- 締切済み
理性的になりすぎる事
頭の中身をパソコンのハードディスクのようにして 物事を何でも考えるようにしていることについて 弊害について御意見アドバイスお願いします。 ドラゴンボールに出てくるべジータのような 冷徹で攻撃的で情け容赦ない人間になるのでしょうか。
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
みんなの回答
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
ハードディスクは外部の人間によって情報群を押し付けられておりまして、 自力で取捨選択を行なっているのでは御座いませんから、 若しそれの機能に似た振る舞いを人間が行なおうとするのでしたら、 感情やら欲望やらを完全に抹消させなければなりません。 つまり、遺憾乍ら、 あらゆる言動・行為を自分の判断でさせて貰えなくならざるを得ません。
容量オーバーで壊れてしまうと思います。動きが止まったり、混乱したり、狂人、廃人、そういう類になってしまうかもしれません。 理性はキラキラと星のように、無数に輝いていますが、それだけでいいのだと私は思います。掴もうとすればバランスを崩し足元を掬われます。 軽く考えると理性的になり、重く考えると感情的になる、経験的にはそんな感じでしょうか。 羽のように軽くなるのが理性、泥のように重くなるのが感情、そんな気がします。理性は希薄であり、感情は濃厚であるといっていいかもしれません。 疲れた人には理性が癒してくれますし、 元気で旺盛な人には感情が躍動するのだと思います。 べジータのような人は、非情な人というのではないでしょうか。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
男も女も人間です。 ほぼ、同じ作りです。 なのになぜ、刑務所に入っている殺人犯の90%以上は男性なのか。 何故、多重人格とされる人の90%は女性なのか。 参考になる資料が ↓ <共感する女脳、システム化する男脳> http://www.amazon.co.jp/%E5%85%B1%E6%84%9F%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A5%B3%E8%84%B3%E3%80%81%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B%E7%94%B7%E8%84%B3-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AD%E3%83%B3-%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%B3/dp/4140810343/sr=8-8/qid=1165932664/ref=sr_1_8/250-0192322-3547429?ie=UTF8&s=books と <話を聞かない男、地図が読めない女> http://www.amazon.co.jp/%E8%A9%B1%E3%82%92%E8%81%9E%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84%E7%94%B7%E3%80%81%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E3%81%8C%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%81%AA%E3%81%84%E5%A5%B3%E2%80%95%E7%94%B7%E8%84%B3%E3%83%BB%E5%A5%B3%E8%84%B3%E3%81%8C%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%B3-%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BA/dp/4072352179/sr=1-1/qid=1165932815/ref=sr_1_1/250-0192322-3547429?ie=UTF8&s=books カッバーラを調べてる途中なのですが、人間は三位一体であるべきなんじゃないかと思うようになってきました。 確か左が峻厳で、右が慈悲だったと思います。 生命の木というものに吊り下げられた天と地の間にいるものが人間。 天とは男性原理、地とは女性原理。 というのが私の解釈なんですね。 カッバーラでいくと、人は天 つまり男性原理を目指せとなっているようですが、私は「究極のシステム脳を目指せなどとんでもない。 もはや人間ではなくなりロボットじゃないか。ロボットなどなりたくもない」と思っています。 生命の木の概念には三位一体がある。 主柱の左が峻厳、右が慈悲。 うまくつりあってこそ人間の形を保てる。 どっちかの大きく傾けば、人の形は崩れ去る。 究極の男性原理=究極のシステム脳(無限の個) 究極の女性原理=究極の共感脳(全てが一つ) ユダヤ聖書に世界が生まれる以前は、カオスだったと書かれていますが、なるほどと思えます。 全てが一つで、どこからが自分で、どこからが他人なのか分らない状態=混沌(カオス) 全てが一つの状態から、「光あれ」。 そうして爆発が起こり限りなく広がっていって、一つ一つに距離ができ、その間がどんどん広がっていった。 どんどんわかりあえない状態になっていっている。 人間を機械として捉えると、「人を殺したものは死刑」と法律で決まっていれば、襲われてとっさに突き飛ばして、相手が壁に当たって死んでしまっても、人を殺した以上 死刑となる。 機械が無情に処理していくわけです。 これが究極のシステム脳を持つ人の判断です。 そして他人が死刑になったという話を聞いて、それを自分と同一視してしまい、人生が終ったと思い込み、死人のような状態になる人。 他者の悲劇を自分の体験として取り込んでしまったので、まだ生きているのに、自分は死んでいると思い込んでいる。 これが究極の共感脳を持つ人の状態です。 自分と他者の区別がつかない。 ほとんどの人は、その中間にいるので、事情も聞かずに処刑したり、他人に起ったことが自分に起ったことと知覚しないので、なんとか成り立っているわけです。 ものごとを機械的に考えるだけでは、それは人間の形をしていない。 感情に押し流されきってしまっても、それは人間の形をしていない。 と思っております。 ベジータは・・・・ちらっとテレビで見たことがありますが、彼は人間臭い。 プライドが非常に高い印象を持ちました。 そのプライドの高さゆえに弱い。 腕力が強い者、能力が高いものが優れた者だと思い込んでいて、多くの人を支配し服従させる者こそ王だと思っているが、肝心の自分の心をちっとも支配・コントロールできていないで暴走している。 だから弱い。 実に人間臭い。 と思えましたが、なんせ チラとしか見たことがないので、正しくないかもしれません。 というか チラと見た程度で判断できるもんじゃないですね。 「彼にそういう印象を持った」という程度の感想です。
ハードディスクは物事を考えません。 なんて、論理的なつっこみをすると 冷徹で攻撃的で情け容赦ない人間に思われてしまうのでしょうか? 冷徹で攻撃的で情け容赦ないという像とは少し違うかも知れませんが まあ、あまりいい印象は与えないのではないかと思います。 インターフェイスも大事だ、ってことでしょうか。 そして、冷徹で攻撃的で情け容赦ないようなインターフェイスでは 使えない、ってことでしょうか。 最後に。 ある程度までは論理性や合理性で詰めることが出来ると思います。 でも、数学が自らの正しさを証明できないように (なんて、青臭い表現を久々に使ってみました) 最後は、意志とか信念とか感情に頼らないと 膠着状態に陥るように思います。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
違っていたら申し訳ないのですが、 「理性的」と「合理的」を混同されているのではないでしょうか。 理性は、本能の対義語として捉えるのが自然でしょうし、人間から動物的本性を極力排除した後の、意志に近いものと考えるのが一般的でしょう。 それに対して、「合理性」はあくまで何らかの処理手順に関する方法論でしょうから、理性や人間性が関与しない事柄に関しても発揮することが可能です。 ご質問を「合理的になりすぎること」と把握して私見を述べてみます。 「ベジータ」というキャラクターは知りませんが、 「>頭の中身をパソコンのハードディスクのようにして」思考できる緻密な頭脳を持っているのであれば、 理性的、あるいは人間的な行動をするための方法論を考えなければならない時にもその緻密な合理性は発揮できるでしょうから、理想的な決断を非常に正確に下すことが可能になるはずです。 つまり、「何のために合理性を発揮するのか」という、最も重要で基礎的な部分がしっかりしている人であれば、このようなハードディスク的頭脳は有益なはずです。 しかし、そうでなければ、他人の都合のいいように利用されるだけの人間か、 または、おっしゃるように、「>冷徹で攻撃的で情け容赦ない人間」という評価を受けることになるかどちらかでしょう。 ただ、人間は機械と違って変われますからね。 変革の機会はどこにでもあります。 実に単純なきっけけで視点が180度変わる場合もありますし、 そのような環境に巡り逢えるかどうか、 または、周囲にそのような環境を提供できるだけの上質な人間がたとえ一人でも存在するかどうか、 そして何より本人が自己変革の必要性に気づくかどうか、といったあたりが分かれ目になるような気がします。
- galluda
- ベストアンサー率35% (440/1242)
がると申します。 個人的雑感で恐縮ですが。 「整理された理性的な性格」と「他人に対して冷酷である」との間には、基本的には相関関係はないと思います。 前者は「感情に因らずに判断が可能である」事を指し、後者は「感情を理解できないか或いは理解しようとしない」事を指すので。 「感情については十分に考慮しつつ、必要に応じて"感情に因らない"判断をする」ことは、とても大切だと思います。 ただ、どうしても「感情というものに対して鈍感になりがち」になる可能性は否定できないので。 そのあたりが行き過ぎると、冷徹とかそういったイメージが付随するのかもしれません。 「自分にとっての重要度」と「他人にとっての重要度」っていうのの間には大きな隔たりがありますので。
どんなときにも冷静かつ論理的に物事を考えることができるのであればそれはすばらしいことだと思います。 でも、時には感情を表に出して自分の気持ちを人に伝えるということはコミュニケーションをとる上でとても重要なことではないでしょうか。 とくに、身近な人に対してはなるべく感情を出して接するようにすれば、周りの人のあなたへの理解がより深まると思います。 人によっては意識しなくても感情表現できるものですが、それが苦手な人もときには意識して感情表現してみることも大切なことだと思います。