をしているのかもしれません。しかし、そう言ったものを含めてあそびと言うのかもしれません。人間の多様な意志の基、全ての行為の中から、あそびとあそびでないものの明確な区別を求めたことが間違いだったのかもしれません。
あそびと真面目の関係は個人的には異議は無いのですが、不自由をあそびとするc○○さんの意見も無視できませんね、ここでもあそびと言う言葉の広がりが問題なのでしょうか。
赤と紫の間に無限の色があるにも拘らず、私たちは、赤と紫の間を赤紫と名付けています、本当の赤も、本当の紫も知らない者(私)が、赤紫とは何かと悩んでいるのかもしれません。
「すべてはあそびである」この言葉が人の世の不合理ゆえ発せられたと考えることには私は反対です、mcqgogoさんの考える以上にあそびを積極的、肯定的に評価する必要が有ると思っています。「あそびは自分の為の行為、仕事は(無関係な)他人の為の行為」この現状での未来への不安感が最初の質問の動機だったのかもしれません。
私はあそびの事を問いかけながら、心の奥には仕事とは何かを問いかけていたのかもしれません、自分自身気付かなかった事を気付かせて頂いた回答でした。
投稿日時 - 2002-06-25 19:46:18

その他の回答 (全13件)

  • 回答No.4
レベル11

ベストアンサー率 13% (14/106)

●補足いたします。

 事象が遊びだった場合(トランプ)
 トランプの本体はGAMEとすれば たとえばトランプしながらの「おしゃべり」は
 トランプのあそびになります。

 事象が遊び(トランプ)で あそびも本体だった場合
 理論的には「あそび」は存在しないことになります。この状況が社会に対して
 fishbowl66さんが閉塞感を抱かれてらっしゃることのヒントになるかも
 しれません。ただこの場合でも「スーパーあそび」として 意識や概念の外に
 あそびの存在を定義することはできるかもしれません。
  • 回答No.5
レベル11

ベストアンサー率 13% (14/106)

事象=本体+あそび この式の各項に他の項をそのまま代入することは
              式そのものが変化してしまいます。

●E=MC2 の場合 EにMを代入しては式の意味がなくなるのと
 おなじことです。 式の中においてあそびはかならずあそびであり
 同じ式のなかの事象や本体になることはありません。
 事象や本体を「遊び」としてあそびを考察することはできます。
 その例は前の回答に示しました。

 どうしてこの式にいきついたのか ということを解説します。
 まずあそびということばから連想する感覚を考察します。カッッコ内は個人的な例です。
 それは楽しみ(ゴルフ)癒し(陶芸)苦痛(SM)快楽(SEX)拘束(仕事)など
 ありとあらゆる感覚があてはまることに気が付きます。また そのすべてが
 あそびでなくなる場合も存在していることにも気が付きます。
 では なぜ仕事があそびという感覚になってしまうのかを考察すると。
 事象として生活があり その本体が遊びや退屈で満たされてしまうと
 本来拘束という自由を縛る性質のある仕事でも 逆にあそびという感覚を
 覚えてしまうわけです。←この感覚がわかる方には わたしの提示した
 「事象=本体+あそび」の式は 分りやすいものと思われます。
 このように あそびという感覚はきわめて個人的な性質を持ち
 しかも ちゃんと社会のなかで特定の概念として機能している必要性があります。
 これから先 人々の生活が多様化するにつれて あそびの定義も多様化し
 結局は わたしの明示した式に寄らざるおえなくなると思われます。
 fishbowl66さんが考察されたように あそびに対比される概念を考え
 全ての事象からあそびを 差し引いたものを考察して 本体という考え方を
 得て さらにあそびと本体以外に事象を構成する要素がないか検証してみた結果
 事象=本体+あそび という式に至っているわけです。

 ただ この式の弱点は なんの役にも立たないというところでしょう・・・。(自笑)
お礼コメント
noname#15238

cihokoさん、ご回答ありがとうございます。
個人的な条件により全ての事象があそびと成りえる訳ですね、私も賛成です、しかし、chihokoさんも仰るように、社会的にあそびとして成立する為には、客観的に社会にあそびと承認される必要も有りそうで、この辺りが難しいですね。
例えば、デザインを考えてみましょう。
プロのデザイナーが、自分の創造意欲を掻き立てるスポンサーに出会い、アイデアが泉の如く沸きあがり、次々とポスターやカンプを仕上げます。本人は楽しい遊びと感じても周りはすばらしい仕事人と認識するのではないでしょうか。
同じデザイナーが、アイデアが枯渇し、必死に知恵を絞っていながら、見た目は、ただ部屋の中をうろうろしたり、ぼんやり天井を見つめていれば、周りの人々は、あそんでいると認識するかもしれません。
或いは、偶然、オープンコンペ等で、プロとアマが同じヘッドコピーを作った場合、同じ行為と結果が、プロは仕事であり、アマはあそびと成ります。(ちょっと違うかな)
ともかく、事象と言う複雑な統一体を持ち出さなくても、個々の行為そのものがあそびの本質では無なく、あそびの本質は行為の奥の意識中にあるのかもしれませんし、外部の客観的価値判断の中にあるのかもしれない。(どうやって締め括ろう、混乱してしまった)
主観と客観が食い違った行為(又は事象)をひとつの言葉で定義することに問題があるのでしょうか。混乱する自分を楽しむのもあそびだと思いますが、今日は時間が無くなってしまいました。
投稿日時 - 2002-06-24 19:26:55
  • 回答No.3
レベル11

ベストアンサー率 13% (14/106)

●あそびを考察してみると つぎのような関係が浮かび上がります。
 事象=本体+あそび
 つまり 事象と本体をなににするかによって「あそび」がきまってくるわけです。
 事象を生活としてみて 本体を例えば仕事にしてみましょう。すると
 引き算してみると 仕事以外のことはあそびになるわけです。
 事象を宇宙にしてみましょう。そして本体をわたしの正弦波宇宙論の正弦波に
 すると あそびは宇宙に存在する物質・精神となります。
 事象を生物とすると 本体はDNA するとあそびは やることなすこと
 ぜーんぶあそびだということになり ホイジンガの言うこともあてはまる
 わけです。以上で fishbowl66さんの三つのご質問には 全てお答えしたことに
 なるのですが ご理解いただけましたでしょうか?
 つまり あそびとは 関心を寄せる事象と本体を何と設定するかで
 ひとそれぞれに解釈できてしまうということです。
 極端な場合 ねじのあそびを本体と解釈すれば ねじそのものはあそびにも
 なってしまうということです。さらに言うならば あそびという概念を共有
 したいならば なにを本体とするかを皆で了解する必要があるということになります。
 わたしたちは その本体を漠然と捉えて 見ようともしないところに
 社会における「あそび」の欠如の要因のひとつが あるように感じます。
 わたしたちが 持たなければならない本体とは 例えば幸せというような
 ひとことで表現できるものではなく。幸せとなる方法もふくめた
 究極の理想のようなものとなると思います。そのような本体を認識できて
 はじめて「あそび」がそこに見えてくるのではないでしょうか。
 いや そこに「あそび」が出現すると言い換えた方が 正確だと思います。
お礼コメント
noname#15238

chihokoさん、ご回答ありがとうございます。
確かに、全ての質問への回答を頂きました。分りやすい例えで、なるほどと感心いたしました。しかし、しかし、事象そのものとしてのあそび、又は、行為の全ての目的としてのあそびが欠落していませんか。
>事象=本体+あそび
上記の式で行けば、あそび=事象-本体、本体、事象どちらかをあそびとすると、あそび=事象-あそびとなり、あそび=あそび、で肝心の事象又は本体が消滅してしまいます。
Chihokoさんとは、結構長い付き合いですから、私が揚げ足を取って喜ぶような性格ではない事は理解して頂いていると信じた上での事ですが、回答は確かに正しいと思いますが、別の見方があるような気がするのです。
投稿日時 - 2002-06-23 19:19:14
  • 回答No.2
レベル12

ベストアンサー率 46% (376/804)

fishbowl66さんの前回の質問には的確な答えを返せなかったようですし、今回も空振りになりそうですが・・

今回のご質問に関してですが
ロジェ=カイヨワ「遊びと人間」講談社学術文庫
をすでにお読みになっておられますでしようか。その上での質問であれば、これ以上何も言いますまい。まだであるとすれば一読をおすすめします。

なお、前回のご質問での「あそび」には道家思想での「無」に関連するものも入っていたように思えますが、今回のご質問ではその方面は切り捨てて考えておられると思いますので上記本の紹介だけに留まらせていただきます。
お礼コメント
noname#15238

aminouchiさん、ご回答ありがとうございます。
哲学は難しいですね。前回の反省から意識的に自分の感情を抑えた結果、回答へのインセンティブに欠ける質問になってしまったようです。改めて質問を検討してみると、パワー不足の観が見られますね、「仕事もあそびでなくてはならない」この辺りに意地を見せたつもりですが、不発に終わりそうです。
カイヨワは、余暇の関連で何度も引き合いに出され読んでしまった気になっていましたが実は読んでいません。カイヨワ=余暇=recreation=労働力の再生産のイメージであまり好きではないのです、読まず嫌でしょうか、誤解していたかもしれません。
あそびについては、程々にして本来の道に戻るつもりです、又よろしくお願いします。
投稿日時 - 2002-06-23 19:16:05
  • 回答No.1
レベル12

ベストアンサー率 13% (110/841)

私自身は遊びは楽しむものだと思っています。
例えばカラオケとかするとけっこうすっきりします。
まあカラオケは行くメンバーにもよりますがね。
遊びの哲学というHPがありましたので読んで下さい。
お礼コメント
noname#15238

toppo2002さん、ご回答ありがとうございます。
仰る通り、あそびは楽しまなくてはなりません。あそびの哲学拝見しました、為になる話は説教じみて面白みにかけますね、あそびの哲学は、哲学で、あそびではないですから面白くないのは当たり前かもしれません。私の質問は、あそびの哲学ではなく、哲学のあそびかもしれません、反省。
投稿日時 - 2002-06-23 19:13:20
  • 回答No.7
レベル11

ベストアンサー率 13% (14/106)

●fishbowl66さんの苦悩のお礼から わたしなりに何かを嗅ぎ取ると
 たぶんfishbowl66さんは 現代社会にあそび感をもっと浸透させたい 
 ということと 全てをあそびとして捉える境地を獲得したい という二つの願いを
 持ってらっしゃるように 感じました。
 
 まずあそびの感覚は 極めて個人的なもので 共通の概念として具体的に
 客観的に指し示すことは 不可能です。だから わたしの式は 何の役にも
 たたないですよともうしあげているわけです。なぜなら あそびは当の本人が
 一番良くあそびだと知っているわけで それを式にしたところで 新しい
 発見もありません。

 さて現代社会の閉塞感とあそびを考察してみましょう。
 ツボを振る賭博のあった時代 ねずみ講が機能した時代
 遊郭文化が華やいだ時代 おんなが一度の浮気にこころからときめいた時代
 平和が続くということはリセットが出来ないという一面を持っています。
 つまり あらゆることが積算されていくのです。社会自体が知恵を積算して
 字面で賢くなっていきます。だからその積算されたものがわたしたちの
 生きることの本体となってしまって 本体以外のあそびを探すことが
 かなり難しくなってきているわけです。異性と出会うのはテレクラ・チャット
 積算が出会いのドラマのあそびの部分を困難なものにしています。
 見方を変えれば 刺激に慣れてしまって あたらしい刺激を創れないし
 見つけれないという感じでしょうか。

 次にすべてをあそびとして感覚できる境地について考察。
 これは わたしの式にあてはめれば 本体を実生活とは無縁のところに
 置けばいいわけです。たとえば本体は「無」すべては無にかえるという発想です。
 たとえば本体は「DNA」すべてはDNAの存続のためだから もう子供つくったし
 あとは野となれ山となれ やりほうだーーい!って感じかな?
 ただ すべてをあそびだとおもって生きてると お気楽に生きれるでしょうけど
 重職は 回って来ないでしょうね。たぶん・・・。
 ま 重職についたところで 幸せになれるわけでもないし・・・。

 お礼はごゆっくりでいいですから。お仕事おきばりやすfishbowl66さん。
お礼コメント
noname#15238

chihokoさん、ご回答有難うございます。
赤い奇跡のため、テンションが上がっていたようです。韓国が負けてほっとしたと言うと誤解を受けそうですが、例えば、初めてのデートで、見栄を張って不相応な高級レストランに行った時の落ち着きの無さと言うか、必要以上に偉そうに振舞ってしまう、安っぽい感覚に冒されていたようです。負けてほっとしている私の精神は「改革者・英雄」とは程遠い精神で、老いを感じる一瞬でした。
男と女のあそびを考察するのも面白そうですね。
あそびのつもりが、いつのまにか、本気になって… あそびと対立するのは「本気」かもしれませんね、今の若者が「真面(マジスカ)?」と言う言葉を頻繁に使用するのは、「マジ」を「本気」とすれば、若者があそびの世界にいるせいでしょうか。
現在の社会は、あそびが困難になったと言うお考えには大いに賛成しますが、すべてをあそびとすることが、お気楽と言えるかどうかは、意見の分かれるところです。
余談ですが、個人のDNAを再生する為、4人の子供(兄弟)が必要だと聞いたような気がしますが、大丈夫ですか。
投稿日時 - 2002-06-26 19:10:28
  • 回答No.8
レベル12

ベストアンサー率 22% (121/539)

考えていたら、すごく大雑把な結論になってしまいました。
本人があそびと思ってやっていたら、それはなんであれ、あそび。
私はたぶん、今の生活は80パーセント、あそび。
あとは、やらなきゃ死んじゃうとか、やらなきゃ不便とか、そういうことです。
お礼コメント
noname#15238

mimosa2001さん、ご回答有難うございます。
あそびに客観性は必要ないということでしょうか、確かに一般的にはその通りですが、時々自分であそびか仕事か勉強か判らなくなる時が在るような気もするのですが。
この質問を見て、考えていただけたことに感謝します。
投稿日時 - 2002-06-26 19:14:16
  • 回答No.12
レベル11

ベストアンサー率 13% (14/106)

●言葉とは その使われ方により含まれるイメージが自在に変化する性質と
 認識する人により そのイメージが異なっている性質があります。
 まして「あそび」となるといわずもがな です。わたしの式がそのような
 言葉の性質を乗り越えようとした産物であることは ご理解ください。
 
 さて男と女のアソビの考察ですが アソビがいつのまにか本気になっていた
 と形容される状況を考察してみると あそんでいたらいつのまにか恋におちた
 もしくははじめから恋の範疇であそんでいたなど 状況があきらかに質として
 違うことがあることに気付きます。アソビであっても腰を使う男性の作業は本気でしょうし
 ここでも本気という言葉のあいまいさが露呈します。本気という言葉は恋にも
 真剣にも 真面目にも 苦痛にも あかちゃんにも さまざまにあてはめることができます。
 閉経後の女性のSEXがアソビか?と問われて簡単に分析できない自分を
 観察しております。わたしの「事象=本体+あそび」の式を登場させるのも
 控えねばならないほどの「命の叫び」がそこには確かにあります。
 
 あそびもアソビも 実はわたしたちが論ずる感覚よりずっとずっとはるか
 宇宙の摂理に近い部分に その領域が存在しているのかもしれません。
お礼コメント
noname#15238

chihokoさん、ご回答、有り難き事でございます。
ひまネタの筈が、私自身あそび心を忘れてあそびの範囲からはみ出したような気がします、程々にして置くつもりが宇宙の果てまで来てしまったようです。
chihokoさんに誘われて、腰の使い方に考察を向けたいところですが、如何せん腰の無い「金魚」には儚い夢と諦めざるをえません。
それでも何とか、せっせとお礼を書き込むうちに、皆さんのおかげでご回答をいただけたような気がしています。
このひらめきも、ソクラテスのダイモーンの如く次の瞬間に否定されるかもしれませんし、何時までも関わっていられない自我(DNA)の欺瞞かもしれません。
投稿日時 - 2002-06-27 19:31:13
  • 回答No.13
レベル13

ベストアンサー率 45% (882/1955)

1)あそびとは何でしょうか。
人生を料理に例えれば、あそびとは調味料であると思惟します。あそびのない人生は味気ないものです。
では、あそびにおける「さしすせそ」とは?
(もちろん別の解釈もあります)

さ・・・三度の飯より好き
し・・・勝負は時の運
す・・・過ぎたるは猶及ばざるが如し
せ・・・急いては事を仕損じる
そ・・・損して得とれ

2)あそびと対立するものは何でしょうか?
あそびが調味料であるなら、真面目は素材の味と言えます。調味料が素材を殺す場合もありますが、旨く素材を引き立てるならば、対立関係ではなくなり、相補関係となります。

3 仕事はあそびでしょうか?
「すべては、あそびである」とは、調味料が素材に染み込み、絶妙のハーモニーを醸し出した状態ですね。仕事の中に存在するあそび心、それは仕事の醍醐味であります。
お礼コメント
noname#15238

nyozegamonさん、ご回答有難うございます。
あそび心を知った大人の回答です。あそびとは正にこの回答ではないでしょうか。
森の中に入って森が見えなくなった私への「調味料・香辛料・気付け薬」のようなあそび心に満ちた回答です。
投稿日時 - 2002-06-27 19:36:47
  • 回答No.11

はじめましてfishbowl66さん なかなか難しいですね。
1)あそびとは何でしょうか。
 私は学習(ものまね)と考えます。
2)あそびと対立するものは何でしょうか?
 私は学習に対して休息と考えます。
3)仕事もあそびでなくてはならないと考えます、仕事はあそびでしょうか?
 私は仕事もあそびで仕事の延長と考えます。
 
時間とともに変わりますが現在思い浮かぶ私の答えです。
下町の凡人代表より。よろしくお願いします。
お礼コメント
noname#15238

dangomushiさん、ご回答有難うございます。
簡潔、シンプルなご回答、私も、常々こう在りたいと心がけています。
表情や、声色といった伝達手段が使えない中、誤解を受けやすいですが、これも一つのあそびのルールという事でしょうか。
人生を自己実現とすれば、その為の学習がすべてということでしょうか、あそびと対立するものを休息とするところなど、私以上にあそびを評価されているような気がします。
私は我儘な凡人の代表かもしれません。いやきっとそうです。
投稿日時 - 2002-06-27 19:20:03
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